一番鈴の影
一番鈴が鳴っても、小麦の荷車は動かなかった。
門前の荷主は縄を締め直すふりをし、馬は鼻を鳴らして濡れた地面を蹄で掻いた。出せる荷を出さない時間は、商人にとって一番重い。
「まだか」
「半刻後です」
「鈴は鳴った」
「予定は変えていません」
荷主が舌打ちする。門の外では仮市の人だまりが少しずつ崩れ、干し魚の籠を背負った男の姿もない。水桶を抱えた門番も同じ方向へ消えている。
ルシアが門柱に肩を預けた。
「動かない荷車を見るのは、商人には辛いですね」
「なら、なぜ笑っている」
エルクが言う。
「辛そうな顔をしている者と、困った顔をしている者が違うからです」
「どう違う」
「荷主は辛い顔。仮市の何人かは困った顔」
門前を見る。小麦の荷主は苛立っているが、仮市の隅に立つ二人は荷車ではなく街道の先を見ていた。出ない荷ではなく、届かない知らせを待っている。
「あれも追うか」
「追いません。多すぎます」
「では、見逃すのか」
「見ます」
門控えの端へ仮市二名・荷より道を見る、と短く書いた。
メイナが横から覗く。
「名前は」
「まだいりません。動きだけで」
「名前がないと、後で困ります」
「今名前を取りに行くと、動きが止まります」
筆を止めずに言うと、メイナは納得していない顔で唇を結んだ。それでも紙はそのまま押さえてくれた。
一番鈴から少し遅れて、水桶の門番が戻った。桶は空で、肩に泥が跳ねている。
「干し魚の男は、東の仮市を抜けて古い馬屋の裏へ」
小声だった。
「誰かいたか」
エルクが近づく。
「顔は見えません。黒い外套の男が一人いて、話は短く、干し魚の男が指を一本立てました」
一番鈴。
「その後は」
「黒外套は北へ。干し魚の男は仮市へ戻ろうとして、途中で別の籠に魚を移しました」
「籠を替えた?」
ルシアの声が低くなる。
「匂いを替えるためです。犬ではなく、人の鼻を避ける時にもやります」
「商人の知恵か」
「商人の悪知恵です」
門番は馬屋の裏に落ちていたという、泥のついた小さな紙片を差し出した。炭で一本線が引かれ、文字はなく、端が魚の脂で濡れていた。
「合図だけですね」
「時刻を言葉にしないためか」
エルクの目が険しくなる。
「かもしれません」
断定しないまま、紙片を布に挟む。
一番鈴から半刻で、ガレスが石標手前から戻ってきた。袖に白い砂がついている。
「三枚目も噛んだ。荷馬は立てる」
「揺れは」
「残る。走らせるな」
「走らせません」
荷主がこちらを睨んだ。
「やっとか」
「門通行確認札を見える場所へ。古橋へは回らない。石標手前で水を飲ませ、そこから一里石まで止まらない」
「止まったら」
「止まった理由を書きます」
「嫌な道だな」
「読める道です」
荷主は文句を飲み込み、銅貨二枚の札を荷台の前に結んだ。白い紙が揺れた。
エルクが馬の横へ立つ。
「俺も行く」
「門が薄くなります」
「俺がいない門より、俺がいない荷車の方が今は危ない」
その言い方に、兵が少しだけ背を伸ばした。
「一里石までです」
「分かっている」
小麦二台が動き出し、車輪が門を越えて濡れた轍へ入った。古橋へ曲がる道は右へ細く伸び、荷主の目が一度だけそちらへ動いた。
ルシアが声をかける。
「そっちは早いですよ」
荷主が顔をしかめた。
「嫌な女だな」
「よく言われます」
荷車は曲がらなかった。
石標手前の水桶置き場では、板石が三枚とも見えていた。二枚目はまだ色が濃く、三枚目の端には楔が入っている。馬が前脚を乗せると石は少し沈んだが、倒れなかった。
トマが桶を押さえている。
「倒してません」
「今のところ」
「言わないでください」
荷主が馬に水を飲ませる間、エルクは古橋側を見ていた。草の低い道に人影はないのに草が揺れた。風ではない。古橋へ続く細道の奥で一度だけ白い布が見えてすぐ消える。
「見たか」
「布だけ」
「合図か」
「荷車が出なかったことを、待っていた者へ知らせる合図かもしれません」
エルクの手が剣へ動く。
「追うな、だろう」
「はい」
「分かっている」
小麦二台は水を飲ませると一里石へ向かった。走らせず止めず、同じ速度で進ませる。荷主は何度も後ろを見たが、古橋へは戻らなかった。
一里石の手前で、先に出していた若い兵が膝をついていた。
「ここに」
石の根元には短い縄が落ちていた。馬の手綱ではなく、荷車の車輪止めにも短すぎる。端に黒い油がついていた。
ルシアが布越しにつまむ。
「弓の弦ではありません。合図縄です。引けば、枝に結んだ布が上がる」
「誰へ見せる」
若い兵が古橋側の林を指した。
「あちらからなら、ここが見えます」
一番鈴に出ていれば、ここを通る頃には待つ者の目に入った。半刻遅らせた今、縄は使われずに残っている。
「襲うつもりだったのか」
エルクが言う。
「今日とは限りません」
「またそれか」
「でも場所は見えました」
一里石は古橋側から見え、荷車は水桶の後で速度が落ちる。見張りは一人で門からは遠い。襲うなら、ここだ。
小麦の荷車は一里石を越えた。荷主が振り返り、初めて小さく頭を下げる。
「銅貨二枚分はあった」
「まだ終わっていません」
「分かっている。だから言った」
荷車の音が遠ざかる。
門へ戻る途中、エルクが低く言った。
「次は、ここで来る」
「来させます」
足音が止まった。
「囮にするのか」
「襲わせるためではありません。襲おうとする手を、見える場所へ出します」
「同じだ」
「違います。守れる範囲でしか通しません」
エルクは返事をしなかった。
石標手前では板石の上に水が少し残っていたが、沈まず流れも悪くない。戻した道が、初めて荷車を通した。
その道の先で誰かが待ち方を覚え直している。




