消えた帳簿の断片
十五樽、別便回し。
破れた紙の端に、そう読める文字が残っていた。
レインは天幕の出口で足を止めなかった。止まれば、見たことになる。見たことになれば、紙はすぐに消される。
布をくぐり、外の光の中へ出る。
それから荷馬車の陰へ回り、さっきの位置を頭の中で戻した。
処分確認書の下。
薄い紙。
帳簿原本より少し黄色い。
右上に「出庫補」とあった。補助帳の断片だろう。正式な原本ではない。だが、正式な紙に残せない数字ほど、こういう紙に一度逃がされる。
十五樽。
別便回し。
その下に、家名らしい文字が二つ。
ヴァンハ――。
カイ――。
完全な署名ではない。片方は受領欄の端に残った名で、もう片方は封蝋の欠けた印影に残った読みだ。これだけで誰かを追及するには薄すぎる。
だが、薄いからこそ残った。
厚い紙は、権限のある者が持っていく。
薄い紙は、机の下や帳簿の間に残る。書き損じや控え、仮の受領。正式な場では残らない紙ほど、現場の手癖が残る。
十五樽が別便へ回ったなら、問題は干し肉だけではない。
樽を運ぶ馬がいる。
荷車がいる。
夜道を通す見張りがいる。
そして、それを後から後方本部行きに見せる紙がいる。
「レインさん」
ハンスが近づいてきた。
その手には空の水袋が二つある。人に見られてもおかしくない用事を選んできたのだろう。
「水袋の縫い目、直しました」
「助かる」
「署名は」
「終わった」
ハンスは少しだけ唇を噛んだ。
「それで、終わりですか」
「軍の上では」
「現場の上では」
レインは空の水袋を受け取った。
縫い目は粗いが、今日一日は持つ。明日までは分からない。物も人も、今はそういう単位で見るしかない。
「まだ終わっていない」
ハンスの目が動いた。
「何か見たんですね」
「見ていない」
「今、そういう顔でした」
人の感情を見るのは苦手だ。
見られる方は、もっと苦手だった。
水袋をたたみ、荷台の隅へ置いた。
「紙の端に、十五樽という数字があった」
ハンスは息を止めた。
「干し肉ですか」
「分からない。分からないことにしておく」
「でも」
「分かったと言えば、紙が消える。消えれば、次に出るのは整った紙だけだ」
整った紙。
敗戦前日の日付が入った辞令。空欄の本人確認書。出庫欄の斜線。どれも整えるために使われている。
現物は減り、紙だけが都合よく太る。
「家名もありました」
「家名?」
「読めたのは途中までだ。ヴァンハで始まる名と、カイで始まる名」
ハンスの顔には、前者だけ理解が浮かんだ。後者はまだ遠い名前なのだろう。レインにとっても同じだ。いま確かなのは、セドリック個人の癖ではなく、複数の手が紙に触れているということだけだった。
「副官殿の家と」
「同じ始まりだ」
「本人とは限らない」
「そうだ」
「でも、関係ないとも限らない」
「そうだ」
ハンスは水袋の革紐を握った。
「なら、持っていける記録が必要です」
「持っていけるものは限られる」
「昨日の紙束は」
「お前が持っていろ」
「俺が?」
「俺の荷は調べられる。お前の水袋は、たぶん見ない」
ハンスは一瞬だけ怯えた。
無理もない。水袋が記録になるということは、その水袋を持つ者も危うくなる。
紙を持つ者も、鍵を持つ者も、水袋を運ぶ者も危うい。負けた軍では、剣より軽いものほど責任を入れやすい。水袋の縫い目に紙を入れるだけで、ハンスはただの若い兵ではなくなる。
それを分かった上で、渡すのか。
一拍だけ黙った。
渡さなければ、安全かもしれない。
だが、紙は消える。
消えた紙の代わりに死ぬのは、名前を知らない兵や、まだ見ていない辺境の誰かかもしれない。
「嫌なら断れ」
「嫌です」
ハンスは即答した。
それから、慌てて言い直す。
「怖いです。でも断りません」
レインはうなずいた。
「水袋の底に入れるな。濡れる。縫い目の内側、二重になっているところへ薄い紙だけ入れる」
「分かりました」
「見つかったら、縫い直しの当て紙だと言え」
「嘘は苦手です」
「なら、紙だと言え。何の紙かは知らないでいい」
ハンスは小さく息を吐いた。
その顔に、まだ若さが残っている。残っていていい。全部をすぐに覚える必要はない。今は、紙を一枚濡らさずに残せればいい。
「カイで始まる家名に心当たりは」
ハンスは首を振った。
「王都の書記官にいた気がします。直接は」
「名前だけで追うな」
「はい」
「ただ、覚えておけ」
「ヴァンハ、カイ」
ハンスは声に出さず、口だけを動かした。
荷馬車の向こうで、副官室の従卒がこちらを見ていた。水袋を受け渡しているだけに見えるはずだ。だが、見ている時間が長い。
レインは水袋の口を開け、縫い目を指で確かめるふりをした。裂けかけた革を見る。乾き方、縫い糸の緩み、底の厚さ。どれも本当に確認すべきことだった。
本当の作業の中に、別の目的を一つだけ混ぜる。
「戻れ」
レインは言った。
「水袋を班長へ。俺とはしばらく話すな」
「はい」
ハンスは離れていった。
その背を追わず、荷台の積荷を見た。
薬箱。
釘。
革紐。
少量の麦。
帳簿上は支援物資。
現物としては、あまりにも少ない。
そして、消えた十五樽は別便へ回された。
別便とは、どこへ向かう便なのか。
誰の名で出て、誰の印で戻されたのか。
夕刻までに、確認すべきものが増えた。
輸送便の荷札。
護衛の人数。
そして、薄い断片がどの帳簿から破られたのか。




