王都査察官
赤い封蝋は、門前の掲示紙より重かった。
封書の端で止まったミリアの指の下に、王都軍務会計局の印とセドリック・ヴァンハイムの名がある。書かれているのは、処分者レイン・アストラの職務実態を査察するという一文だった。
西門の前で配給鍋の火だけが細く鳴る。夕方に貼ったばかりの掲示紙には「止血、ひとまず完了。流通確認へ」とある。
その横に来た王都の紙だけが新しい傷のように赤かった。
「いつ来る」
エルクの声は低い。剣に手はかけていない。それでも、門の左右にいた兵たちの背がそろった。
「書かれていません。派遣する、とだけ」
「明日かもしれない」
「はい」
「十日後かもしれない」
「はい」
舌打ちは出なかった。ミリアの兄は西門の外へ目を向ける。古井戸へ続く白い道は、夕暮れで灰色に沈みかけていた。
「なら、門を固める」
「門だけでは足りません」
新台帳を開く。さっき足したばかりの欄はまだ乾ききっていない。
王都査察官。到着前に、止まるものを数える。
「査察官が門を見るなら、門を固めればいい」
「書簡にあるのは門ではありません。職務実態と敗戦関連物資の運用です」
レインが封書の一文を指すとミリアの指に力が入った。
「私たちがレインさんに何をさせているか」
「はい」
「それと、ここにある物資をどう動かしているか」
「はい」
門前で掲示板を見る顔が増えた。
彼らは今日、ようやく止血の終わりを口にした。次の紙で王都はその止血をした者の役目へ刃を向けてきた。
「お前を隠すか」
エルクが言った。
「隠しません」
答えはミリアの口から先に出た。
「相手はレインを処分者と書いている」
「だから隠せません。隠せば、私たちが彼に決めさせているように見えます」
「実際、第一案はこいつが出している」
「決めているのは私です」
声は震えなかった。
「査察官に聞かれたらそう答えます。配給・支払い・商人との条件は領主代理である私が決めています。レインさんは現物と帳簿を合わせて第一案を出す。役目はそこで切れます。それ以上でも、それ以下でもありません」
口を挟む場所ではない。前へ出ればミリアの決定が薄くなり、下がりすぎれば彼女だけが矢面に立つ。必要なのはその間の線だった。
「査察対応欄を作ります」
メイナが筆を取った。
「七欄の右に細く」
水・荷・金・税・修理・兵・役所。その横へ査察時に聞かれることだけを置く。
トマが小さく唸った。
「水からですか。王都の査察官が水桶まで見ますかね」
「見ないかもしれません。でも水が止まれば配給も鍛冶場も止まります。理由を説明できなければ物資運用も説明できません」
「古井戸、百九十二歩」
「書いてください」
「歩数まで」
「短くなったか長くなったか、あとで見ます」
トマは顔をしかめたが、消さなかった。
門柱の陰で革袋の金具が鳴る。帰りかけていたルシアがまだ残っていた。
「荷は石標までの試験荷二走、帰還済み。未着商隊は未着のままでいい?」
「はい」
「嫌な紙だね。商人は見つからない荷を書く紙を嫌う」
「戻ったことにはできません」
「もっと嫌うのは、未着をなかったことにする領地だよ」
軽い声なのに、目は笑っていない。
「フェネル商会は試験荷二走の控えを出せる。塩商・薬種商・縄商にも控えを持たせる。ただし領主館のために嘘はつかない」
「それで構いません」
ミリアの返事は早かった。
「嘘を合わせるくらいなら、ずれを貼ります」
「高くつく領主代理だ」
「安く済ませた結果が、今なので」
一瞬だけルシアの口元から笑みが消えた。すぐに肩をすくめる。
「その返し、商人には効く」
南倉の方から鍵束の音が近づいた。ガレスは封書を一目見て、驚きもせずに言う。
「倉を見に来るなら、倉を片づけるな」
メイナの筆が止まった。
「片づけないのですか」
「片づけた倉は、片づけた後しか見せん。今ある不足・封・傷を見せる。隠して整えると、あとで数が合わん」
「倉は現状維持。封残・鍵・出入記録を並べます」
「それと、古い控えを出す」
ミリアが顔を上げた。
「古い控え?」
「十年分まではない。残っている分だけじゃ」
「どこに」
「南倉の床板の下」
エルクの眉が寄った。
「なぜそこにある」
「捨てられん紙は、見つからん場所へ行く」
それ以上の説明はなかった。
レインも問わない。今ほしいのは理由ではなく紙の場所だ。床板の下へ行った理由は読んでからでいい。
「今夜出しますか」
「出さん。夜に床板を上げると、鼠も湿気も動く。明朝、火が入ってからじゃ」
メイナがすぐに書く。
南倉古控え、明朝確認。ガレス立会い。
「確認待ちの印だな」
削られた木印を取り出す。
臨時実務整理役の印。押せるのは第一案・照合済・確認待ち。命令済にも決定済にも押せない。
「確認待ちで押します」
「それでいい。王都の者は誰が決めたかを聞く。誰が開けたか、誰が見ただけかも聞く。そこを混ぜるな」
ミリアが頷く。
「決めたことは私の名で」
「開けた倉はわしの名で」
「記録した紙は私の名で」
メイナが続けた。
少し遅れて、トマが掲示板を見る。
「掲示した紙は、俺の名で」
「兵の配置は俺だ」
「伝達は、俺も持ちます」
横からバルドが口を挟む。
エルクが目を細めた。
「勝手に増えるな」
「若様一人で全部言うと、兵が固まります」
不満そうな息が出た。否定はしない。
「なら、俺とバルドだ」
メイナの筆が走る。配置はエルク、伝達はエルクおよびバルド。
七欄を見直す。水と荷には現物があり、修理と兵にも今日の紙がある。薄いのは金と税と役所だった。
「金が弱いですね」
ミリアの表情が変わる。
「支払いのことですか」
「支払いだけではありません。前払い・残額・通行税軽減・炭代欄・準備金・未払いが、別々の紙に散っています」
「一枚にします」
「はい」
「税は」
「もっと弱いです」
税という言葉に、門前の視線が銅貨袋へ落ちた。
「今夜は集めません」
先に言った。
「査察官に見せるために、領民から急に取ることはしません」
「それは私の名で貼ります」
「貼るのか」
「貼ります。王都から紙が来ても、今日の配給や税は変えません。変える時は理由を書いてからです」
「領民が安心すると思うか」
「安心はしないと思います。でも急に奪われると思わせるよりはいい」
税欄に一行が入る。
査察官派遣通知後は即時徴収なし。変更時は理由掲示。決定は領主代理。
「役所は?」
メイナの問いで全員の視線が領主館へ向いた。
会計室・倉番・古い役人たち。逃げた書記官の空席。
「先に紙の出入りを見ます」
「人ではなく紙か」
「人から見れば言い逃れになります。館の中で止まった紙、門前へ出た紙、倉へ戻った紙。そこを先に押さえます」
失われた証拠の穴を誰も忘れていない。
「全部貼ると、板が足りません」
トマが掲示板の空きを測る。
「門前には要約だけ。原本は新台帳。商人控えはルシアさん、倉控えはガレスさん、領主館控えはミリア様。トマさんは掲示控えを持ってください」
「また増えた」
「増えました」
「嫌な仕事です」
「はい」
ため息をつきながらも、トマは右端の紙を詰めた。
夜が深くなる。鍛冶場の火は落ち、配給鍋も洗われた。古井戸道の白い線はもう見えにくい。
それでも門前の小机だけは明かりを残す。
「油は半刻だ」
エルクが言った。
「半刻で十分です」
完璧な紙はいらない。明日の朝、南倉の床板を上げる前に、何を見るかが決まっていればいい。
査察官が来る前に、領地の弱いところを王都より先に見る。
メイナが最後の見出しを書いた。
査察前確認。
水=古井戸百九十二歩/荷=試験荷二走と未着商隊/金=支払い紙統合/税=即時徴収なし/修理=釘封残と優先順/兵=配置と伝達/役所=紙の受け渡し。
トマが門前掲示用に短く写す。
王都査察官、到着前。止まるものを先に数える。
ミリアはその紙を見て短く息を吐いた。
「これを貼れば、王都に怯えているように見えるでしょうか」
「見えます」
正直に答えると、少しだけ笑われた。
「ですが何も変えない方がもっと悪く見えます」
「そうですね」
領主代理の印が押される。その下に削られた木印を置いた。
第一案。
まだ決定ではなく照合も済んでいない。それでも見る場所は決まった。
ルシアが革袋を肩にかける。
「明朝、塩商と薬種商に控えを持たせる」
「お願いします」
「お願いじゃない。こちらの身を守るためだよ」
門の外へ出かけてふと振り返る。
「王都の人間は、商人より綺麗な紙を好む?」
「たぶん」
「なら、泥のついた紙を見せるといい。綺麗な嘘より読みやすい」
門が閉じた。
今夜追うものはない。隠すものも増やさない。ただ出す紙を分ける。
封書は新台帳の横に置かれた。赤い封蝋の紙・門前掲示の紙・商人控え・倉控え。どれも薄いのに、重さは違う。
次の頁へ、明朝の行を書き足す。
南倉古控え確認/金と税の紙統合/役所内紙流れ聞き取り。
最後に、もう一行。
床板の下の紙は誰が隠したのか。
乾ききらない墨の横で、古い倉の鍵が一度だけ鳴った。




