七つの流れ
南倉の床板は三枚だけ色が違っていた。
火が入る前、ガレスが鍵束を腰に下げて板の前に立つ。倉の中は冷えていた。塩袋の封・釘箱の封・油壺の木箱・薬草小箱の控え。どれも昨日のまま動かしていない。
動いていないことを見せるために、あえて動かしていなかった。
「ここか」
エルクが床板を見下ろす。
「踏むな」
「踏んでいない」
「踏みそうな顔をしておる」
「床板に顔は関係ない」
「ある。急く者は板を割る」
口が閉じた。横にいたバルドが笑いかけ、すぐ真顔に戻る。
入口の外ではミリアが印箱を持って立つ。中へは踏み込まない。倉を開けるのはガレス・記録はメイナ・第一案を見るのはレイン。決めるのは領主代理。
「開けるぞ」
細い鉄片が差し込まれる。床板はすぐには上がらない。湿気を吸っている。
老鍛冶師が木槌を渡した。
「端を叩け。真ん中を叩くな」
「分かっとる」
「分かっていても、叩く手が違う時がある」
「うるさい」
板が浮く。
中から出てきたのは布に包まれた紙束だった。厚くはないが薄いとも言えない。紐は黒ずみ、布は乾ききっていない。
メイナが一歩前へ出る。
「触ってよろしいですか」
「まだじゃ」
紙束は床ではなく木箱の蓋へ置かれた。
「湿っている。広げる前に、何枚あるかだけ見る」
「読まないのですか」
トマが聞いた。
「読もうとして破れば、読めん」
「はい」
筆が走る。南倉床下。古控え紙束/布包み一/湿りあり/開封前。
「これも七欄に入りますか」
メイナの問いに新台帳を開いた。
水・荷・金・税・修理・兵・役所。その右に、昨日足した査察対応欄が細く残っている。
「入ります」
「どこへ」
「まず、役所です」
ガレスの眉が動いた。
「紙は倉ではないのか」
「倉にも入ります。床下にあった理由は倉。誰の手で止まっていたかは役所。中身が支出なら金、税なら税、荷なら荷です」
トマの筆が止まる。
「七欄なのに、増えていませんか」
「増えていません。絡んでいます」
「嫌な欄ですね」
「使える欄です」
紙の端に小さく書き足された。一枚の紙、複数欄。
エルクがそれを見て顔をしかめる。
「そんなことまで貼るな」
「原本用です。門前には貼りません」
「ならいい」
「門前には、七つの流れだけ貼ります」
嫌そうな顔が残った。
「それも貼るのか」
「貼ります」
入口の外から答えが返る。
「王都に見せる前に、領地の中で先に見せます」
「文句が出る」
「出ます。ですが王都から来た人間に初めて聞かされるより、ましです」
倉の中で積み袋の縄だけがきしんだ。
門前掲示用に短い見出しを書いた。
七つの流れ。水・荷・金・税・修理・兵・役所。どこで止まるかを見る。
「五つではないのですか」
「昨夜は街道・税・兵・商人・役所と」
「止まり方は五つです。見る窓を七つにします」
すぐに理解した顔にはならなかった。
「水と荷は街道へ。金と税は分けて見ますが結び目があります。修理は街道と倉へ、兵は配置だけでなく支払いにもつながる。役所は全部の紙を通します」
領主代理が紙を覗く。
「結び目」
「支払いが遅れると商人が来ません。商人が来ないと物が戻りません。物が戻らないと、税を取っても残るものが減ります」
「税を取るほど、次の税が減る」
「はい」
「兵も街道に入るのか」
エルクの声が低くなる。
「護衛線がなければ、荷は戻りません。兵への支払いが遅れれば、護衛線も薄くなります」
「今、それを出すのか」
「査察官が聞く前に、こちらで確認します」
「兵の未払いを」
「はい」
バルドが腕を組み直した。
「隠しても、兵が喋ります」
「喋るなと言えば」
「余計に喋ります。喋るなと言われた兵の顔は、査察官でも分かるでしょう」
腹立たしいが、現場の兵に関してはだいたい当たる。
「どう書く」
「原本には残します。門前には、兵給与=確認中/支払い順=作成中、と出します」
「弱い」
「はい」
「だが嘘ではない」
「はい」
短い息のあと言った。
「俺の名でいい。兵側聞き取り、エルクおよびバルド」
「若様」
「お前もだ」
「承知しました」
筆が動く。
兵給与=確認中/聞き取り=エルクおよびバルド/門前要約=支払い順作成中。
紙束の紐がほどかれた。
「口を動かすなら、手も動かせ」
一枚目が開かれる。
字は薄く、端が欠けている。年号は読めた。七年前。今の帳簿より古い。
「十年分ではありません」
「まだ一枚目じゃ」
めくろうとした指が止まる。
「乾かしてから読む」
一枚目だけを目で追った。
塩・鉄釘・馬飼葉・通行税・荷車修繕費・兵の賄い。
どれも今の七欄にかかる。だが、数字が違った。
「塩の通行税が低い」
ミリアが入口で止まったまま聞く。
「どれくらいですか」
「今の半分以下です」
門の外からルシアの声が入った。
「その頃なら、商人が通っていた時代だね」
「入るな」
ガレスが止める。
「入ってないよ」
革袋を持った商人は入口の外で足を止めていた。
「昔の税が低かったなら、なぜ上がったか。税が上がって荷が減ったのか、荷が減ったから税を上げたのか。どちらでも商売の匂いがする」
ミリアの顔が険しくなる。
「領地の衰えを、商売の匂いと言いますか」
「言うよ。匂いを嗅がない商人は、腐った荷を買う」
エルクが顔をしかめた。
「言い方」
「正直でしょ」
「腹が立つ」
「なら、まだ生きている」
軽口の奥で、視線は掲示板へ向いていた。
「七欄を貼ったら、領民も嗅ぐよ。怒りの匂いも金の匂いも」
「貼ります」
ミリアの声は変わらなかった。
「ただし税額はまだ貼りません。今は、税を見直す欄を開いたことだけ貼ります」
「いい。商人も、数字を出す前に欄ができたことを知りたい」
「商人のためだけではありません」
「知ってる」
一枚目の内容を写す。
七年前、塩の通行税は低。釘=荷車修繕費と同紙/馬飼葉=兵欄接続/荷車修繕=街道欄接続。
トマが紙を覗き込んだ。
「一枚で、もう五つに分かれる」
「はい」
「全部、別々に壊れたわけじゃないんですね」
筆が止まった。
そう言ってから、不安そうに目を上げる。
「間違っていますか」
「いえ。たぶん、それが一番大事です」
急に背筋が伸びた。
「今の言葉、貼りますか」
「貼りません」
「よかった」
「ただ、原本には残します」
「残るんですか」
「残ります」
諦めた息にメイナが小さく笑った。
昼前、門前掲示が出た。
七つの流れ。水=古井戸と道/荷=石標と未着/金=支払いと残額/税=見直し欄/修理=釘と順番/兵=配置と支払い確認/役所=紙の出入り。止まる場所を先に見る。
「長くないか」
エルクが言う。
「これ以上削ると、税だけ読まれます」
トマの返事に、目が細くなる。
「言うようになったな」
「掲示担当なので」
配給鍋の方からゴルツが顔を出した。
「嫌な紙が増えたな」
「読めるか」
「水と荷と金と税くらいは読める」
「十分です」
掲示を眺めたゴルツの目は、税の行で止まった。
「今日、取り立てる話か」
ミリアが前へ出る。
「違います。王都から査察官派遣の書簡が届きました。ですが今日、査察官のために配給を減らしません。税も急に取りません。倉の物も隠しません」
門前にざわめきが走った。
王都と査察官。その二つだけで人は身構える。
「私たちは先に七つの流れを見ます。どこで止まるかをこちらで数えます。税を変える時は理由を出します」
「理由があれば取るのか」
別の男の声が飛ぶ。
「必要なら。ただし取る前に、残れるかを見ます」
ざわめきの質が変わった。
取る。残る。今まで領民が聞かされてきたのは、前の言葉ばかりだった。
後の言葉があるだけで、全員が納得するわけではない。それでも、紙の前からすぐに離れる者はいなかった。
「残れるかを先に見る税か」
ルシアが小さく言った。
「変ですか」
「商人は好きだよ。払った後に相手が死ぬ取引は、次がない」
「領地も同じです」
そう言って、少しだけ驚いた顔をした。
新台帳へは書かなかった。今はまだ、掲示の前で立った言葉として残せばいい。
夕方までに古控えは三枚まで広げられた。七年前・六年前・年の読めない一枚。
塩・釘・飼葉・荷車・通行税・修理費・兵の賄い。同じ名が何度も出る。違うのは数字と並び方だった。
「税が上がった年に、修理費が下がっています」メイナが言った。
「修理費を削って税を埋めたのか」
「まだ分かりません」
「偶然かもしれない」
「はい」
「偶然ではなかったら」
古控えの薄い字が、夕方の光でさらに細くなる。
「道を直さずに、税だけ取った年があるかもしれません」
役所部屋で、紙をめくる音が消えた。
道を直さなければ荷が減り、荷が減れば税を上げる。税が上がれば商人が避け、物が来ない。物が来なければ兵も民も残れない。
「まだ言うな」低い声が落ちた。
「一枚や二枚で十年を決めるな」
「はい」
「だが捨てるな」
「はい」
「この紙はまだ湿っておる」
新台帳に書き入れる。
税上昇年/修理費低下/未断定/確認待ち。
削られた木印を押した。確認待ち。決めず、忘れないための印。
夜、古控えは乾いた布に挟まれて南倉の上段へ移された。床下には戻さず、持ち出しもしない。
領主代理は領主館へ戻らず、門前に残っていた。
「七つに分けたのに、五つへまとまりましたね」
「まだまとまっていません」
「では見え始めた」
「はい」
掲示板には七つの流れ。新台帳の端には街道・税・兵・商人・役所の五つ。
その下に空欄を一つ作る。
衰退の始点。
今はまだ何も書けない。
けれど空欄を作った時点で、探す場所は決まった。
明日は乾いた古控えを年の順に並べる。
十年分には届かない。それでも、端は残っている。




