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追放された雑用係、敗戦処理の天才だった ~崩壊寸前の辺境領を立て直す~   作者: 山田鰻
第十二章 腐った役所の解体

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黒塗りの宛名

「墨は、剥がしません」


メイナの指が紙の端で止まった。王都納入便の薄い紙は台の中央に置かれている。宛名欄だけが黒く、塗られたばかりの墨は光を受けるとわずかに湿って見えた。


「剥がせば読めるかもしれません」


若い吏員が言った。前ならすぐ写して済ませていただろう。今は言い切った後で、自分の紙へ「かもしれない」と小さく書き足している。


「読めても、相手に破損と言われます」


黒い欄ではなく、紙の余白を見る。


「宛名ではなく、周りで見ます。日付・荷の名・折り目・通った道・同じ癖の控え」


ルシアがフェネル商会の控えを広げた。商人の紙は役所の紙ほどきれいではない。角は丸まり、荷主の指の脂がつき、折り目もそろっていない。汚れている分だけ、通った手の数が残る。


「王都便は、うちの便じゃない」


最初にそう言った。


「ここは大事。フェネル商会が運んだ荷ではない。けれど、同じ日に王都へ上がった荷は見ている」


「どこで」と査察官が聞く。


「北門の外。水桶置き場の手前。荷を積み替える場所が一つある。そこを通る荷は、商人が見なくても荷車の音で分かるよ」


ガレスが頷いた。「重い荷は軸が鳴る。空荷は跳ねる」


ルシアの指が王都納入便の紙へ向いた。「これは、軽くない」


「通行補修手間を動かした翌日。荷の名がないのに、納入便とだけ書く。普通の商荷なら損が出た時の相手が書けない。役所が隠したい荷か、名前を出せない荷だね」


台には門別控え/仮貸付控え/王都納入便/フェネル商会の回状控えが並んだ。


「同じ日付は」


メイナが答える。


「門別控えで見張り手間が入った翌日です。仮貸付控えの通行補修手間も同じ日。王都納入便は、その次の朝」


「金の流れは一日遅れ」


仮貸付控えに指を置いた。


「村の名で手間を立てる。門で商人から別名目の銅貨を取る。支払済にする。金庫に残らない。翌朝、王都便が出る」


主簿は黙っている。職務停止の札はすでに台の端にある。沈黙は反省ではない。どの言葉なら逃げられるか、まだ探している顔だった。


「その便の荷札は残っていますか」とミリアが門の者へ聞く。


門の者はすぐに答えず、自分の試験紙を見た。払わない荷は後回し。門吏より口頭。その下に、本人の字で「見た通りに」と書き足してある。


「一枚、捨て札があります」


「どこに」


「門番室の灰箱です。燃やす前に、濡れて消えませんでした」


エルクが兵を向ける。今度は誰も怒鳴らない。怒鳴れば証言が怖がって戻る。試験の場でようやく出た言葉を、兵の声で潰す必要はない。


兵が戻るまで、広間には紙をめくる音だけが続いた。


黒く焦げた札が、油紙ごと台へ置かれる。荷札の半分は読めない。だが残った部分には三つの印があった。白い線・線の外へ打たれた小さな杭・王都西倉の荷受印。


南三村、東井戸村、西畑組の代替徴発紙にあった癖と同じだった。


「在地の紙と、王都の荷受が同じ札に乗っています」


メイナの声が少し震えた。


「名は」と査察官が聞く。


「半分焼けています。ただ、荷受印は読めます」


ルシアが別の紙を出した。商会の運送控えではない。王都側の荷受先を記した一覧だ。商人が荷を避ける時に使う紙で、どの倉へ出すと支払いが遅いか、どの倉なら戻り荷があるかが書かれている。


「王都西倉の荷受印はいくつかある。丸だけなら官倉。二重丸なら軍務。角の欠けた丸なら、代理受け」


焦げた札を見て、息を浅くした。


「これは、代理受け」


「代理の名は」


「紙に書いてある」


一覧の端に、短い行があった。


王都西倉、代理受け。セドリック・ヴァンハイム扱い。


紙をめくる音が止まった。


本人も声もない。ただ、紙の中に名前があった。紙の中の名前から、レインの目が離れない。


ミリアもすぐには言葉を出さなかった。ルーデン平原の敗戦、追放命令、王都の廊下。思い出せるものはある。だがここで感情を先に出せば、紙の意味が濁る。


先に動いたのは査察官だった。


「この一覧は、商人側の参考控えですね」


「そう。正式証拠には弱い」とルシアが認める。


「でも、荷受印の型は変わらない。役所の紙、焦げた荷札、商人側の一覧。三つを並べれば、少なくとも王都西倉の代理受けへ荷が行ったことは言える」


「名の扱いは」


「断定しない。けれど、王都側の代理受けと繋がるとは書ける」


ようやくレインの声が出た。名前そのものを叫ぶ必要はない。紙に一度出た名は、封じて写せば十分だ。


「この件は、辺境の役所だけでは終わりません」とミリアが言った。


「門の見張り手間/村名義の臨時雇人/代替徴発の仮貸付/王都納入便。別々の不正ではありません。同じ日付で繋がっています」


主簿の喉が鳴った。


「王都の名を出すのは危険です」


「出したのは、こちらではありません」


黒塗りの紙へ視線が落ちる。


「消したから、残りました」


ガレスが小さく笑った。


「下手に塗るから、周りを見る」


若い吏員は必死に写している。字はまだ乱れる。けれど済とは書かない。確認待ち/荷受印照合/商人控え参考/王都報告別封。そう一つずつ分けている。


メイナがその紙を見て、小さく頷いた。


「在地の代替徴発紙は」


白線と杭印の紙が並ぶ。


「南三村、東井戸村、西畑組の肩代わり。白線外の杭印。借り賃は通行補修手間より差引。王都便の荷札にも同じ印」


「在地有力者の紙と、王都便の紙が接続した」


査察官が書く。


「個人名は」


「まだ不要です」とミリアが答えた。


「この領で誰が圧をかけたかは、後で逃げられない形にします。今は村の名を使った金が王都便へ乗ったことを先に封じます」


エルクが出口から声を落とした。「主簿を動かすか」


「まだです」


黒塗りの宛名と焦げた荷札を別々の油紙へ入れる。


「主簿だけ動かすと、門吏と支払係が互いに紙を捨てます。三人の棚、金庫、門番室を同時に封じる」


「兵は」


「増やさない。役所の仕事を止める兵は要らない。出口・棚・金庫・門番室だけ」


エルクの口元が少し上がる。


「それで足りる」


ルシアが王都西倉の一覧をもう一枚写していた。


「うちの紙は正式証拠じゃない。でも、商人はこの印を見たら道を変える。王都の誰が絡んでいるかより先に、荷が逃げる」


「逃げる前に、止める紙を作ります」


ミリアが言った。


「王都報告は別封。門前掲示には、王都名は出さない。出すのは見張り手間の停止/臨時雇人払の無効/代替徴発仮受の確認待ち/職務停止だけです」


「領民には」


「村名を使った金は、村へ請求しない」


広間の外にいた南三村の確認役が顔を上げた。太い指が、自分の紙を強く押さえている。


「荷車は、明朝出します」


「予定通りで構いません」とミリアが返す。


「あなたの村から、もう一度奪うための紙ではありません」


広間の外まで、声が途切れた。


そのまま紙を封じた。黒塗りの宛名/焦げた荷札/王都西倉の荷受印一覧/代替徴発仮受/門別控え/臨時雇人払。これで線は一本になった。


辺境の役所で腐った金が、王都の荷受へ向かっている。偶然の書き間違いでも、村の無知でも、門の小銭でもない。


「明朝、一斉に封じます」とミリアが決めた。


「主簿、門吏、支払係。三人の職務停止を確定。仮配置四名を置きます。王都便の紙は査察官控えと領控えで別封。フェネル商会控えは参考として封じる」


査察官が頷いた。「王都報告には、辺境内不正と王都荷受接続の疑いとして上げます」


「疑い、で足ります」と口にした。


「次に相手が消しに来れば、疑いではなくなります」


黒塗りの宛名は読まなかった。それでも、読めなかったはずの名前が商流の上で姿を現した。


紙は燃え残り、墨は乾き、広間の出口にはエルクが立っている。


逃げ道は、もう一つずつ紙になっていた。

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