一里石の襲撃
荷車の一台目には、小麦ではなく濡れ砂を積んだ。
袋の口だけは小麦袋と同じ縄で縛る。遠目には分からないが売り物ではなく、荷主が失って困る品でもない。
「騙し荷か」荷台を覗いたエルクの声は低い。
「守れる荷です」
「同じだろう」
「違います。襲わせるためではなく、襲われても取り返せる範囲にします」
本物の小麦は二台目に残して今日は出さない。腕を組んだ荷主は門の柱にもたれ、一台目の前に結ばれた銅貨二枚の確認札を見ていた。
「本当に戻るんだろうな」
「一里石の先へは出しません」
「なら銅貨二枚分だけ見せてもらう」
商人の目はまだ疑っている。それでいい。信用は一度通しただけでは戻らない。
門控えを押さえたミリアが、紙面から目を上げる。
「見張りは」
「見える兵一人、見えない兵二人。エルク様は荷車の後ろから古橋側へ寄せます」
「門は」
「門番を減らしません。水桶置き場のトマと、石標手前の若い兵を動かします」
「トマを?」
名を呼ばれた顔が強ばった。「俺、戦えませんよ」
「戦わなくていい。倒すのは桶だけで十分です」
「倒す前提ですか」
「合図です」
桶を見下ろしたトマはひどく嫌そうだった。「倒すなって言われたり倒せって言われたり、桶がかわいそうです」
「桶より荷馬をかわいそうにしてください」ルシアは笑わずに言う。
トマが桶を抱え直す。門の外は静かで、誰もそれ以上は笑わなかった。
仮市も普段より静かだった。干し魚の籠を背負った男はおらず、魚の匂いだけが残っている。
「出します」
メイナが控えに時刻を書く。二番鈴の前。昨日漏れた一番鈴ではなく半刻後でもない、揺らした時刻を紙にだけ残す。
荷車が門を出る。見える兵は一人で、若い兵が槍を持ち、わざと頼りない歩幅で前を歩いた。荷主は御者台に乗らず門の脇から見ており、代わりに兵の一人が手綱を取る。
「見た目が弱い」エルクが低く言う。
「強く見せると出てきません」
「弱く見せると来る」
「はい」
硬くなった横顔が「嫌な仕事だ」と吐いた。
「はい」
石標手前の水桶置き場で荷馬が止まる。昨日直した三枚の板石は沈まず水も逃がし、今日はただの道のふりをしていた。
トマは桶を持ち上げたまま、まだ倒さない。古橋側の草は静かだった。
荷車が一里石へ向かう。車輪は濡れた轍を踏み、白い確認札を揺らした。札を見せるため速度は少し遅い。遅すぎれば作り物になり、速すぎれば待つ側が間に合わない。
一里石まであと三十歩。古橋側の林に、昨日と同じ高さで白い布が上がった。布は揺れず、合図だけが林の薄暗さから浮き上がって見えた。
トマの桶が倒れた。
水が板石を叩き、同時にエルクが走る。林の陰から出てきた三人は鉈・短弓・荷車の前へ投げる縄を持っていた。顔は布で隠しているが、動きは村人ではなく道を塞ぐ手順を知っている者のものだった。
「止まれ!」
若い兵の声が裏返る。
短弓の男が弦を引いた。矢は飛ばない。エルクの投げた石が弓手の手首を打ち、弦が跳ねて矢だけが泥へ落ちた。荷車の前へ縄を投げた男は車輪の深さを読み違え、濡れ砂の重みで沈んだ車輪に届かせられない。
「砂か!」
誰かが叫んだ。その声で紙に書くべきことが増えた。荷を知っていた者ではなく、荷が小麦だと聞かされていた者だ。
エルクは鉈の男へ踏み込む。剣は抜かず、鞘ごと脇腹を打って膝を払った。泥へ落ちた男の口から息が漏れる。
「殺すな」
「分かっている」
分かっている声ではなかった。それでも剣は抜かれていない。
若い兵が縄の男へ槍を向ける。手は震えているが逃げ道は塞いだ。見えない位置に置いた兵二人が、林の後ろから回り込む。
三人のうち弓手だけが古橋側へ走った。
追わない。
エルクの肩が動く。
「追うな」
今度はこちらが言う前に、本人が吐き捨てるように言った。
弓手は林へ消え、残った二人は泥の上で押さえられた。鉈の男は歯を食いしばり、縄の男は何度も首を振っている。
「俺たちは知らない」
「まだ何も聞いていません」
縄の男の顔が引きつる。
「じゃあ聞くな」
「聞きません。先に持ち物を見ます」
腰袋から出たのは銅貨四枚・乾いたパン・小さな木札。古い通り賃の札ではないが、片隅に道倉印と同じ三本線が焼かれている。
もう一つ、折った紙があった。メイナが布で受け取り、広げる。
二番鈴前/一台/札あり/見張り一。
門で決めた時刻と台数、見える兵の数。
「誰から受け取った」
男の喉だけが動く。
「言わなくていい」
エルクが目を剥いた。「おい」
「この紙で十分です」
十分ではない。今聞けば男は一番安い嘘を出し、名前を出せばその名前だけを追うことになる。紙の出所を先に塞ぐ方がいい。
門からミリアが駆けてきて、後ろにルシアが続く。
「怪我は」
「ありません」若い兵の声はまだ震えていた。
「荷は」
「砂です」
門から遅れて来た荷主が、捕らえた二人を見て顔から色を引かせる。
「本当に来たのか」
「はい」
「俺の小麦だったら」
答える必要はない。荷主の手が懐の確認札を握っていた。
ルシアは押さえられた男たちの靴を見た。
「盗賊の靴ではありません」
「靴で分かるのか」
「盗賊はもっと悪い靴を履きます。この底は荷役の底です。倉や船で滑らないように刻んである」
「荷役が襲った?」
「荷役の靴を履いた者が襲いました」
メイナが折り紙を新台帳の横に置く。
「査察官に見せる紙ですか」
「見せます。襲撃の事実は隠せません」
「伏せる紙は」
「時刻と兵数が漏れていたこと/道倉印/荷役底の靴」
頷いたミリアが言う。「捕らえた二人は門の牢へ」
「牢番が足りません」
若い兵の声に、ミリアは一瞬だけ黙った。
「では倉の空き部屋。窓を板で塞いで入口に二人。交代は半刻」
すぐに言い直した声は、できることだけを命じていた。
荷主が砂袋を見下ろす。
「銅貨二枚では安いな」
「次から上げるつもりはありません」
「違う。払う方が安すぎると言った」
そこで初めてルシアが笑う。
「商人からその言葉を引き出したなら、今日の道は少し高く売れますね」
捕らえた男たちが連れて行かれる。一里石の根元には使われなかった縄と落ちた矢が残っていた。
再開した道はすぐに襲われた。けれど襲った者はただの道端の盗賊ではなかった。




