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追放された雑用係、敗戦処理の天才だった ~崩壊寸前の辺境領を立て直す~   作者: 山田鰻
第九章 街道を取り戻せ

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一番鈴の影

一番鈴が鳴っても、小麦の荷車は動かなかった。


門前の荷主は縄を締め直すふりをし、馬は鼻を鳴らして濡れた地面を蹄で掻いた。出せる荷を出さない時間は、商人にとって一番重い。


「まだか」


「半刻後です」


「鈴は鳴った」


「予定は変えていません」


荷主が舌打ちする。門の外では仮市の人だまりが少しずつ崩れ、干し魚の籠を背負った男の姿もない。水桶を抱えた門番も同じ方向へ消えている。


ルシアが門柱に肩を預けた。


「動かない荷車を見るのは、商人には辛いですね」


「なら、なぜ笑っている」


エルクが言う。


「辛そうな顔をしている者と、困った顔をしている者が違うからです」


「どう違う」


「荷主は辛い顔。仮市の何人かは困った顔」


門前を見る。小麦の荷主は苛立っているが、仮市の隅に立つ二人は荷車ではなく街道の先を見ていた。出ない荷ではなく、届かない知らせを待っている。


「あれも追うか」


「追いません。多すぎます」


「では、見逃すのか」


「見ます」


門控えの端へ仮市二名・荷より道を見る、と短く書いた。


メイナが横から覗く。


「名前は」


「まだいりません。動きだけで」


「名前がないと、後で困ります」


「今名前を取りに行くと、動きが止まります」


筆を止めずに言うと、メイナは納得していない顔で唇を結んだ。それでも紙はそのまま押さえてくれた。


一番鈴から少し遅れて、水桶の門番が戻った。桶は空で、肩に泥が跳ねている。


「干し魚の男は、東の仮市を抜けて古い馬屋の裏へ」


小声だった。


「誰かいたか」


エルクが近づく。


「顔は見えません。黒い外套の男が一人いて、話は短く、干し魚の男が指を一本立てました」


一番鈴。


「その後は」


「黒外套は北へ。干し魚の男は仮市へ戻ろうとして、途中で別の籠に魚を移しました」


「籠を替えた?」


ルシアの声が低くなる。


「匂いを替えるためです。犬ではなく、人の鼻を避ける時にもやります」


「商人の知恵か」


「商人の悪知恵です」


門番は馬屋の裏に落ちていたという、泥のついた小さな紙片を差し出した。炭で一本線が引かれ、文字はなく、端が魚の脂で濡れていた。


「合図だけですね」


「時刻を言葉にしないためか」


エルクの目が険しくなる。


「かもしれません」


断定しないまま、紙片を布に挟む。


一番鈴から半刻で、ガレスが石標手前から戻ってきた。袖に白い砂がついている。


「三枚目も噛んだ。荷馬は立てる」


「揺れは」


「残る。走らせるな」


「走らせません」


荷主がこちらを睨んだ。


「やっとか」


「門通行確認札を見える場所へ。古橋へは回らない。石標手前で水を飲ませ、そこから一里石まで止まらない」


「止まったら」


「止まった理由を書きます」


「嫌な道だな」


「読める道です」


荷主は文句を飲み込み、銅貨二枚の札を荷台の前に結んだ。白い紙が揺れた。


エルクが馬の横へ立つ。


「俺も行く」


「門が薄くなります」


「俺がいない門より、俺がいない荷車の方が今は危ない」


その言い方に、兵が少しだけ背を伸ばした。


「一里石までです」


「分かっている」


小麦二台が動き出し、車輪が門を越えて濡れた轍へ入った。古橋へ曲がる道は右へ細く伸び、荷主の目が一度だけそちらへ動いた。


ルシアが声をかける。


「そっちは早いですよ」


荷主が顔をしかめた。


「嫌な女だな」


「よく言われます」


荷車は曲がらなかった。


石標手前の水桶置き場では、板石が三枚とも見えていた。二枚目はまだ色が濃く、三枚目の端には楔が入っている。馬が前脚を乗せると石は少し沈んだが、倒れなかった。


トマが桶を押さえている。


「倒してません」


「今のところ」


「言わないでください」


荷主が馬に水を飲ませる間、エルクは古橋側を見ていた。草の低い道に人影はないのに草が揺れた。風ではない。古橋へ続く細道の奥で一度だけ白い布が見えてすぐ消える。


「見たか」


「布だけ」


「合図か」


「荷車が出なかったことを、待っていた者へ知らせる合図かもしれません」


エルクの手が剣へ動く。


「追うな、だろう」


「はい」


「分かっている」


小麦二台は水を飲ませると一里石へ向かった。走らせず止めず、同じ速度で進ませる。荷主は何度も後ろを見たが、古橋へは戻らなかった。


一里石の手前で、先に出していた若い兵が膝をついていた。


「ここに」


石の根元には短い縄が落ちていた。馬の手綱ではなく、荷車の車輪止めにも短すぎる。端に黒い油がついていた。


ルシアが布越しにつまむ。


「弓の弦ではありません。合図縄です。引けば、枝に結んだ布が上がる」


「誰へ見せる」


若い兵が古橋側の林を指した。


「あちらからなら、ここが見えます」


一番鈴に出ていれば、ここを通る頃には待つ者の目に入った。半刻遅らせた今、縄は使われずに残っている。


「襲うつもりだったのか」


エルクが言う。


「今日とは限りません」


「またそれか」


「でも場所は見えました」


一里石は古橋側から見え、荷車は水桶の後で速度が落ちる。見張りは一人で門からは遠い。襲うなら、ここだ。


小麦の荷車は一里石を越えた。荷主が振り返り、初めて小さく頭を下げる。


「銅貨二枚分はあった」


「まだ終わっていません」


「分かっている。だから言った」


荷車の音が遠ざかる。


門へ戻る途中、エルクが低く言った。


「次は、ここで来る」


「来させます」


足音が止まった。


「囮にするのか」


「襲わせるためではありません。襲おうとする手を、見える場所へ出します」


「同じだ」


「違います。守れる範囲でしか通しません」


エルクは返事をしなかった。


石標手前では板石の上に水が少し残っていたが、沈まず流れも悪くない。戻した道が、初めて荷車を通した。


その道の先で誰かが待ち方を覚え直している。

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