弁明は許されない
「弁明は、記録に残せません」
軍監役の書記官は、羽ペンを持ったまま言った。
朝の将軍幕舎とは別の、小さな記録用天幕だった。入口の布は半分だけ開いている。外では兵が荷を結び直し、馬の蹄を確かめていた。夕刻には北東へ向かう輸送便が出る。
その前に、レインは処分確認書へ署名するよう命じられた。
卓上には羊皮紙が三枚。
一枚目は辞令。
二枚目は原本返納確認。
三枚目は、補給混乱に関する本人確認書。
どれも、レインが何を言ったかではなく、レインが何を認めたことにするかを書いてある。
「では、事実確認だけを」
三枚目の紙を指した。
「ここに『軍備品の無断廃棄』とあります。廃棄した品目、数量、廃棄時刻、立会人を追記してください」
書記官の眉が少し上がった。
「必要ありません。概括記録です」
「概括では、後で現物と照合できません」
「照合は上が行います」
「上が行うなら、下から出す数字が必要です」
セドリックはいない。
だが、この書記官の声には、セドリックの置いた結論が染みていた。質問を受ける形をしているだけで、答えを書く欄は最初から閉じられている。
「レイン・アストラ。これは査問ではありません」
「では何ですか」
「確認です」
「確認なら、確認した内容を正しく書いてください」
外で馬が鼻を鳴らした。
書記官は羽ペンを置き、別の紙を取り出した。
「あなたは、本日付で第三兵站隊の職務を解かれました。以後、軍務上の帳簿に関する閲覧権限はありません。よって、追記要求も受けられません」
順番が逆だ。
処分確認のために呼び、確認に必要な記録は見せない。発言を求めず、署名だけを求める。
卓上の三枚をもう一度見る。
辞令の日付は敗戦前日。
原本返納確認の日付は今日。
本人確認書だけ、日付欄が空いている。
あとから入れられる紙だ。
紙の端には、すでに折り目がついていた。今朝初めて作られた紙ではない。誰かが何度か開き、閉じ、必要な欄だけを空けて待っていた紙だ。負ける前に処分先が決まり、負けた後に理由だけを書き込む。
辞令の日付の不自然さとも噛み合う。
だが、ここでそれを言えば、作り話だと笑われる。
作り話かどうかは、まだどうでもいい。
重要なのは、紙が現物より先に動いていたことだ。
「日付欄が空です」
「最後にまとめて記入します」
「署名時刻も空です」
「同じです」
「この紙は、私が何時に何を確認した記録ですか」
書記官の目が細くなった。
「あなたは、細かい」
「細かくない紙ほど、人を殺します」
羽ペンの軸が、書記官の指の中でわずかに鳴った。
怒りでも、迷いでもない。
この紙を早く終わらせたい者の手だ。
「署名しなければ、転任便を遅らせることになります」
「遅れれば困るのは、私だけですか」
書記官は答えなかった。
輸送便には薬箱と釘、補修用の革紐、少量の麦が積まれる予定だ。ハルヴェイン辺境領への支援物資。少ないが、現物だ。
レインが署名を拒めば、処分者が命令に従わなかったという記録が増える。輸送便も止まる。荷も遅れる。
外から、荷台に木箱を載せる音がした。
一つ。
少し間を置いて、もう一つ。
音だけで中身の重さはだいたい分かる。薬箱なら布で包まれて鈍い。釘箱なら角が鳴る。今の音は、中身が軽く、外側だけが硬い箱だった。
支援物資に混ぜるには、嫌な音だ。
後で見る必要がある。
だが今、席を立てば署名拒否にされる。
順番を間違えれば、どちらも失う。
目の前の紙を一行でもましにする。
そのあとで、荷台を見る。
「確認書の末尾に、一行だけ入れてください」
「何を」
「本人は、補給不足の数量、出庫記録、後方本部受領印の照合を求めた。軍監役は、転任命令後のため閲覧権限なしと回答した」
書記官は黙った。
その一行は、誰も責めていない。
ただ、何を求め、何を拒まれたかが残る。
だから嫌なのだ。
「不要です」
「では署名欄の横に、私が書きます」
「許可できません」
「弁明ではありません。確認です」
書記官の口元が固くなった。
天幕の外で、誰かが布を揺らした。副官室の従卒だ。こちらを見ている。
書記官は従卒を一度だけ見た。
それで十分だった。
この紙は、この天幕だけで作られていない。
「レイン・アストラ」
書記官は低く言った。
「あなたの任地は、ハルヴェイン辺境領です。ここで紙にこだわっても、戻れるわけではありません」
「戻るためではありません」
「では何のためです」
「同じ紙で、次の誰かが捨てられないようにするためです」
沈黙が落ちた。
外の従卒が小さく舌打ちした。
書記官は三枚目の端に、短い一文を書き足した。
完全ではない。
「本人、照合希望あり。権限外につき却下」
わずか一文だった。
だが、空欄よりはましだ。
レインは署名した。
署名の横に、時刻も小さく入れた。
書記官はそれを止めなかった。止めるには、もう一言多く説明しなければならないからだ。
紙の上で負け方を少し変えた。それだけだ。
ただ、後で誰かがこの紙を見る時、署名だけではなく時刻も見る。時刻を見れば、辞令の日付との差に気づく者がいるかもしれない。気づかなくても、時刻は残る。
天幕を出る直前、書記官の手元が見えた。
処分確認書の下に、一枚だけ違う紙が挟まっている。
紙質が薄い。
帳簿原本から破られた断片に似ていた。
書記官は気づいていないのか、気づかないふりをしているのか。
端に、黒い墨で短く数字が残っている。
十五樽。
その下に、家名らしい文字が二つ、半分だけ覗いていた。




