板石三枚
板石三枚を掘り出すだけで、半刻が消えた。
石標の手前には朝の霜が薄く残っている。昨日トマが指した場所の草を剥ぐと、平たい石の端が見えた。三枚続いているはずの板石は一枚目だけが傾き、二枚目は半分土に沈み、三枚目は端を割られていた。
「水桶を置く場所にしては、悪い顔だな」
エルクの膝が地面に近づく。
「顔は関係ありますか」
「ある。崩れる石は、だいたい先にそういう顔をする」
ガレスの鼻が鳴った。
「若様にしては、現場の言い方じゃ」
「褒めるな」
「半分じゃ」
短いやり取りの間にも、兵二人が石標の左右を見張っていた。門番から一人、水路跡から一人を借りただけで、長くは置けない。門も水路跡も空けばそこから薄くなる。
三日後に王都査察官が来る。道中確認のため石標手前で先導を求む紙は、ミリアの印箱の横に置かれていた。
「半刻で終わりますか」
「掘るだけなら」
炭で板石の位置を写してから答える。「直すなら半刻では足りません」
エルクの眉が動いた。
「昨日は水桶置き場と言った」
「水桶を置くだけなら、一枚目を戻せば終わります」
石の下の土を指で払うと、水が逃げず下で止まった湿った黒土が出てきた。
「ですがここに水を置くと、半刻で泥になります。荷馬が踏めば石がまた沈みます」
水桶を抱えたトマは唇を噛んだ。
「俺が置いたら、倒しますね」
「置けます」
「倒すと思います」
「急げば」
「急ぎます」
「なら倒します」
悔しそうに桶が下ろされ、メイナの控えには石標手前・水桶置き場・板石三・下土湿り・排水なしと入る。
腕を組んでいたルシアの目が石へ向いた。
「商人は道幅だけで道を選ばない」
「水ですか」
「水と、止まった時に損を誰が持つか」
風で外套の端が揺れる。
「荷馬に水を飲ませる場所がぬかるむなら、馬が脚を痛める。脚を痛めた馬で荷が遅れたら、商人は次から別の道へ行く。税が低くてもね」
エルクの目が板石へ落ちる。
「水桶二つで、そこまで変わるのか」
「水桶二つで変わる道は、もう弱い」
二枚目の石を少し持ち上げると、下から細い溝が出た。石の幅ほどもなく、草の根と泥で詰まっている。
「水逃げじゃ」
老鍛冶師がしゃがみ込んだ。
「石を置く前に、砂利を食わせてある。今は抜けとる」
「砂利は」
「流れたか、持っていかれたか」
「誰が持っていく」
エルクの声が硬くなる。
ガレスが短く止めた。
「今は、そこを決めるな」
盗み・横流し・役所の移し替えのどれも、まだ紙が足りない。
「まず戻す分を書きます」
新台帳を開き、五系統の紙を横へ置く。街道・税・兵・荷と金・役所。その上に七欄の細い見出しから水を戻した。
「水が先です」
ミリアの頷きが返る。
「水桶二つ」
「水桶二つを置けるようにします。ただし道にしません」
「石標の先は」
「見ません。今日は手前だけです」
エルクは不満そうにしたが反対はしなかった。兵が足りないことを、もう知っている顔だった。
「必要なものは」
筆を構えたメイナが聞く。
「砂利二籠・粗砂一籠・楔三つ。兵は半刻交代二人、作業は石を上げる者二人と水を運ぶ者一人」
「金は」
筆が一拍止まった。
「買いません。南倉裏の割れ石、古井戸道の粗砂、水路跡の砂利二籠を使います。ただし持ち出しを倉控えと街道控えに残します」
ガレスの鍵束が鳴る。
「南倉裏の割れ石は封の外じゃ。わしの名で出せる」
「水路跡の砂利は」
エルクの目が兵へ向いた。
「水路跡の見張りが薄くなる」
「薄くしません」
新台帳に半刻の線を引いた。朝一つ目は門番一、朝二つ目は水路跡一、戻りと交代確認も同じ紙に入れる。
「見張りを作業に使うのは半刻だけです。半刻を越えたら作業を止めます」
「石が戻っていなくてもか」
「はい」
舌打ちしかけた口が止まった。
「止める理由を貼れ」
「貼ります」
「兵が怠けたと言われる」
「作業停止理由、見張り交代。そう書きます」
横からバルドの声が入った。
「兵にはその方が効きます。終わるまでやれ、より揉めません」
「お前まで紙側に来るな」
「水桶側です」
小さな笑いがトマから漏れ、すぐ桶へ目が落ちた。
作業は思ったより遅い。一枚目の板石を上げると下の土が崩れ、二枚目の溝を掻き出すと泥の中から細い木片が出た。三枚目の割れた端は踏むたびに少し動く。
老鍛冶師が楔石を選び、ガレスが位置を指で示した。
「深く入れるな。石を殺す」
「石を殺す?」
トマの声が返る。
「動けんほど詰めると、次に割れる」
「人みたいですね」
「人より正直じゃ」
メイナは笑いかけたが、書かなかった。
半刻の鐘代わりに、エルクの剣の柄が石標を軽く叩いた。
一度目で交代になった。
兵が顔を上げる。一枚目は戻り、二枚目は砂利を入れた途中、三枚目はまだ浮いている。
作業が止まると、領民の一人が不安そうに言った。
「このままですか」
「このままです」
ミリアの足が前へ出た。
「見張りを戻します。石を戻すより先に、道を守ります」
「でも、途中です」
「途中だと書きます」
男の視線が紙へ落ちた。
途中。
掲示用の紙には、トマの手で石標手前・水桶置き場/一枚目仮戻し/二枚目砂利途中/三枚目未調整/見張り交代のため半刻停止/昼再開と入った。
「嫌な紙だな」
配給鍋の方から来たゴルツが紙を覗いた。
「はい」
「でも、これなら誰のせいか分からん」
「誰かのせいにする紙ではありません」
「なら、読める」
昼前、ルシアは石標の先へ行かず手前の板石だけを見ていた。
「ここが直れば、商人は戻りますか」
ミリアの問いに、ルシアの首が横へ振られた。
「戻りません」
はっきりした答えだった。
「戻らないのですか」
「戻る理由にはなります。でも、まだ足りない」
「何が」
「見張り費用・通行税・荷が傷んだ時の損。三つとも、まだ紙だけです」
新台帳の五系統へ短い線を足す。街道は水桶置き場・兵は半刻交代・税は通行時未定。荷と金は損負担未定で、役所は掲示済。
「なら、次は」
ミリアが言いかけた時、門の方から走ってくる足音がした。
走ってきた若い兵は息が荒い。
「石標の先ではありません。古橋跡です」
エルクが立ち上がる。
「何があった」
「未着だった荷の話です。塩商の使いが、古橋跡の手前で車輪跡を見たと」
ルシアの目が細くなった。
「いつの跡」
「今朝ではない、と」
兵は続ける。「けれど、雨の前でもないそうです」
古橋跡と未着商隊が同じ紙に乗った。石標手前で水桶を戻すだけでは、まだ街道は戻らない。
新台帳に古橋跡・車輪跡・確認待ちと書き、その横へ水桶置き場・昼再開を足す。
戻す場所と止まった場所が同じ紙の上に並んだ。どちらも街道だった。




