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追放された雑用係、敗戦処理の天才だった ~崩壊寸前の辺境領を立て直す~   作者: 山田鰻
第一章 敗戦の帳簿

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横流しの匂い

三番倉庫の床板は、右奥だけ新しかった。


レインは膝をつき、指先で板の継ぎ目をなぞった。泥と穀物粉が薄く詰まっている。表面だけは古く見えるよう擦られているが、釘の頭に錆がない。


ロイドの熱は天幕で下がっていない。負傷兵を先に診るのが順番ではある。だが、何が残り、何が消え、何が消えたことにされているのかを知らずに配れば、明日の朝には全員が同じように足りなくなる。


倉庫の戸口には、踏まれた藁が固まっていた。出入りの多い場所なら普通に見える。けれど藁の上に残る靴跡は、軍靴だけではない。踵の細い町靴の跡が二つ、奥へ入り、同じ幅で戻っている。


戦場帰りの兵が履く靴ではない。


「そこに何かあるのか」


倉庫番の老兵が、入口で油灯を掲げていた。名はダグ。古い軍靴を履き、左目の下に昔の傷がある。


「床板が新しい」


「この前、腐ったから替えた」


「いつですか」


「十日前だ」


「誰の指示で」


ダグは答えなかった。


答えられないのではなく、答えたくない顔だった。


立ち上がって、棚を見る。


干し肉二十樽と記録された棚には、五樽しかない。空いた場所には、樽を引きずった跡が残っていた。跡は倉庫の奥から入口へまっすぐ伸びず、右奥の床板の前で一度途切れている。


重い樽をここで一度下ろしている。


なぜか。


外へ出す前に、印か札を変えたからだ。


「昨日の出庫記録を」


若い書記が巻いた紙を差し出した。手が震えている。戦場の震えではない。自分が持っている紙の意味を、少しは分かっている手だった。


出庫、干し肉十五樽。


移送先、後方本部。


受領印、空欄。


その代わり、欄外に細い斜線が一本入っていた。


見慣れない印だ。


正規の補給印でも、後方本部の略印でもない。副官室で使う確認線に似ている。だが、角度がわずかに違う。


似せている。


「後方本部の受領担当は」


「まだ戻っていません」


「戻っていないのに、移送済みで処理したのか」


「副官室から、急ぎだと」


ダグが低く咳払いをした。


若い書記はそこで口を閉じる。


レインは追及しなかった。


ここで声を荒げれば、次に紙が消える。人も消える。負けた軍では、正しさより先に保身が走る。


「予備馬の厩舎は」


「隣だ」


ダグが油灯を持ち直した。


厩舎には、馬の匂いより古い藁と水の匂いが強かった。帳簿では予備馬八十頭。戦闘前に実際に見た数は六十八。戦闘損耗を引いても、五十六は残るはずだった。


今いるのは四十四。


十二頭が、また消えている。


「逃げた馬は」


「三頭」


厩舎番が答えた。


「死んだ馬は」


「七頭」


「帳簿にある損耗と合う。では、残り十二頭は」


厩舎番の視線が、副官室の方角へ逃げた。


その視線だけを覚える。


責めない。


まだ責めない。


「馬具の数を見せてください」


厩舎番は一瞬だけ意外そうな顔をした。


「馬じゃなく?」


「馬は連れ出せます。馬具は置いていく者が多い」


壁に掛けられた馬具を数える。鞍、手綱、胸当て。古いものと新しいものが混ざっていた。十二頭分の空きはない。


つまり、馬具ごと出ている。


軍用の予備馬としてではない。別の荷車に繋がれた可能性が高い。


三番倉庫の外で見た轍を思い出す。


正規の補給車より幅が狭い。車輪油の匂いも違った。王国軍は松脂を混ぜる。商人の車は獣脂が多い。雨の泥に残る匂いが、少し甘く腐る。


その匂いは、倉庫の右奥にも薄く残っていた。干し肉の塩気でも、馬の汗でもない。荷車の軸に塗る脂が、床板の継ぎ目へ擦り込まれた匂いだ。


干し肉十五樽。


予備馬十二頭。


正規より狭い車輪跡。


欄外の斜線。


線はつながる。


だが、口に出すにはまだ細い。


「副官殿へ報告しますか」


若い書記が小さく聞いた。


報告すれば、紙は副官室へ上がる。副官室へ上がれば、都合の悪い紙から先に整えられる。


「今は在庫表を直します」


「でも、これは」


書記の声は途中で消えた。


自分で言葉にしかけて、怖くなったのだろう。


レインはその先を拾わなかった。


「倉庫に残る現物を数えてください。干し肉五樽。塩樽二。麦袋は開封済みを別に。包帯箱は乾いたものと濡れたものを分ける」


「原因は」


「原因より先に、残ったものを死なせない」


ダグが油灯の向こうで目を細めた。


「若いのに、嫌な順番で見る」


「いい順番を選べる量ではありません」


ダグは鼻で笑った。


その笑いには、少しだけ認める響きがあった。味方と呼ぶには早い。ただ、現物を見る者が一人増えた。


出庫記録をもう一度見る。


欄外の斜線。


似せた印。


その下に、薄く押された紙の跡がある。上から墨を重ねたせいで読めないが、紙のへこみだけは残っていた。


文字は三つ。


最初の一字は、たぶん「別」。


別の何へ、出したのか。


後方本部ではない。少なくとも、正規の受領ではない。


紙を巻き直し、書記へ返した。


「この紙を副官室へ持っていくな」


書記の顔が青くなる。


「ですが、提出を」


「提出用は写しを作れ。数字は同じでいい。欄外の斜線は写すな」


「それは改竄では」


「斜線は正式記録ではありません」


書記は唇を噛んだ。


ダグが油灯を少し上げた。


「俺が立ち会ったことにする」


若い書記は、ようやくうなずいた。


ダグはそれ以上、何も聞かなかった。聞けば、自分も答えを持つことになる。答えを持った者から先に、負け戦の夜は危なくなる。


それでも油灯を下げずにいてくれるだけで、今は十分だった。


倉庫の外では、夜の点呼が始まっていた。名前を呼ぶ声に、返事のない間が混じる。その間だけ、野営地が冷える。


干し肉十五樽は、どこへ行ったのか。


予備馬十二頭は、誰の荷を引いたのか。


後方本部ではないなら、敗戦の混乱とは別の意図がある。


帳簿の余白に「別」とだけ書いた。


まだ誰にも見せない数字だった。

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