見慣れない荷馬
三便目の兵は門をくぐる前に馬から降りた。
馬の腹は濡れていない。汗は首の付け根だけに残る。無理に走らせたのではない。途中で止まり、見てから戻ってきた馬だった。
兵の外套には乾いた草の種がついている。北谷筋の草ではない。もっと外側の石混じりの斜面につく細い種だ。
「北谷筋の外です」
門前の声に、砦のざわめきが一段下がった。
エルクが一歩近づく。
「群れか」
「魔物ではありません」
魔物ではない。では何か。問いを口にすれば紙に書く名を求めることになる。まだ名のないものへ名を置けば、次の動きが濁る。
「見たものだけを」
北道確認の控えを開いた。
兵は息を一つ整えた。
「荷馬四。見慣れない馬装。背に細い木枠。荷は油布で覆われていました。人影は六、または七。兵装は見認できません」
記録係の筆が止まる。
「六、または七」
「岩陰で一人が隠れました。数え切れません」
「兵装は見認できない」
「旗なし。紋なし。槍の穂先は見えましたが、形までは分かりません」
剣の柄へ近づいたエルクの手が途中で止まった。
「近づいたのか」
「近づいていません。北の段から西へ回った斜面で見ました。追えば、こちらの人数が割れます」
追わなかった兵の声には悔しさがある。だが間違いではない。二人で追えば二人ぶん砦が薄くなり、三人で追えば荷受けが消える。
「距離は」
「北谷口小砦から半刻ほど外。砦本体からは見通しで二刻弱。道倉までは尾根を回れば三刻以上」
「こちらを見ていたか」
兵は少し迷った。
「道を見ていました」
「砦ではなく」
「はい。道と北谷口の下りを」
紙の上に新しい欄を作る。見た場所/数/荷馬/馬装/人影/兵装/見ていた方向/砦までの距離/道倉までの距離。
書くほど、そこにないものが見えてくる。旗がない。名がない。荷の中身がない。ただ道を見ていたという一点だけは残った。
道を見ている者は、道を使う者でもある。けれど紙にはまだ書かない。荷の中身も足の速さも、こちらの兵が見た範囲を越えている。越えた一字は命令を濁らせる。
ガレスの指が、兵の外套についた草の種を摘まむ。
「ここの草ではないな」
「北谷筋の外れです」
「馬の蹄は」
「深くは残っていません。石が多い場所です。ただ荷馬の足跡は広めでした」
「重い荷か」
「重すぎるようには見えませんでした。速さを落としていません」
荷を運ぶ馬/重すぎない荷/道を見る人影。並べても、まだ名にはならない。
エルクが低く言う。
「偵察か」
「まだ書けません」
「だが、見ている」
「はい。見ています」
そこまでは書ける。見たものだけ。砦内で作った控えの最後に置いた言葉が、また紙の端へ戻ってきた。
北の段から、もう一人の兵が降りてきた。顔に冷えが張りついている。
「北谷筋の群れ、南斜面の下で止まっています。まだ上がりません」
「荷馬は」
「見えません。尾根の外です」
魔物は南斜面の下で止まる。荷馬は尾根の外で道を見る。同じ紙へ置けば関係があるように見え、別の紙へ置けば同時に来ている重さを見落とす。
「紙を分けます」
記録係が顔を上げた。
「別々にですか」
「別々に見てから同じ地図へ置きます」
北谷筋の控え/外側の荷馬控え/砦内不足控え。三枚を板壁の地図の下へ並べた。
同じ紙にすれば話が早い。早すぎる話は、まだ見ていない理由まで作ってしまう。別の紙に置けば見落としも増える。だから紙を分け、地図だけを同じにする。
地図には三つの小さな木片がある。西尾根見張り/古炭道柵/北谷口小砦。北谷口小砦の下に荷馬の位置を薄く書く。南斜面の下には魔物三群の印、道倉には今日止めた荷の印を置く。
離れている。けれど、全部が同じ道を見ていた。
「北谷口へ人を出す」
エルクの声で、地図の前の空気が固くなる。
「何人ですか」
「二人。いや、三人」
「三人出すと、北の段が一人になります」
「二人なら」
「追えません」
顎が固くなった。言い返さない。言い返せない数字だった。
ガレスの視線が地図の下に置かれた荷の印へ落ちる。
「道倉から戻せる車は」
「一台です」
「明日の荷は」
「軽くすれば一台。無理をすれば二台。ただし戻りが夜になります」
「無理をするな」
記録係が別の紙を差し出した。
「砦長からです。北谷口小砦へ、夜明けまでに補助二名を出せるか、と」
紙は机に置かれた。誰が読むかで意味が変わる。命令として読むか、数として読むか。
補助二名の横へ線を引く。北谷口へ二名/北の段二名維持/荷受け明朝一名/夜番二人一組/道倉戻り車一台。
足りない数はすぐ出た。三名。補助二名を出すには三名足りない。
その三名にも、まだ怪我人は入っていない。五日続けて一人で夜番を見た者の眠りも入っていない。紙の上で足りない三名は、砦の中ではもっと重い。
まだ紙面だけの不足ではなかった。
補助を出す場所だけを見れば二人で済む。戻る道を見る者が要り、受け取る飯が要る。抜けた夜番を埋める者も要る。砦の人数は人の形をしているが、紙の上では時間の形になる。
「二名なのに、三名足りないのか」
砦兵がつぶやいた。
「出す二人の食事、戻る時間、代わりに薄くなる夜番まで入れると三です」
人は移せば終わりではない。食う。眠る。戻る。代わりの場所を空ける。紙に二と書かれた命令は、現場では三の不足を連れてくる。
地図を睨んだエルクが言った。
「全部は見られない」
「はい」
「北谷口も南斜面も道倉も、同時には」
「同時には無理です」
認めると、紙を見る目が増えた。誰も驚かなかった。驚かないほど、全員が薄さを知っている。
「では、どこを薄くする」
声がこちらへ向いた。
砦の中にある沈黙は、拒否ではなかった。選べと言われた者が先に失うものを数えている。北谷口の木片も道倉の印も、同じ板の上で動かない。
答えではなく表が要る。怒りでも勘でもない。誰がどこに立つか/どの荷を止めるか/どの道を見ないか。捨てるという言葉を使う前に、捨てた時に残るものを見なければならない。
北谷口小砦の木片が、地図の上で小さく揺れた。開いた扉から入った風が、紐のない木片を動かしている。
北道確認の紙の裏へ線を引いた。
守る場所/置ける人/戻せる荷/見ない道。
次に切るのは、荷ではなかった。




