横流しの匂い
三番倉庫の床板は、右奥だけ新しかった。
レインは膝をつき、指先で板の継ぎ目をなぞった。泥と穀物粉が薄く詰まっている。表面だけは古く見えるよう擦られているが、釘の頭に錆がない。
ロイドの熱は天幕で下がっていない。負傷兵を先に診るのが順番ではある。だが、何が残り、何が消え、何が消えたことにされているのかを知らずに配れば、明日の朝には全員が同じように足りなくなる。
倉庫の戸口には、踏まれた藁が固まっていた。出入りの多い場所なら普通に見える。けれど藁の上に残る靴跡は、軍靴だけではない。踵の細い町靴の跡が二つ、奥へ入り、同じ幅で戻っている。
戦場帰りの兵が履く靴ではない。
「そこに何かあるのか」
倉庫番の老兵が、入口で油灯を掲げていた。名はダグ。古い軍靴を履き、左目の下に昔の傷がある。
「床板が新しい」
「この前、腐ったから替えた」
「いつですか」
「十日前だ」
「誰の指示で」
ダグは答えなかった。
答えられないのではなく、答えたくない顔だった。
立ち上がって、棚を見る。
干し肉二十樽と記録された棚には、五樽しかない。空いた場所には、樽を引きずった跡が残っていた。跡は倉庫の奥から入口へまっすぐ伸びず、右奥の床板の前で一度途切れている。
重い樽をここで一度下ろしている。
なぜか。
外へ出す前に、印か札を変えたからだ。
「昨日の出庫記録を」
若い書記が巻いた紙を差し出した。手が震えている。戦場の震えではない。自分が持っている紙の意味を、少しは分かっている手だった。
出庫、干し肉十五樽。
移送先、後方本部。
受領印、空欄。
その代わり、欄外に細い斜線が一本入っていた。
見慣れない印だ。
正規の補給印でも、後方本部の略印でもない。副官室で使う確認線に似ている。だが、角度がわずかに違う。
似せている。
「後方本部の受領担当は」
「まだ戻っていません」
「戻っていないのに、移送済みで処理したのか」
「副官室から、急ぎだと」
ダグが低く咳払いをした。
若い書記はそこで口を閉じる。
レインは追及しなかった。
ここで声を荒げれば、次に紙が消える。人も消える。負けた軍では、正しさより先に保身が走る。
「予備馬の厩舎は」
「隣だ」
ダグが油灯を持ち直した。
厩舎には、馬の匂いより古い藁と水の匂いが強かった。帳簿では予備馬八十頭。戦闘前に実際に見た数は六十八。戦闘損耗を引いても、五十六は残るはずだった。
今いるのは四十四。
十二頭が、また消えている。
「逃げた馬は」
「三頭」
厩舎番が答えた。
「死んだ馬は」
「七頭」
「帳簿にある損耗と合う。では、残り十二頭は」
厩舎番の視線が、副官室の方角へ逃げた。
その視線だけを覚える。
責めない。
まだ責めない。
「馬具の数を見せてください」
厩舎番は一瞬だけ意外そうな顔をした。
「馬じゃなく?」
「馬は連れ出せます。馬具は置いていく者が多い」
壁に掛けられた馬具を数える。鞍、手綱、胸当て。古いものと新しいものが混ざっていた。十二頭分の空きはない。
つまり、馬具ごと出ている。
軍用の予備馬としてではない。別の荷車に繋がれた可能性が高い。
三番倉庫の外で見た轍を思い出す。
正規の補給車より幅が狭い。車輪油の匂いも違った。王国軍は松脂を混ぜる。商人の車は獣脂が多い。雨の泥に残る匂いが、少し甘く腐る。
その匂いは、倉庫の右奥にも薄く残っていた。干し肉の塩気でも、馬の汗でもない。荷車の軸に塗る脂が、床板の継ぎ目へ擦り込まれた匂いだ。
干し肉十五樽。
予備馬十二頭。
正規より狭い車輪跡。
欄外の斜線。
線はつながる。
だが、口に出すにはまだ細い。
「副官殿へ報告しますか」
若い書記が小さく聞いた。
報告すれば、紙は副官室へ上がる。副官室へ上がれば、都合の悪い紙から先に整えられる。
「今は在庫表を直します」
「でも、これは」
書記の声は途中で消えた。
自分で言葉にしかけて、怖くなったのだろう。
レインはその先を拾わなかった。
「倉庫に残る現物を数えてください。干し肉五樽。塩樽二。麦袋は開封済みを別に。包帯箱は乾いたものと濡れたものを分ける」
「原因は」
「原因より先に、残ったものを死なせない」
ダグが油灯の向こうで目を細めた。
「若いのに、嫌な順番で見る」
「いい順番を選べる量ではありません」
ダグは鼻で笑った。
その笑いには、少しだけ認める響きがあった。味方と呼ぶには早い。ただ、現物を見る者が一人増えた。
出庫記録をもう一度見る。
欄外の斜線。
似せた印。
その下に、薄く押された紙の跡がある。上から墨を重ねたせいで読めないが、紙のへこみだけは残っていた。
文字は三つ。
最初の一字は、たぶん「別」。
別の何へ、出したのか。
後方本部ではない。少なくとも、正規の受領ではない。
紙を巻き直し、書記へ返した。
「この紙を副官室へ持っていくな」
書記の顔が青くなる。
「ですが、提出を」
「提出用は写しを作れ。数字は同じでいい。欄外の斜線は写すな」
「それは改竄では」
「斜線は正式記録ではありません」
書記は唇を噛んだ。
ダグが油灯を少し上げた。
「俺が立ち会ったことにする」
若い書記は、ようやくうなずいた。
ダグはそれ以上、何も聞かなかった。聞けば、自分も答えを持つことになる。答えを持った者から先に、負け戦の夜は危なくなる。
それでも油灯を下げずにいてくれるだけで、今は十分だった。
倉庫の外では、夜の点呼が始まっていた。名前を呼ぶ声に、返事のない間が混じる。その間だけ、野営地が冷える。
干し肉十五樽は、どこへ行ったのか。
予備馬十二頭は、誰の荷を引いたのか。
後方本部ではないなら、敗戦の混乱とは別の意図がある。
帳簿の余白に「別」とだけ書いた。
まだ誰にも見せない数字だった。




