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追放された雑用係、敗戦処理の天才だった ~崩壊寸前の辺境領を立て直す~   作者: 山田鰻
第七章 名もなき雑用係の価値

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空荷の馬車

空荷の馬車は、荷を積んだ馬車より音が軽い。軽いはずだった。だが西門を出る時の車輪音は、門前にいる者の耳へやけに大きく届いた。


がらり、がらりと底板が鳴る。軸が鳴る。何も載せていない荷台が空っぽのまま震え、その空っぽがかえって目立った。


西門の内側で馬車の後ろを見送った。ロナが左、ユードが右。御者は手綱を短く持っている。馬は一頭、荷台は空。古井戸までの百九十二歩は昨日より白かった。石灰の粉が朝の湿りを吸っている。


桶を持った女が道の端で足を止め、馬車の通過を待った。馬車が過ぎる。桶は揺れたが、水はほとんどこぼれなかった。


「古井戸、通過」


トマが門前の板へ書いた。まだ大きな字ではない。だが前より速く、書く前にレインを見る癖も少し減っていた。


「次は枯れ柳です」


「見えるのか」


エルクが聞く。西門の内側に立つ彼は、前へ出たがる足を門石の上に押しつけるようにしていた。


「見えません。見えないので、合図を決めました」


門柱にくくった白布と赤布を指す。白布は通過、赤布は異常。合図役は古井戸の脇・枯れ柳・低い石垣の手前の三か所に置いた。石標までは見えない。だから石標で判断する者をロナとユードに決めてある。


「見えない場所ほど、命令を短くしなければなりません」


「短くしすぎれば、勝手に動く」


「長くすれば、迷います」


エルクは返事をせず、門の外を見た。白い道の先で馬車が古井戸を越える。ロナが一度だけ手を上げ、古井戸脇の少年が白布を上げた。


「古井戸、白」


トマが書く。


ミリアは小机の横に立っていた。腰の小袋は昨日よりさらに軽い。前払いを済ませたからだ。だが彼女はその軽さを隠さず、門前に置いた支払い副本には残額支払い予定の欄を空けてある。荷が戻ってからでなければ埋まらない欄だった。


「配給は止めなくてよいのですね」


声は小さい。領民へ聞かせる声ではなく、確認の声だった。


「止めません」


「試験荷を待つ間だけでも、鍋を薄くしておくべきでは」


「戻る前に変えると、戻った時の効果が分からなくなります」


「効果」


配給鍋の湯気は細い。粥は今日も濃くはないが、薄めてはいない。火も止めていない。


「昨日と同じ鍋に戻った塩を入れます。変えるのはその後です」


「戻らなければ」


「戻らなかった理由を、同じ鍋の前に貼ります」


ミリアの指が副本の端を押さえた。


「領民に、失敗まで見せるのですね」


「見せない失敗は、次の荷を止めます」


ルシアが横から口を挟んだ。門柱に背を預けている。いつもの軽さはあるが、今日は笑いすぎない。自分の印を押した荷札が馬車と一緒に出ているからだ。


「戻らなかった理由を隠す領地には、次の荷を出せない。戻った理由だけを飾る領地も同じ」


エルクがそちらを見た。


「失敗を貼れば、弱みを見せる」


「弱みを隠しても道は隠れないよ。商人は泥を見る。貼り紙より先に、車輪の沈みを見る」


エルクは不機嫌そうに黙った。言い返せない時の顔だった。


ガレスは少し離れて門石に腰を下ろしていた。立ったままでは足がもたない。それでも来た。腰の鍵束が、座るたびに小さく鳴る。


「枯れ柳までは、昔もよく詰まった」


「雨の後ですか」


「雨の後と、晴れが続いた後だ」


「逆では」


「乾くと轍の縁だけ硬くなる。馬が嫌がる」


護衛副本の余白へ、枯れ柳、乾きすぎ注意と書き足した。


「今から書くのか」


エルクが言った。


「今聞いたので」


「最初から聞いておけ。ロナたちに伝えに行くか」


「間に合いません」


「ではどうする」


「枯れ柳の合図を待ちます。待つ役も決めました」


西門脇の二人の兵を見る。石垣手前の待機役へ渡すため、短い木札を三枚持たせていた。戻れ、積むな、追うな。どれも大きな字だ。


「言葉が届かない時は、札を見せます」


エルクは木札を見て顔をしかめた。


「追うな、ばかりだな」


「今日の勝ちは、戻ることです」


「勝ちに見えにくい」


「はい」


その時枯れ柳の方で白布が上がった。遠く、木の枝に隠れて布の端だけが見える。だが白だ。


「枯れ柳、白」


トマが書く。門前の空気が少し緩んだがレインは足を緩めなかった。低い石垣の手前まではまだある。馬車は見えず、車輪音も届かない。


「馬車が見えなくなるだけで、嫌なものだね」


ルシアが言った。


「商隊はいつもそうですか」


ミリアが聞く。


「いつも。だから紙を持たせる。戻った時に何があったか揉めないために」


「戻らない時は」


ルシアは少しだけ黙った。


「戻らない時も紙を見る。最後にどこまで行ったかだけでも、次の商人は知りたがる」


返す言葉はなかった。冬前商隊の名を誰も口に出さない。塩と油と薬草を積んだ二台は、古橋跡の西で止まったままだ。それを探しに行く力はまだない。今日の空荷は、その前に戻る。戻れなければ探しに行くどころではない。


低い石垣の合図が遅れた。白布も赤布も上がらず、何も見えない。エルクの足が門石から離れた。


「行く」


「まだです」


「遅い」


「合図が出ていません」


「出せない状況かもしれない」


「そのために待機役を置きました」


エルクの視線が刺すように向いた。


「見えない場所で兵が止まっている。お前は紙を見て待つのか」


「はい」


ここを崩せば、決めた線が消える。エルクが行けば二人は戻りにくくなる。若様が向かった場所から、荷も積まずに戻る兵はいなくなる。


「若様」


ミリアが言った。


「今、あなたが走ると、戻れの命令が弱くなります」


「ミリアまで同じことを言うのか」


「私も自分の銀を出しています。荷が戻らなければ困ります。ですが、兵が戻らない方がもっと困ります」


エルクの奥歯が鳴った。その時低い石垣の方で白布が上がる。一度上がってすぐ下がり、遅れてもう一度。白、通過。


「石垣手前、白」


トマが息を吐いた。


「二度上がった」


エルクが言う。


「通常は一度です」


合図表を見る。白二度は、通過後の遅れ。馬か、車輪か、道か。護衛副本の余白へ、石垣、白二と記した。


「赤ではない」


ルシアが言う。


「赤ではありません」


「でも、商人は白二度を嫌がる」


「戻ったら理由を聞きます」


門前の鍋が煮える音、鍛冶場から聞こえる槌の音、西門の蝶番が風でわずかに鳴る音。メイナの目は検品表の空欄を見つめたままだった。塩・薬草・釘・油。どの欄にもまだ数が入っていない。


やがて赤布が低い石垣の方で一度だけ上がった。すぐ下がる。門前がざわつき、エルクが動いた。今度はレインも止めない。


「古井戸までです」


「分かっている」


「追わないでください」


「分かっている」


「戻る道を空けてください」


エルクが一瞬だけ振り返る。怒った顔ではなかった。苛立ちもあるが、それより速さが前に出ていた。


「バルド、門を見ろ。二人、来い」


エルクは兵二人を連れ、古井戸の方へ走り出した。剣は抜かず、腰に置いたままだ。レインは新台帳の端へ、赤一・エルク古井戸まで前進・西門保持と書き付けた。筆が少し滑る。


「あんたも走りたい顔をしている」


ルシアが言った。


「走っても間に合いません」


「間に合わないから走らないのと、走りたいのを我慢するのは違う」


「同じ紙に書けません」


「商人なら、別の欄を作るね」


そう言いながら、今度は笑わなかった。


古井戸の先で鳥が一斉に飛び、馬のいななきが聞こえた。近づいてくる。車輪音も聞こえる。がらり、がらり。行きより重い。戻っている。だが整っていない。一度車輪が大きく跳ねた。


白い道の向こうに馬車が見えた。荷台には荷がある。少ない。それでも空ではない。ロナは左、ユードは右にいる。二人とも走ってはいないが、槍は横に構えている。馬車の後ろには人影が二つ見えた。全力ではなく、様子を見ながら距離を詰めている。


片方が何かを投げた。石だ。荷台の後ろ板に当たり、乾いた音がした。門前で小さな悲鳴が上がる。


エルクは古井戸の手前で止まっていた。約束の線だ。そこで兵を左右に広げ、馬車をその間へ入れる。追ってきた二人も勢いで古井戸道へ踏み込んだ。


エルクが一歩出た。剣はまだ抜かず、左手で盾を押し出す。先に来た男の肩へ盾の縁が当たり、鈍い音がした。男がよろける。もう一人が鉤のついた短い棒を振った。馬具を引っかける道具だ。


エルクは体を沈め、柄頭でその手首を打った。棒が落ちる。兵が槍の柄で足元を払い、男は尻もちをついた。殺さない。追わない。だが通さない。門前から見れば、息を吸って吐く間ほどの短い戦いだった。


二人の男は石垣の方へ逃げた。エルクの兵が一歩追いかける。


「追うな」


エルクの声が飛び、兵の足が止まった。男たちは枯れ柳の向こうへ消える。エルクの足は止まったままだった。


その背を見ながら、台帳へ追撃なしと書き加えた。


馬車が西門へ戻った。御者の顔は青く、馬の胸には泡がついている。ロナの袖は泥で汚れ、ユードの頬には浅い傷があった。血は少ない。息はある。


荷台には塩袋が二つ、薬草箱が一つ、釘箱が二つ、油の小壺が一つ。油壺の口に巻かれた布は濡れていた。


「門前で止めろ。馬を外すな。先に荷台」


バルドが声を出した。馬車が止まり、車輪が石灰の白い線を少し削る。


「戻りました」


ロナの声はかすれていた。


「石標に荷はありました」


「走って言うな。順に言え」


戻ってきたエルクの息は上がっている。だが声は低く抑えられていた。ロナが小さく頷き、レインは聞き取り副本を出す。メイナが検品表を構え、ミリアは支払い副本を持った。ルシアは少し離れて、塩商と薬種商の印を確認している。


「石標に荷札あり。塩二。薬草一。釘二。油一」


ロナが言い、ユードが続けた。


「荷札のない袋が一つありました」


門前の空気が動いた。


「中身は」


「見ていません」


「なぜ」


「積むな、と命令されていたので」


エルクの目が一瞬だけレインへ向いた。すぐ戻る。


「続けろ」


「男が二人出ました。荷札のない袋も積めと言いました」


「名乗ったか」


「名乗っていません。商人には見えませんでした。一人は荷縄を持っていました。もう一人は馬具鉤を持っていました」


ガレスが低く唸った。


「馬を止める道具じゃ」


筆を走らせる。馬具鉤、荷札なし袋、名乗りなし。


「袋に印は」


「黒く汚れた木札がついていました」


「形は」


「欠けていました」


「字は」


ロナが少し迷う。


「西、に見えました。あとは読めません」


西。門前で誰も大きな反応をしなかった。だが以前から気になっていた欠番札が、頭の端をかすめる。西三札。


「触りましたか」


「触っていません。男が袋を荷台へ投げようとしたので、押し返しました」


「押し返した後は」


ロナが自分の袖を見た。


「馬の手綱を取られそうになりました。槍の柄で離しました。刺していません」


「よし」


エルクが短く言った。ロナの肩が少し下がる。怒られず、逃げたと責められないなら、次に戻る判断もしやすくなる。


「追われた理由は」


バルドが聞いた。


「荷札なし袋を置いてきたからだと思います」


「向こうは追ってきた」


「はい」


「石垣を越えてからか」


「石垣の手前で振り返りました。向こうは石垣の向こう側にいました。古井戸道に入ったのは、こちらが戻ってからです」


エルクが眉を寄せた。


「線を知っていたのか」


すぐには答えなかった。


「見えていた可能性はあります」


「貼ったからか」


「はい。貼らなければ商人は動きませんでした。貼ったので、向こうにも見えました」


門前が静かになる。


「どちらが正しい」


「今日だけなら、貼らない方が楽でした。明日も荷を動かすなら、貼る必要があります」


エルクが何か言いかけてやめた。ルシアが小さく笑う。


「商売の紙は、敵にも読まれる。嫌なところまで分かってきたね」


「嬉しそうに言うな」


「嬉しくはない。値段がついただけ」


「何の」


「信用の」


ルシアの視線が荷台へ移った。


「今日の代金は、油の減りと、相手に線を見せたことだ」


メイナが油壺の布を外す。油の匂いが広がった。小壺の口は欠けている。中身は残っているが満杯ではない。


「半分より少し多いです」


「積む前は」


ロナが答えた。


「割れていませんでした。石標で確認しました」


「誰が見た」


「私とユード。御者も見ています」


御者が青い顔のまま頷く。


「では、帰路の損耗です」


検品表には、油一壺・帰路破損・残量半分強・原因は後板への投石または車輪跳ねと書き付けた。


「商人側の責ではありません」


メイナが筆を止める。


「では、残額は」


「全額払います」


ミリアが言った。レインが顔を上げる。彼女の視線の先には油壺があり、口元は固い。だが声は揺れていない。


「石標で無事だったものを、領内へ戻す途中で壊しました。支払いは減らしません」


「銀が減ります」


「減ります」


「油は半分しか使えません」


「だから余計に貼ります。全額支払い。油、帰路破損。残量半分強。これも貼ります」


ルシアの目が細くなった。


「高くつく判断だ」


「安く済ませると、次が来ないのでしょう」


「そう。今のは、商人が聞きたい返事だよ」


エルクの顔は不満げだった。だが止めなかった。自分が古井戸で守った荷だ。その荷を、届いた分だけ安く叩くことはできない。


「全額払え。俺の線の中で割れた。なら、こちらの損だ」


ミリアが小さく頷いた。


「支払います」


残額の銀が小机に置かれる。音は軽いが、門前に響いた。塩商の男が受け取り、薬種商の女が頷く。ルシアは仲介者として見届けるだけで、銀へ手を伸ばさなかった。


「受領」


メイナが書く。


「検品、済」


トマが掲示へ移した。試験荷一、帰還。塩二袋、薬草一箱、釘二箱。油一壺は帰路破損、残量半分強。荷札なし袋は積載せず、不明者二、追撃なし。護衛二は帰還、負傷は軽傷一、支払いは全額済。


「塩はどこへ」


ミリアが聞いた。


「一袋は配給鍋へ。一袋は南倉へ。病人食と幼児分に分けます」


「釘は」


「一箱は鍛冶場。門の蝶番と荷車軸を優先。一箱は予備」


「薬草は」


「兵舎薬箱へ。残りが出れば診療用の小箱へ」


「油は」


欠けた小壺を見た。


「夜間保全に半分。残りは鍛冶場の灯りには使いません」


「なぜ」


「灯りを増やすより、見回りの足元を確保します」


エルクが口を挟んだ。


「油は俺が預かる」


「いえ。預かるのはガレス様です。使う時に、若様が受け取ってください」


「面倒だな」


「使った量が残ります」


「分かった」


短い返事だった。ガレスが油壺を受け取る。


「半分の油でも、夜道で転ばぬには足りる。ただし割れた口はすぐ塞げ。こぼれてからでは遅い」


「鍛冶場へ」


レインが言うと、トマが走りかけた。


「歩いて。転ぶと、油がこぼれます」


はっとした足が歩きに変わる。門前の何人かが小さく笑い、緊張が少しだけ抜けた。だがロナとユードはまだ笑っていない。二人は戻ってきたばかりの顔をしていた。


エルクがその前に立つ。


「ロナ。ユード。よく戻った」


二人の表情が止まった。


「荷札なし袋を積まなかった。手綱を取らせなかった。石垣の向こうへ追わなかった。よく戻った」


ロナの喉が動く。ユードは頷くだけだった。バルドが横で腕を組んでいる。顔は少しだけ誇らしげだ。


「ただし、頬の傷は洗え。薬草が戻ったばかりだ。無駄に膿ませるな」


「はい」


今度は二人の声が揃った。


兵が戻る。荷が戻る。支払いが済む。紙に残る。


「次は倍で試せるかな」


ルシアが言った。


「まだ無理です」


「早いね」


「今日、油を割りました」


「戻ったとも言える」


「割れたとも言えます」


「商人としては、戻った方を大きく見たい」


「台帳としては、割れた方も同じ大きさで書きます」


ルシアは楽しそうに肩をすくめた。


「嫌な台帳だ。でも、嫌な台帳は長持ちする。次は倍ではなく、一・五倍くらいで持ってくる。こちらも損はしたくない」


「条件を見てからです」


「もちろん」


ルシアの視線が門前掲示へ移る。


「今日の紙が乾いたら、商人の目が変わる」


「乾く前に、配給が変わります」


塩袋を見た。一袋は鍋へ、一袋は残す。どちらへどれだけ入れるか。兵に先か、病人に先か、幼児に先か、働く者に先か。塩は戻ったが、全員を満たす量ではない。油も半分強・薬草も一箱・釘も二箱。


ミリアも同じものを見ていた。


「塩を入れれば、今日の鍋は変わります。誰から変えるか、決めなければなりませんね」


「はい」


新台帳を開き、今日の欄に最後の一行を足す。


試験荷、帰還。


その下へ、明日の欄を作る。


配給、再編。

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