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追放された雑用係、敗戦処理の天才だった ~崩壊寸前の辺境領を立て直す~   作者: 山田鰻
第二章 追放命令

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消えた帳簿の断片

十五樽、別便回し。


破れた紙の端に、そう読める文字が残っていた。


レインは天幕の出口で足を止めなかった。止まれば、見たことになる。見たことになれば、紙はすぐに消される。


布をくぐり、外の光の中へ出る。


それから荷馬車の陰へ回り、さっきの位置を頭の中で戻した。


処分確認書の下。


薄い紙。


帳簿原本より少し黄色い。


右上に「出庫補」とあった。補助帳の断片だろう。正式な原本ではない。だが、正式な紙に残せない数字ほど、こういう紙に一度逃がされる。


十五樽。


別便回し。


その下に、家名らしい文字が二つ。


ヴァンハ――。


カイ――。


完全な署名ではない。片方は受領欄の端に残った名で、もう片方は封蝋の欠けた印影に残った読みだ。これだけで誰かを追及するには薄すぎる。


だが、薄いからこそ残った。


厚い紙は、権限のある者が持っていく。


薄い紙は、机の下や帳簿の間に残る。書き損じや控え、仮の受領。正式な場では残らない紙ほど、現場の手癖が残る。


十五樽が別便へ回ったなら、問題は干し肉だけではない。


樽を運ぶ馬がいる。


荷車がいる。


夜道を通す見張りがいる。


そして、それを後から後方本部行きに見せる紙がいる。


「レインさん」


ハンスが近づいてきた。


その手には空の水袋が二つある。人に見られてもおかしくない用事を選んできたのだろう。


「水袋の縫い目、直しました」


「助かる」


「署名は」


「終わった」


ハンスは少しだけ唇を噛んだ。


「それで、終わりですか」


「軍の上では」


「現場の上では」


レインは空の水袋を受け取った。


縫い目は粗いが、今日一日は持つ。明日までは分からない。物も人も、今はそういう単位で見るしかない。


「まだ終わっていない」


ハンスの目が動いた。


「何か見たんですね」


「見ていない」


「今、そういう顔でした」


人の感情を見るのは苦手だ。


見られる方は、もっと苦手だった。


水袋をたたみ、荷台の隅へ置いた。


「紙の端に、十五樽という数字があった」


ハンスは息を止めた。


「干し肉ですか」


「分からない。分からないことにしておく」


「でも」


「分かったと言えば、紙が消える。消えれば、次に出るのは整った紙だけだ」


整った紙。


敗戦前日の日付が入った辞令。空欄の本人確認書。出庫欄の斜線。どれも整えるために使われている。


現物は減り、紙だけが都合よく太る。


「家名もありました」


「家名?」


「読めたのは途中までだ。ヴァンハで始まる名と、カイで始まる名」


ハンスの顔には、前者だけ理解が浮かんだ。後者はまだ遠い名前なのだろう。レインにとっても同じだ。いま確かなのは、セドリック個人の癖ではなく、複数の手が紙に触れているということだけだった。


「副官殿の家と」


「同じ始まりだ」


「本人とは限らない」


「そうだ」


「でも、関係ないとも限らない」


「そうだ」


ハンスは水袋の革紐を握った。


「なら、持っていける記録が必要です」


「持っていけるものは限られる」


「昨日の紙束は」


「お前が持っていろ」


「俺が?」


「俺の荷は調べられる。お前の水袋は、たぶん見ない」


ハンスは一瞬だけ怯えた。


無理もない。水袋が記録になるということは、その水袋を持つ者も危うくなる。


紙を持つ者も、鍵を持つ者も、水袋を運ぶ者も危うい。負けた軍では、剣より軽いものほど責任を入れやすい。水袋の縫い目に紙を入れるだけで、ハンスはただの若い兵ではなくなる。


それを分かった上で、渡すのか。


一拍だけ黙った。


渡さなければ、安全かもしれない。


だが、紙は消える。


消えた紙の代わりに死ぬのは、名前を知らない兵や、まだ見ていない辺境の誰かかもしれない。


「嫌なら断れ」


「嫌です」


ハンスは即答した。


それから、慌てて言い直す。


「怖いです。でも断りません」


レインはうなずいた。


「水袋の底に入れるな。濡れる。縫い目の内側、二重になっているところへ薄い紙だけ入れる」


「分かりました」


「見つかったら、縫い直しの当て紙だと言え」


「嘘は苦手です」


「なら、紙だと言え。何の紙かは知らないでいい」


ハンスは小さく息を吐いた。


その顔に、まだ若さが残っている。残っていていい。全部をすぐに覚える必要はない。今は、紙を一枚濡らさずに残せればいい。


「カイで始まる家名に心当たりは」


ハンスは首を振った。


「王都の書記官にいた気がします。直接は」


「名前だけで追うな」


「はい」


「ただ、覚えておけ」


「ヴァンハ、カイ」


ハンスは声に出さず、口だけを動かした。


荷馬車の向こうで、副官室の従卒がこちらを見ていた。水袋を受け渡しているだけに見えるはずだ。だが、見ている時間が長い。


レインは水袋の口を開け、縫い目を指で確かめるふりをした。裂けかけた革を見る。乾き方、縫い糸の緩み、底の厚さ。どれも本当に確認すべきことだった。


本当の作業の中に、別の目的を一つだけ混ぜる。


「戻れ」


レインは言った。


「水袋を班長へ。俺とはしばらく話すな」


「はい」


ハンスは離れていった。


その背を追わず、荷台の積荷を見た。


薬箱。


釘。


革紐。


少量の麦。


帳簿上は支援物資。


現物としては、あまりにも少ない。


そして、消えた十五樽は別便へ回された。


別便とは、どこへ向かう便なのか。


誰の名で出て、誰の印で戻されたのか。


夕刻までに、確認すべきものが増えた。


輸送便の荷札。


護衛の人数。


そして、薄い断片がどの帳簿から破られたのか。

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