西門から古井戸まで
西門から古井戸までは、百九十二歩だった。長い道ではなく、空の桶なら子どもでも歩ける。だが水を入れた桶を二つ持てば話が変わる。
百九十二歩の間に、足を取る泥が三か所・車輪が沈む轍が二か所・石畳の欠けで桶の水が跳ねる段差が一か所あった。
その一つで水がこぼれる。こぼれれば、もう一度汲みに戻る。戻れば鍛冶場の水が遅れ、火入れが遅れ、鍋も鎌も戻らない。
レインは西門の前にしゃがみ、杖の先で地面に線を引いた。西門と古井戸、そのあいだに六つの傷。
「全部直すのか」
エルクが聞いた。
朝の光はまだ薄い。門前には、石灰袋三つ・砕石六籠・砂利四籠・古い木杭八本が並んでいる。徴発倉庫から戻された、買わずに済んだものだ。だが使えば消えるものでもある。
「全部は直しません」
短く答えた。
エルクの眉が寄る。
「またか」
「石灰が足りません」
「砕石もある」
「砕石だけでは水が逃げません。砂利だけでは沈みます」
「では、どこを直す」
「桶が跳ねる段差と、荷車が止まる轍です」
「泥三つは」
「踏める泥は残します」
エルクの目が道へ向いた。
全体として見れば、どこも悪い。だが同じ悪さではない。足を汚すだけの泥と、足を滑らせる泥。車輪を鳴らすだけの轍と、車輪を沈める轍。桶の水を揺らす段差と、桶の水をこぼす段差。
「見た目は直らないな」
「はい」
「領民は、直っていないと言うぞ」
「言います」
「それでいいのか」
「今日は、水がこぼれなければいいです」
エルクの顔は不満そうだったが、否定はしなかった。
ガレスが古い杖で轍を叩いた。
「泥三。轍二。段差一」
「はい」
「石灰は三袋」
「使うのは二袋半です」
「半袋残すのか」
「古井戸の縁で濁りが出た時に使います」
「また残す」
「残さないと、次に止まります」
ガレスは短く笑った。
「よし」
その声で作業者たちの背が少し伸びた。
兵二人・農民四人・今日雇い二人。ゴルツと、昨日から荷車の音を聞いていた若い男がその中にいる。
ゴルツは石灰袋を見下ろした。
「半袋なんて、残してもしょうがねえだろ」
「半袋で、井戸縁一か所は押さえられます」
「一か所か」
「一か所です」
「しけてるな」
「はい」
「はいじゃねえ」
ゴルツは文句を言いながら、袋の口を縛り直した。
若い男が砕石籠を腰だけで持ち上げかけ、ゴルツが横から怒鳴った。
「膝を使え。昨日も言った」
「言われてない」
「見れば分かるだろ」
「分からねえから聞いてる」
「じゃあ今聞け」
言い合いながら、二人は籠を持ち上げた。
木札を六枚置いた。一枚目は古井戸手前の段差、二枚目は西門寄りの沈む轍、三枚目は荷車待避の横泥。残り三枚は、今日は見送りだ。
メイナがその横に使用・保留・見送りと書く。
「見送りも書くのですか」
トマが聞いた。
「書きます」
「直さない場所まで」
「直さない理由を書かないと、あとで忘れます」
「忘れると」
「全部直した気になります」
トマは少し嫌そうな顔をして、見送りの欄に筆を置いた。
ミリアは門前に集まった領民へ向き直った。
「今日は、古井戸までの道をすべて直すわけではありません」
小さなざわめきが起きる。当然だった。東側のぬかるみに困っている者も、荷車置き場の水たまりを嫌がる者もいる。
「全部直せないのですか」
桶を持った女が言った。昨日、南井戸で並んでいた女だ。
ミリアはすぐに答えず、一度レインの地面の線を見てから、自分の言葉で言った。
「全部を少しずつ直すと、今日、桶の水がこぼれる場所が残ります」
女は桶を抱え直した。
「では、そこから」
「はい。水がこぼれる場所から直します」
「東側は」
「今日の見送りです。理由も紙に書きます」
女は不満そうだったが、引かなかった。
「明日は」
「今日、水がどれだけ残るかを見てから決めます」
ミリアの声は震えていない。冷たい線を領民の前で引いている。
レインはその声を台帳の端に置いた。
石灰を撒き、砕石を入れる。砂利をならし、木杭で端を止める。
作業は古井戸手前の段差から始まった。
水桶を持つ者がそこでよく足を止める。止まると後ろが詰まり、桶同士がぶつかって水がこぼれる。
「ここに石を入れすぎるな」
ガレスが言った。
「高くなりすぎますか」
レインが聞く。
「桶が跳ねる」
「では、低く」
「低すぎても水がたまる」
「幅は」
「桶二つ分だ」
ガレスは杖で幅を示した。
老鍛冶師は鍛冶場から顔だけ出した。
「水が早く来るなら、炉を先に温めるぞ」
「半刻待ってください」
「半刻か」
「段差が先です」
「分かった。半刻だけだ」
半刻。石灰を使う手が荒くなると、メイナが止めた。
「量を記録しています」
農民が顔をしかめる。
「紙を見てる暇があるなら手を」
「紙がないと、次の半袋まで使います」
ゴルツが横から言った。
「使い切るなって話だ」
二つ目は西門寄りの沈む轍だった。
荷車がここで止まれば、押す人手が二人増え、その二人は水運びにも配給列にも戻らない。
「ここは深く掘る」
ガレスが言う。
「入れるより、先に出す」
泥を掻き出すと、底から腐った藁が少し出た。倉庫裏で見た藁と似ている。
すぐには断定しなかった。
「証拠袋を」
メイナが差し出す。
「またか」
エルクが低く言った。
「似ています」
「同じか」
「まだ分かりません」
「追うか」
「追いません。ここを埋めます」
エルクは息を吐いた。
「守れない場所が出るぞ」
「はい」
「西門の外も、古橋跡も、南倉も、全部は見られない」
「だから、今日はここを通します」
泥を出した轍を見た。深いが、底は見えた。
「一本通れば、水と火が動きます。水と火が動けば、鍋と鎌が戻ります。戻った鍋と鎌で、明日の人手が少し戻ります」
「それでも、外は空く」
「空きます」
「正直だな」
「嘘をつくと、配置が崩れます」
エルクが兵二人を呼んだ。
「西門外へ広げるな。今日は古井戸道だけを見る。外へ出る者は、俺が決める」
兵が驚いた顔をした。
「よろしいのですか」
「よくはない。だが、薄く広げるな」
昼前、最初の水桶が古井戸から戻った。持ってきたのは、南門の女だった。
桶の縁に水の跡があるが、半分もこぼれていない。
女は桶を地面に置き、息を整えた。
「前より、少ない」
「水がですか」
トマが慌てて聞いた。
「こぼれた分だよ」
女は少し笑った。
「桶の中は、前より多い」
トマは顔を赤くし、紙へ書いた。古井戸水運び、こぼれ減。
メイナが横から見て、頷いた。
鍛冶場では、老鍛冶師が炉に火を入れた。半刻遅れだが、昨日ならもっと遅れていた。
「水は」
「来ました」
「なら、鍋一つ先にやる」
老鍛冶師はそう言って、小鍋を炉の横へ置いた。
鍋を持ってきた女が、古井戸の桶を見てから、自分の鍋を見た。
午後、荷車を一台だけ通した。石灰袋は三つまで。荷台の右輪は昨日直した金具で鳴りを抑えている。押し手は一人、予備で一人。以前なら二人で押しっぱなしだった。
轍を越えた時、車輪は沈まなかった。完全ではない。軋みはあるが、止まらない。
「一人、余るな」
ゴルツが言った。
「余りません」
短く答えた。
「どこへ行く」
「配給列です」
「また列か」
「鍋が戻るまで、列を崩さない人が必要です」
ゴルツは泥のついた手を見た。
「道を直すと、列に戻るのか」
「はい」
「面倒だな」
「はい」
「はいじゃねえ」
それでも、ゴルツは笑っていた。
夕方、メイナが門前の紙に新しい欄を足した。
西門から古井戸まで。段差一、補修。沈む轍一、補修。泥三、うち一は保留処置。石灰使用二袋半、残り半袋。水運びはこぼれ減、荷車は停止なし。鍛冶場は半刻遅れで火入れ。配給列へ一名戻し。
「地味ですね」
トマが言った。
「地味です」
短く答える。
「でも、長いです」
「長いです」
「読む人、いますか」
「水を運んだ人は読みます」
トマは門前を見た。
南門の女が桶を置いて紙を読み、その横で鍋を預けた女も読んでいる。兵は石灰残の欄を見ていた。
ルシアは少し離れた場所で腕を組んでいた。
「一本、通ったね」
彼女は言った。
「古井戸までです」
すぐに訂正した。
「商人は、最初の一本を見る」
「まだ古橋跡までは見ていません」
「だから、次はそこだ」
ルシアの声から軽さが少し消えた。
「冬前商隊が止まった道を見るなら、荷だけじゃない。誰が守るか、どこまで払えるか、どこで引き返すかも決める」
新台帳を開き、今日の頁の下に次の欄を作る。試験荷・護衛実動・引き返し線。
エルクがそれを見た。
「俺の出番か」
「はい」
「今度は、守る場所を俺が決める」
「お願いします」
エルクの視線が一度だけ古井戸までの道へ流れた。
水桶が通り、荷車が止まらずに進む。泥は残っているが、一本は通った。
「明日は、商隊の道だな」
小さく頷いた。
西門から古井戸までの短い道は夕方の光で白く乾き始めていた。それでも、今日の水はこぼれずに戻った。その事実だけを新台帳の黒い線の下へ置いた。




