見送りの短さ
荷馬車の車輪に、乾いた布が巻かれていた。
誰が巻いたのか、すぐに分かった。
布の結び方が雑だ。だが、車輪が石を噛んだ時の音は少し減る。夜道で荷馬車の音を抑えたい時に、兵がこっそりやる手だった。
レインは荷台の横に立ち、布の端を押した。
一日は持つ。二日は持たない。今はそれでいい。
「荷は三台だけか」
御者が不満そうに言った。
「三台だけです」
「王国軍の支援便にしちゃ、軽いな」
「軽い支援ほど、途中で消えやすい」
御者は嫌そうな顔をしたが、反論はしなかった。
積荷は少ない。薬箱二つ、釘箱三つ、革紐、補修布、麦袋十、塩樽一。帳簿では支援要員輸送とあるが、これで辺境領を救えるとは誰も思っていない量だ。
思っていないからこそ、誰も重く見ていない。
「レインさん」
荷台の陰から、ハンスが現れた。
さっきまで水袋を持っていた手には、小さな冊子がある。革表紙ではない。余った命令書の裏紙を束ね、糸で綴じただけのものだ。
「班長からです」
「班長はどこに」
「来ません。来たら目立ちます」
ハンスは冊子を差し出した。
表紙には何も書かれていない。
中を開くと、物資の置き場、橋の幅、二番車と六番車の車軸、負傷兵の移動順、水袋の配分が短く記されていた。字は何人分も混じっている。ハンスだけではない。
「いつ書いた」
「昨夜から今朝にかけて。水を運ぶふりをして」
紙の端には、水滴の跡があった。
たぶん、本当に水を運びながら書いたのだ。誰かが樽の陰で一行を書き、誰かが火のそばで乾かし、誰かが自分の見た車輪のひびを足した。きれいな字ではない。数字の桁もそろっていない。
それでも、現場で見たものだけが並んでいた。
将軍幕舎の報告書より、ずっと使える。
「危ないことをするな」
「役に立つと思ったんです」
返す言葉を探した。
ありがとう、と言えばいいのだろう。
だが、その一言を口にすると、彼らの危うさまで軽く受け取ってしまいそうだった。
「これは原本ではない」
「はい」
「正式記録でもない」
「分かっています」
「なら、現場で役に立つ」
ハンスの顔が少しだけ緩んだ。
「そう言えばいいのに」
「今言った」
「遠いです」
若い兵が笑った。
短い笑いだった。見送りの場で大きく笑えば、誰かに見られる。
近くにいた二人の兵が、荷台へ麻袋を置いた。
「余りです」
一人が言った。
「余ったんじゃない。抜いたんだろう」
兵は目をそらした。
その袖口には、乾いた麦粉がついていた。
炊事場から来たのだろう。炊事場の者が乾パンを抜けば、すぐに数が合わなくなる。数が合わなければ、また誰かが責められる。
善意は、帳簿の上では不正と同じ形をすることがある。
中身は乾パンだった。十枚にも満たない。だが、道中で一食分にはなる。
「持っていけません」
「捨てる予定だった割れ乾パンです」
「捨てる物を布で包むか」
兵は黙った。
レインは麻袋を持ち上げた。
軽い。
軽いが、見送りに出せるものとしては重い。
「受け取る。ただし、次からは自分の分を削るな」
「次があれば」
兵が小さく言った。
言い返せなかった。
次があれば、という言葉は、負けた軍では冗談にならない。
明日の追撃で死ぬかもしれない。
次の橋でまた詰まるかもしれない。
報告書の中で、別の誰かが責任にされるかもしれない。
それでも彼らは乾パンを抜き、布を巻き、見送りに来た。大きな声で感謝を言うより、その方がこの軍ではよほど重い。
「水袋は分けて積め」
ハンスへ言った。
「はい」
「熱のある者は一か所に集めるな」
「はい」
「割れ盾を前列に戻すな」
「はい」
「重い旗は」
ハンスが先に答えた。
「水樽より重ければ、撤退では兵を殺す」
声は小さかった。
それでも、周りにいた兵が二人、うなずいた。
仕事は少しだけ残った。
人の中に。
レインはその二人の顔を見た。
名前は知らない。
知らないまま別れる兵の方が多い。けれど、彼らが次に荷台の前に立った時、重い旗を一度疑うなら、一人分の水が残るかもしれない。
「出るぞ」
御者が手綱を鳴らした。
護衛は六人。
弓を持つ者は一人。
足りない。
荷台に乗る前に、古い木箱を一つ降ろした。
「それは副官室の荷だ」
御者が言う。
「中身は割れた皿です。薬箱の上に置けば、中身も割れる」
「副官室が怒る」
「割れた皿を運ぶために、薬箱を濡らすのですか」
御者は箱と薬箱を見比べ、黙って箱を下ろした。
セドリックは見送りに来なかった。
将軍も来ない。
見送りは短い。
短い方がいい。長くなれば、誰かが余計なことを言い、誰かが余計な目で見る。
馬車が動き出した。
ハンスは敬礼しなかった。
ただ、水袋の紐を一度だけ握った。
そこに薄い紙が入っていることを、レインだけが知っている。
王国軍の野営地が後ろへ流れていく。
背中に残ったのは、処分の紙ではなく、短い記録冊子の重みだった。
いつか現場で役立ってくれ。
誰もそう口にはしなかった。
だが、冊子の白い余白は、その言葉を待っているように見えた。
最初の宿場までに確認するものは決まっている。
水。
馬。
荷台の軋み。
空の革袋。
護衛が逃げずに立てる道幅。
見送りの短さが消える前に、次の損耗を数えなければならなかった。




