空車の行き先
「荷のない車にも札を出すのか」
エルクの声が門前の朝に落ちた。昨日の夕方、道の端で止まっていた空車がまだそこにある。荷台に袋も箱もない。敷き板だけが乾き、車輪の泥も少ない。
御者は帽子を胸に当てた。
「荷はこれから積むんです」
「何を」
「決まっていません」
門の者が札を置きかけて手を止める。塩でも縄でも薬種でもない。戻る荷も持ち込む荷もない。それでも車だけが門前にいる。
メイナの筆先が浮いた。
「待ち札を出しますか」
「まだ出しません」
荷台の角を見る。古い車だが板は乾いている。軸には新しい油が入り、馬は一頭。脚に腫れはない。ただ重荷を長く引いた痕が膝に残っていた。
「どの道を通って来ましたか」
「西回りです」
「西回りで何を下ろしました」
御者の目が少し泳いだ。
「下ろしていません。空で来ました」
ルシアが腕を組む。笑っていない。
「空で来た車は高くつくよ」
「荷を待っている間も馬は食います」
「だから先に札が欲しい?」
御者は帽子を握ったまま頷く。商人ではない。荷主の顔でもない。道で馬を貸し、車を貸し、空きが出たら荷を拾う者の顔だった。
「待ち札は荷につけます」
御者の肩が落ちる。
「車にはつかないのですか」
「車だけに札をつけると、誰の荷を待っているのか消えます」
ミリアが掲示台へ紙を一枚足した。昨日作った待ち札の横に、細い空欄が加わる。荷主/積む車/損の相手。空車を待たせるなら、この三つが先に要る。
「荷主がいない車は門の内側へ入れません。ただし村へ戻る荷を運ぶ車としてなら使えます」
御者が顔を上げた。
「運び賃は」
「荷ごとに出します。先払いはしません」
「待つ間は」
「門の外で待つ。馬の水は井戸番の確認を受けてから」
不満が喉元まで来て、飲み込まれた。御者は空の荷台を一度見てから、札ではなく馬の手綱を握り直した。
最初に載せたのは炭ではなかった。東井戸村へ回す井戸縄二束。昨日の縄商から受けた少し湿った束だ。屋根補修には回せないが、井戸周りなら乾かしながら使える。次に小釘の残りを小袋へ分け、薬種の乾き葉一包を配給控えへ移した。
「炭じゃないのか」
御者の声に、昨日の塩商が反応した。炭希望の待ち札を持って門の横に立っている。
「炭は乾燥棚です」
メイナが表から目を上げずに答えた。
「今日動かすのは井戸縄と釘です」
「炭の方が売れる」
「売れる物から出すと、冬前に穴が残ります」
ミリアの声で塩商が口を閉じた。昨日より引き下がるのが早い。札を持ったまま、空車の荷台を見ている。
荷は軽い。だからこそ空車に積める。
エルクが兵を二人、車の左右につけた。
「護衛か」
御者が聞く。
「違う。途中で荷を足させないためだ」
兵の顔が少し硬くなった。戦場で敵を見るより、空の荷台を見る方が勝手が違うのだろう。
道倉印は門を出る前に押した。東井戸村へ井戸縄二束。屋根下の釘小袋一。乾き葉一包は途中の配給小屋で下ろす。戻りは壊れ桶の金具と空袋。商人戻しはなし。
縦に並べず一つの行に収める。荷が増えるほど、表を読む者が減る。メイナの筆が狭い欄の中で折り返した。
「読みにくくなります」
「行を増やすと別の荷に見えます」
「では印を変えます」
子どもが縄の切れ端を持って来た。待ち札の短い端/戻り荷の横結び/配給のひと結び。昨日増やした区別に、道倉印の小さな黒点を合わせる。
「黒点は道で開けない荷です」
ミリアが確認する。
「はい。村で開ける物と途中で下ろす物を分けます」
御者が小さく息を吐いた。
「そんなに分けるのか」
「分けないとなくなります」
ガレスが荷台の後ろで縄を引いた。強くない。だが緩まない。湿った縄束が揺れず、小釘の袋が板の角に当たらない位置で止まった。
空車は一番鈴の終わりに門を出た。
戻って来たのは昼を少し過ぎてからだった。御者の帽子に井戸の水が乾いた跡がついている。荷台には壊れ桶の金具三つ、空袋二枚、泥のついた小さな木枠一つが載っていた。
「木枠は予定にありません」
門の者が言う。御者はすぐに答えなかった。
「村の者が、ついでに頼むと」
エルクの兵が木枠を持ち上げた。重くはない。けれど泥の中に赤い染みがある。血ではない。錆だ。金具が腐り、井戸口の端を削っていた跡だった。
「持ち帰って正解です」
木枠の角を見る。
「ただし予定外として戻り表へ入れます。次から、ついでは別札です」
御者の肩から力が抜けた。
「怒られると思った」
「隠したら止めます。出したなら次の札を作れます」
ミリアが木枠を見て、釘小袋の残りを確認した。屋根補修へ回す予定の釘を井戸口へ少し移すか。配給の乾き葉を下ろした分、次の戻りで何を受けるか。表の上で村と倉と商人の線が交差する。
「釘を動かすと屋根が遅れます」
「井戸口が崩れると水が止まります」
ミリアは短く息を吸った。
「釘小袋を半分だけ井戸へ。屋根補修は明日の待ち札で釘商を先に見ます」
「はい」
メイナの筆が迷わず動いた。昨日なら別の表を作っていたかもしれない。今日は一つの戻り線の中で、配給と修繕が入れ替わる。
塩商が横から覗き込んだ。
「炭はまた後か」
「炭は後です」
「待ち札を持っていれば、明日は」
「明日も冬支度が先です」
ルシアが言うと、塩商は苦い顔をした。
「それでも来るしかないんだな」
「戻れたからね」
戻れた道には、文句を言う者も残る。戻れない道からは、文句を言う者も消える。
夕二番の前、フェネル商会の小さな封が届いた。ルシアが受け取り、指で封の端を確かめる。商売の顔が少しだけ消えた。
「回状の返り?」
ミリアが聞いた。
「半分はね」
封の中には薄い紙が二枚入っていた。一枚目には明日来る荷の候補がある。塩/油布/馬釘/乾いた薪束。どれも欲しい。どれも全部は入れられない。
二枚目は荷の名ではなかった。北方砦宛ての早便。明朝、門前通過希望。積み荷なし。人手確認を要す。
メイナの筆が止まった。
エルクが紙を覗き込む。さっきまで空車を見ていた目が、別の重さを帯びた。
「荷じゃないのか」
ルシアが封を畳んだ。
「荷じゃない。けれど通すだけでもない」
門の外で空になった車がもう一度軋んだ。今日、空車の行き先は決めた。明日は空いた人の行き先を聞かれる。




