道中の損耗
宿場跡の井戸は、底が見えた。
レインは縄の長さを手で測り、桶が水面へ触れる前に石へ当たる音を聞いた。深い井戸なら、こんな乾いた音はしない。
「水はあるんだろう?」
護衛の一人が、槍を肩に担いだまま言った。
若い。鎧は新しいが、革紐の結び方が甘い。戦場帰りではなく、後方から寄せ集められた兵だ。
「ある」
縄を引き上げた。
桶の底に、濁った水が指二本分。
「使える量ではありません」
護衛兵の顔が曇る。
「次の宿場まで行けばいい」
「その次の宿場も、生きていれば」
「縁起でもないことを言うな」
縁起で桶は満ちない。
井戸の縁についた削り跡は新しかった。桶を深く下ろそうとして、何度も石へ当てた跡だ。ここを使った者が、水が少ないと知っていながら、汲み切ろうとした。
「この宿場を最後に使った商隊は、空の革袋を持って出たはずです」
御者の老人が眉を上げた。
「なぜ分かる」
「井戸を空にしようとした跡があります。水が十分なら、ここまで縄を擦らない。宿場の樽も空です」
宿場跡には人がいない。
厩舎には黒く固まった藁。壁には古い煤。戸口には、商人が置いていったと思われる割れた壺。中に白い結晶が残っていた。
塩だ。
「塩を捨てたのか」
護衛兵が壺を覗いた。
「捨てたのではなく、持てなかった」
「塩なんて軽いだろう」
「濡れれば重い。袋が破れれば運べない。水がなければ、人の方を優先する」
護衛兵は黙った。
宿場の掲示板には、古い紙が一枚だけ残っていた。雨で字は流れているが、下の方に数字が見える。
塩、小袋一つにつき銅貨五枚。
王都近くなら二枚で済む。
倍ではない。
二倍半だ。
「薬布は」
御者が紙を横から覗いた。
「この辺じゃ、もう布屋が置かん。金を払っても届かねえからな」
塩が高く、薬布が来ない。
商人が避ける道は、地図より先に値段へ出る。
道中に入る前、レインはハルヴェイン方面の損耗を見積もっていた。
橋が一つ落ちている。
商人の便は減っている。
塩と薬が細っている。
それでも、領境までは最低限の宿場が残っていると思っていた。
甘かった。
宿場は残っていない。
建物の形だけが、地図に残っている。
地図の上では、ここはまだ補給点だった。
馬に水を飲ませ、荷を締め直し、護衛を交代させる場所。だから出発前の見積もりでは、この宿場で一度整え直せると置いていた。
実際には、整えるどころか、ここに残った空白を埋めるためにこちらの水を削ることになる。
読み違えは、数字の誤差ではない。
次に誰が倒れるかを変える。
「今日中に次へ進む」
レインは言った。
「水が少ないなら休むべきだろう」
「ここで泊まれば、明日の朝に水がない。進めば、途中の沢に当たる可能性がある」
「可能性?」
「地図では二刻先に沢があります」
「地図では、か」
御者が苦く笑った。
地図では生きているものが、現物で死んでいる。今、その一つを見たばかりだった。
「読みが甘かった」
小さく言った。
護衛兵が意外そうに顔を向ける。
「あんたでも外すのか」
「外します」
「じゃあ、どうする」
「外れた分を、今から直す」
言い訳で水は増えない。
必要なのは、次の手だ。
自分の読み違いを認めるのは、気分の問題ではない。
「革袋を全部出してください。裂けかけのものは荷台ではなく、人が持つ。揺らすと漏れる。薬箱の布を一枚外し、壺の割れていない底を包む。塩は拾える分だけ拾います」
「捨てられた塩だぞ」
「雨が降れば終わります」
御者が先に動いた。
老人は文句を言わない。手綱を握る者は、道が死ぬと荷が死ぬことを知っている。
護衛たちも遅れて動く。
拾えた塩は、小袋で四つにも満たなかった。
それでも保存食を数日延ばせる。汗をかいた兵の喉も少し戻せる。家畜がいれば、もっと価値がある。
宿場の裏手に、細い足跡があった。
子どものものだ。
壺の破片の周りを何度も回り、宿場の裏山へ消えている。
近くの村の子どもが、塩を拾いに来たのだろう。
商人ではない。
兵でもない。
領民が宿場跡の破れ壺から塩を拾っている。
レインの見積もりより、治安も財政も一段深いところまで傷んでいた。
塩が足りなければ、保存食が持たない。
保存食が持たなければ、商人は長く滞在できない。
商人が来なければ、村は塩を買えない。
輪が閉じている。
どこか一か所を切らなければ、同じ不足が同じ道を回り続ける。
「急ぐぞ」
荷台へ戻った。
「慎重に行くんじゃなかったのか」
護衛兵が言う。
「慎重に急ぎます」
「どっちだよ」
「止まる場所を減らす。日暮れまでに沢へ出る。出なければ、革袋の残りで夜を越す」
馬車が動き出した。
道は細く、轍は古い。
草の倒れ方だけが新しかった。
誰かが道に沿って歩いている。鹿ではない。鹿なら斜面を横切る。人は道を見るために、道沿いを進む。
「後ろに弓を」
レインは言った。
「正面じゃなく?」
「この道幅なら、正面から大人数は来ません。来るなら後ろです」
護衛兵は今度、すぐに動いた。
信用ではない。だが、指示を聞くまでの時間が短くなった。
夕方、沢は地図より細かったが、まだ流れていた。
「全部汲まないでください」
泥を混ぜれば、明日の水が死ぬ。
護衛兵の一人が、そこで初めて何も言わずに桶を止めた。
昨日なら「もったいない」と言ったはずだ。
変わったのは、レインの説明ではない。空の井戸を見たことだ。
その夜、見張りに立った弓兵が暗がりから戻ってきた。
「さっきの足跡、増えてます」
宿場跡から離れたはずの草むらで、湿った葉が新しく倒れていた。
誰かが、こちらの荷を見ている。




