痩せた領境
領境の標石は、半分だけ泥に埋もれていた。
レインは荷馬車を降り、石の表面に張りついた苔を指で払った。かすれた文字が出る。
ハルヴェイン辺境領。
矢印は山側を指している。だが石は傾き、根元の土は雨で流れていた。誰かが直そうとした跡はある。石の下に小さな木片を噛ませているが、木は黒く腐りかけていた。
直す手が、途中で足りなくなったのだ。
「ここから先が、そうか」
護衛兵が声を落とした。
昨日まで軽口を叩いていた男だ。今は槍の柄を握り直し、道の先を見ている。
夜明けまで襲撃はなかった。
だから安全、ではない。
追ってくる足が消えた理由は、諦めたからかもしれない。こちらが止まる場所を待っているだけかもしれない。どちらにせよ、荷を抱えた者が道の上で考え続けることではなかった。
「進みます」
レインが言うと、御者は黙ってうなずいた。
馬車は標石の横を抜けた。
道は、領境を越えた瞬間に細くなった。
正確には、急に悪くなったわけではない。悪い道が、ここで隠すのをやめただけだ。轍の底には水が残り、側溝は草に埋もれ、次の道標は倒れたまま土に半分沈んでいる。
畑はある。
荒地ではない。
ただ、畝の間に雑草が伸びていた。用水路の石組みは片側だけ崩れ、そこから漏れた水が畑の端を湿らせている。遠くの村から煙は上がっているが、数が少ない。
死んだ土地ではない。
手を離されている土地だ。
手を離された土地は、すぐには叫ばない。畑はまだ畑の形をしている。水路も完全には干上がっていない。村の煙も細いながら上がっている。遠目には、まだ保っているように見える。
だが、畝の草を抜く手が足りない。
崩れた石を戻す手が足りない。
塩を買いに行く荷車が足りない。
「思ったより悪いな」
御者が手綱を緩めた。
「昔はこの辺りで商人が列を作ったもんです。税の確認に時間がかかって、文句も多かった」
「今は」
「文句を言う商人がいない」
それは静かさではなく、流れが止まっている。
税を取る相手がいなければ、役所は痩せる。商人が来なければ、塩も薬布も細る。細った物資を補うために取り立てを早めれば、畑から種が消える。
村は、いきなり貧しくならない。
最初は買う釘を一箱減らす。
次に、壊れた鍬をもう一年使う。
その次に、塩を秋まで待つ。
最後に、種を食う。
道の細さは、その順番を外へ見せているだけだった。帳簿に載る頃には、たぶん遅い。
「荷を確認します」
荷台の覆い布を上げた。
薬箱二つ、釘箱三つ、革紐と補修布。麦袋十に塩樽が一つ、乾パンの小袋、昨日の記録冊子。そして、ハンスの水袋に入れた薄い紙。
少ない。
少ない荷ほど、配る順番を間違えると早く死ぬ。
「領都までは?」
「道がよければ半日」
御者が答えた。
「この道なら」
「夕方ですな。止まらなければ」
止まらなければ。
その条件が、この領ではいちばん危ない。
「馬を休ませすぎない」
短く答えた。
「休ませないのか」
護衛兵が聞く。
「長く止まれば、再び動かす時に余計な力を使います。短く、回数を決める。次の乾いた場所で一度。領都前で一度」
「水は」
「馬には少量ずつ。人は口を湿らせる程度。領都へ着くまで革袋を空にしない」
護衛兵はうなずいた。
昨日より早い。彼らが信じたのはレインではなく、空の井戸と細い沢と、塩を拾う足跡だった。
「あれは何だ」
弓兵が前方を指した。
道の脇に、小さな荷車が傾いていた。車輪は外されていない。荷台に積まれていたらしい藁袋は破れ、中身だけが抜かれている。
鉄輪は残っている。
留め金も残っている。
食えるものだけが消えている。
「止まるな」
護衛兵がこちらを見る。
「調べないのか」
「調べれば分かります。近くの村が飢えている。荷車の持ち主は戻っていない。それ以上は、今ここで分かっても対処できません」
「見捨てるのか」
問いは軽くなかった。
破れた袋。
浅い轍。
小さな足跡。
目をそらせば楽になるものではない。
「今止まれば、薬箱も塩も領都に届きません。届かなければ、助けられる数がさらに減ります」
護衛兵は唇を結んだ。
納得してはいない。
納得してから動ける道ではなかった。
荷馬車は進んだ。
道の先に、低い城壁の影が見え始める。
領都グランベルク。
まだ遠い。壁の上の旗は小さく、色も薄い。けれど落ちてはいない。誰かが上げ直している。
そこだけは、まだ手が動いている。
レインは記録冊子を開き、最初の空欄に短く書いた。
領境、道痩せ。
宿場、水なし。
塩不足、村まで波及。
荷車、食料のみ抜かれる。
領都到着後、最初に見るもの。
門。
井戸。
倉庫。
歓迎の挨拶ではない。
領主館の客間でもない。
門前に商人の列はなかった。
荷を改める役人の声も聞こえない。
税を待つ荷車がない。
荷を数える札もない。
門前の水桶は縁が乾き、踏み固められているはずの土には、草が細く伸びていた。人が通らない場所から先に、道は道でなくなる。
古い馬糞だけが、雨に崩れて黒く残っていた。
それでも門は閉じきっていない。
閉める力も、開ける力も、どちらも足りないのだ。
近づく馬車に気づいた門番の影が二つ、壁の下でようやく動いた。片方が扉へ手をかける。遠目にも、その動きは重かった。
背後には、王国軍の野営地も、セドリックの幕舎も、もう見えない。
前には、まだ顔も知らない領主家と、数えたことのない倉庫と、壊れかけた道がある。
だが、荷馬車は進んでいる。
進むなら、捨てられた先でも順番は作れる。
まずは、門が開くかどうかを見る。




