十年分の端
乾いた古控えは端から崩れた。
紙の角が粉のように木箱の蓋へ落ちる。メイナの指が止まった。
「触らない方がよろしいでしょうか」
「触らねば読めん」
短い答えが返る。
「だが、急いで読む紙ではない」
南倉の上段には昨日広げた古控えが五枚並んでいた。七年前・六年前・年の読めない一枚・四年前・端にだけ年号が残った古い紙。
十年分には足りないが、一年分でもない。
欠けた年があり、残った年がある。紙の流れはそこでもう歪んでいた。
「全部、床下にあったのか」
「全部ではない。残せたものだけじゃ」
「誰が残した」
「知っている者は、たぶんもうおらん」
倉の中で、鍵束の音だけが小さく鳴った。
入口の外には領主代理が立っている。今日も中へ踏み込まない。倉を開ける者・紙を読む者・決める者。その線を崩さないためだ。
「読める年だけで並べます」小さな札が置かれる。七年前・六年前・年号不明・四年前・年号欠け。
トマが札を見て少しだけ顔をしかめた。
「年号欠け、ですか」
「古い、よりましです」
「確かに」
鼻が鳴る。
「雑用係より細かい小僧になったな」
「褒めていますか」
「半分じゃ」
トマは返事に困り、筆へ逃げた。
一枚目、七年前。塩の通行税は低く、修理費は別に立っている。兵の賄いは街道護衛費と同じ紙に載っていた。
二枚目、六年前。通行税が少し上がり、修理費は下がる。荷車修繕の欄には取消の線。
三枚目、年号不明。塩の行は薄く、釘の行は消されている。代わりに「役所控えへ移す」の細い文字が残っていた。
読み上げられる。
「どこの役所ですか」
「書いていません」
「領主館内か、外か」
「分かりません」
エルクが腕を組んだ。
「分からないことが増えている」
「はい。ですが、分からない場所は分かりました」
「嫌な言い方だ」
「はい」
トマが原本に書く。役所控えへ移す/移し先不明/確認待ち。
「また確認待ちか」
「決めるには足りません」
「足りない紙ばかりだな」
ガレスの指が古控えの端を押さえる。
「足りる紙なら床下に隠れん」
指の下で紙の端だけが曲がった。
四年前の紙では通行税がさらに上がっていた。修理費は街道ではなく倉費に混ざり、兵の賄いは別紙参照に変わっている。
その別紙はない。
「探しますか」
「場所を先に書きます」
床下・上段・封箱・帳簿棚・領主館の会計室。
「別紙参照は、役所欄です」
「また役所」
エルクの声が低くなる。
「紙が役所へ行くほど、現物から離れます」
「現物から離れると」
「見えなくなります」
「見えなくなったところで、数字が変わる」
バルドの言葉に小さく頷いた。
「可能性です」
「断定しない」
「はい」
「その言い方にも慣れてきた」
「慣れない方がいいです」
「だろうな」
年号欠けの古い紙は一番読みにくかった。端は裂け、墨は薄い。だが紙の質も罫線も、他の古控えとは違う。
記録係が顔を近づける。
「ここ、項目名が違います」
「どこですか」
「修理費の横です」
紙へ視線を落とす。今の帳簿にない欄があった。文字は欠けている。読めるのは、最後の一字だけ。
役。
「役、ですか」
トマの声が細くなる。
「役人の役か」
エルクが聞く。
「分かりません。役目の役かもしれません」
「職名ですか」
入口の外からミリアが言った。声が少し低い。
「その可能性があります」
筆を構えたまま待つ。
読めない文字を読めたことにしてはいけない。だが読めないまま捨ててもいけない。
「見慣れない肩書き欄。末字=役/前二字欠け/意味不明/確認待ち」
そのまま記録される。紙を睨む目が細くなる。
「そんなものが、今の役所にあるのか」
「今の役職表にはありません」
領主代理が答える。
「見たことがありません」
「古いだけか」
「古いだけかもしれません。でも、修理費の横にあります」
ガレスの指が一瞬だけ止まった。
「ガレス」
領主代理が呼ぶ。
「知っているのですか」
すぐには返らない。
倉の奥で、古い木箱が乾いた音を立てた。
「字が欠けとる」
「知っているのですね」
若様が踏み込む。
「覚えがある、というだけじゃ」
「何の」
「倉と道と兵を、同じ紙に置いていた頃の体裁だ」
「体裁?」
「書き方じゃ」
それ以上は出なかった。
追わない。今、言葉だけを引き出せば紙より先に話が走る。
新台帳に書く。体裁に覚えあり/意味未確認。
「それで止めるのですか」
領主代理が聞いた。
「止めます」
「気になります」
「私もです」
「でも、止める」
「はい」
しばらくして領主代理は頷いた。
「では確認待ちで」
削られた木印を取る。確認待ち。
倉の入口でルシアがずっと黙っていた。
「商人としては、何か言いませんか」
領主代理が聞く。ルシアは肩をすくめた。
「古い肩書きの意味は分からない。知らないものを知っているふりをすると、商人は損をする」
それから古控えの一枚目を指す。「ただ、税が低い頃に修理と兵と荷が近い場所に載っていた。それは気になる」
「別々では駄目なのですか」
「駄目とは言わない。でも別々にすると、誰かが間を抜ける」
「間」
「荷を通すための修理。修理を守る兵。兵を残すための支払い。支払いのための税。税を払う商人。商人が通る道」
指が一本ずつ折られていく。
「全部を一人が持つと危ない。でも別々にしすぎると、誰も間を持たない」
「間を持つ者が消えた」
トマが小さく言った。
若様がそちらを見る。
「いえ、断定ではありません」
「覚えたな」
バルドが言う。
「確認待ちです」
記録係がそれを書きそうになり、こちらを見た。首を振る。
「今のは書きません」
「なぜ」
「強すぎます」
「でも、近い?」
古控えを見る。「近いかもしれません」
昼までに八枚まで確認できた。
十年分には届かない。同じ年の重複もあり、年号の欠けた紙もある。それでも並べると形は見えた。
古い方では塩・釘・飼葉・荷車修繕・兵の賄いが同じ紙の近い場所にある。新しい方へ近づくほど税は上がり、修理費は別紙へ逃げて兵の支払いは注記になる。荷の数は減って役所控えは増える。
「衰退の始点は」問われて、新台帳の空欄を見る。
昨日は何も書けなかった場所だ。今日もまだ一行では書けない。
「始点ではなく、端です」
「端」
「今見えているのは、壊れ始めた場所の端です」
「どこですか」
年号欠け・七年前・六年前の三枚を並べる。
「このあたりで、紙の置き方が変わっています」
「それが衰退か」
エルクの問いにすぐ首を振った。
「まだ違います。衰退する形です」
道が傷む。修理費が別紙へ移る。兵の支払いが注記になる。税だけが上がる。商人が減る。荷が減る。荷が減るから、また税を上げる。
「輪か」
バルドの声がした。
「はい」
「誰かがそうしたのか」
エルクの問いは重かった。
偶然壊れたのか。誰かが壊したのか。王都から査察官が来る今、その答えを急ぎたくなる。
木印を見る。
「まだ分かりません」
「またか」
「はい」
「腹が立つな」
「はい」
エルクは一度目を閉じ、それから開いた。
「だが今決めるよりはましだ」
ガレスの口元がほんの少しだけ動く。
「若様も、紙に噛まれてきたのう」
「うるさい」
「褒めておる」
「半分だろう」
「よく分かったな」
小さな笑いが起き、すぐ消えた。午後、門前に新しい紙が貼られた。
十年分の端。古控え八枚確認/年号欠けあり/税上昇と修理費移動は同時期の可能性/兵支払い注記化/役所控え増/見慣れない肩書き欄は末字のみ確認/意味不明/確認待ち/衰退の始点未確定。
「見慣れない肩書き欄まで貼るのですか」
記録係が聞いた。
「貼ります」
領主代理が掲示板を見る。
「意味は書きません。隠していると思われる方が悪い」
「王都の査察官も見るかもしれません」
「見せます。ただし、こちらで意味を決めたふりはしません」
ガレスは少し離れた場所で掲示を見ていた。何を思っているのかは読めない。
新台帳へ戻り線を引く。古い肩書きの欄/税上昇/修理費移動/兵支払い注記/役所控え増。
それぞれの横に街道・税・兵・商人・役所を置く。
線はまだきれいにつながらない。だが、端は見えた。
夕方、領主代理が新台帳の前に立った。
「明日は、税ですか」
「はい」
「領民には痛い話になります」
「はい」
「兵にも」
「はい」
「商人にも」
「はい」
息を吐いてから掲示板の前へ目を向けた。
「では、私が前に立ちます」
「お願いします」
「あなたは」
「紙を出します」
「冷たいですね」
「冷たい紙でないと、熱い話を支えられません」
少しだけ笑われた。
「今のは、書かない方がいいですね」
「はい」
遠くでトマが不満そうにした。
「聞こえました」
「書かなくていいです」
「分かっています」
けれど、控えの端に小さく何かを書いた。記録係は見ても消さなかった。
夜、新台帳の空欄へ初めて一語を置く。断定ではない。年号でも人名でもない。
分離。
荷と修理と兵が同じ紙から離れ始めた。そこが今見えている端だった。
その下に明日の行を書く。
税を開く。




