濡れた縄
「切れたのは、縄だけですか」
濡れた縄を台に置かせた。東井戸村の農夫はまだ息が荒い。袖から泥水が落ち、床に薄い筋を作っている。
「桶も落ちました。人は、まだ落ちていません」
「まだ、ですね」とミリアの声が低くなった。
昨日までなら東井戸村の井戸さらいは三日と書けた。人足二人ずつで、戻る日も見えていた。だが縄が切れれば、日数はそのままでも危険の中身が変わる。
エルクが縄を拾い上げた。「兵を出す。二人いれば引ける」
「引くだけなら、兵で足ります」
切れ口を見る。切れたというより、こすれて細くなっていた。泥で隠れているが、同じ場所が何度も縁に当たっている。井戸の底ではなく井戸口で傷んだ縄だ。
「問題は、誰が引くかではありません。誰が止めるかです」
農夫が顔を上げた。「止める?」
「この縄で、もう一度桶を下ろそうとした人を止める者が必要です」
広間の声が途切れた。力のある者は引くことを考える。急ぐ者は下りることを考える。水が戻らない村は待てない。だから誰かが止めなければならない。
「現場へ行きます」とミリアが言った。
東井戸村の井戸は役所棟からそう遠くない。通りの端にある石組みの井戸で、周囲の土は踏み固められている。井戸口の縁には濡れた跡が残っていた。
「ここで擦れました」
農夫が指を差す。石の一部だけ黒く濡れている。角が欠け、縄が通るたび同じ場所をこする形になっていた。
門の兵が井戸口を覗き込む。「下りられるな」
「下りないでください」とすぐに止めた。
兵は不満そうに顔を上げる。「水を戻すんだろう」
「落ちた桶を先に戻すなら、下りる者より上で縄を見る者が先です」
ガレスが井戸口に膝をつき、石の縁に指を滑らせた。欠けたところで止まり、指先を少しだけ上げる。
そこだけ、縄の繊維が引っかかっていた。
「削れている」とエルクが言った。
「石を直すか」
「応急なら木を噛ませます」
薪の積み直しに置いた荷車番の男が口を挟んだ。力仕事だけのつもりで来ていたが、車輪止めの木片を腰袋に入れている。
「丸い木を二つ。縄が石に当たらないようにする。長くは持ちませんが、今日下ろす分なら」
頷いた。
「それを作ってください。兵は井戸の周りを空ける。下りる人を増やさない」
「引く者は」
「兵二人。合図を見る者を一人」
ミリアが表を開く。「井戸番は誰にしますか」
東井戸村の農夫が泥のついた縄を握った。「俺が下ります」
「下りる人ではありません」と首を横に振った。
「井戸番は、下りたい人を止める人です」
農夫の口が少し開いた。
「村の者は、俺の顔なら止まります。水がない時に兵に止められたら、喧嘩になります」
兵で止めれば命令になる。村の者で止めれば、まだ話になる。だが村の者だけでは急ぎに負ける。
「では、井戸番は東井戸村の農夫。補助に門の兵一人」とミリアが書く。
「合図は二人で見る。縄の傷・桶の重さ・水の濁りを控えに残す。単独で済は押さない」
農夫は濡れた袖で額を拭いた。「水が戻らなかったら」
「戻らなかった理由も書きます」
井戸の底を見る。暗い水面が揺れている。水はある。使える形で上がってこないだけだ。
「水がないと嘘を書くより、戻らない理由が分かる方が先へ進めます」
井戸番の欄が埋まった。
次は屋根だった。
井戸から戻る途中、倉の南側で雨漏りの跡が見つかった。まだ雨は強くない。だが軒下の土が一箇所だけ黒い。
「屋根に兵を上げるか」とエルクが言う。
「上がれる者はいます」
「上がれるだけでは、落ちます」
軒下にいた職人が短く言った。背は低く、腕は太い。手の甲に古い擦り傷がいくつもある。兵ではない。耕す者でもない。屋根板と縄を扱う手だった。
「どこが悪いか、下から言えますか」と聞くと、職人は屋根を見上げた。
「西の端ではありません。水が落ちている場所の真上でもない。あの継ぎ目から入って、内側を伝っています」
門の兵が首を傾げる。「見えるのか」
「見えません」と職人は軒下の土を靴先で削った。
「でも、ここに落ちる水はまっすぐ落ちていない。土の跳ね方が横です」
ガレスが鼻で息を吐いた。「見えないところを見てるな」
職人は褒められた顔をしなかった。
「上がる者は軽い方がいい。板を踏み抜くと、直す場所が増えます」
「兵では重いか」とエルクが自分の兵を見た。兵は少し気まずそうに足元を見る。
「重いです」と職人は遠慮しなかった。
「ただし、板と縄を持つ者は兵でいい。上に乗る者だけ軽くしてください」
ミリアが表に書く。屋根補修=職人/資材運び=兵一人/屋根上=軽い者一人/二人確認。
「軽い者は」とメイナが聞いた。
広間の方から細い声がした。「上がれます」
門の外にいた孤児の一人だった。薪置き場の近くで炭焼きの手伝いをしていた子だ。靴は大きすぎる。まだ役目を持たせるには早い顔をしている。
ミリアがすぐ首を横に振った。「屋根には上げません」
子どもの顔が固まる。同じ判断だった。
「今日は上げません。落ちれば冬支度ではなく怪我人が増えます」
「でも、軽いです」
「軽いことと屋根に置けることは違います」
強いことと置けることが違う。軽いことも同じだ。
「屋根の下で、釘と縄を数えられますか」
子どもは目を瞬いた。「数えるだけなら」
「数えるだけではありません。渡した数と戻った数が違えば、職人を止める仕事です」
子どもは職人を見た。職人は嫌な顔をしない。
「止めてくれ。釘を屋根に忘れると、あとで誰かが踏む」
ミリアは表の余白に小さく書き足した。屋根下、釘縄控え。子ども一人。確認はメイナ。まだ本配置ではない。けれど空欄の外側に、置ける場所が一つできた。
最後に西畑組の馬を見た。馬は門脇につながれている。脚の腫れは昨日より引いていたが、完全ではない。干し草二束はそのまま置かれていた。
西畑組の馬番が、馬の前脚に手を当てた。「今日は軽荷なら歩けます」
エルクが馬を見る。「軽荷とはどれだ」
馬番は荷車の方を向いた。「空袋と縄だけです。石は無理です。油壺も駄目です。揺れると脚をかばって転びます」
ルシアが通行控えを開いた。「商人なら、軽荷って言って油壺を隠すね」
「馬が倒れます」
「倒れた後に言う商人もいる」
馬番の顔が険しくなった。「なら、先に見ます」
馬飼葉の欄を見る。
「馬飼葉は、この人でいい。馬を出すか止めるかを言える人が必要です」
「自分の組に甘くしませんか」
若い吏員が聞いた。前なら言わなかっただろう問いだった。
「だから、通行金分類と組ませます」
ルシアの控えと門の者の控えを並べた。
「軽荷・重荷・揺れる荷を分ける。馬番は脚を見る。商人控えの女は銅貨を見る。門の者は荷の名を見る。一人で済を押さない」
ミリアが頷いた。
「馬飼葉=馬番。荷分類=通行金分類。門控え=門の者。三者確認」
馬番は馬の首を撫でた。
「止めるのも仕事ですか」
「冬前は、止めた荷も仕事です」
表を見る。倉番/薪束確認/井戸番/屋根補修/馬飼葉。五つが埋まった。残りは冬前の配給。
日が傾き始める頃、倉の前に小さな影が集まっていた。屋根下で釘と縄を数えた子どもと、ほかの孤児たちだ。炭焼きの薪を運ぶには細すぎる腕で、落ちた縄くずを拾っている。
メイナが小声で言った。
「配給の列に並ぶ子たちです」
列に並ぶだけなら名前はいらない。だが冬前の配給は、並ぶ順を間違えれば弱い者から消える。
子どもの一人が、拾った縄くずを握ったまま聞いた。
「これ、捨てますか」
答える前に、縄の繊維を見た。
短すぎて井戸には使えない。けれど束を縛る印にはなる。
「捨てません」
子どもの目が少しだけ動いた。
表の最後の空欄が、まだ白いまま残っていた。




