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追放された雑用係、敗戦処理の天才だった ~崩壊寸前の辺境領を立て直す~   作者: 山田鰻
第六章 最初の黒字

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最初の黒い線

南倉の戸締まり金具は夜のうちに直った。新品ではない。片側に歪みが残り、閉める時に少し持ち上げる必要もある。それでも扉は閉まった。内側から横木を落とし、外から金具を掛けると、がちゃん、と乾いた音がした。


その音を聞いて、老鍛冶師は炉の火を落とした。


「これで一晩は持つ」


「一晩だけですか」


レインが聞くと、老鍛冶師は煤で黒くなった眉を上げた。


「一晩を馬鹿にするな」


「していません」


「ならいい」


老鍛冶師は火ばさみを壁に掛けた。


「一晩持てば、朝に見直せる。朝に見直せば、昼まで持つ。昼まで持てば、次の金具を作る時間ができる」


小さく頷き、その順番を頭の中で台帳に置いた。


「炭代欄に入れます」


メイナが言った。


夜だというのに、彼女はまだ紙を持っている。


トマの目が、横で眠そうにしていた。


「南倉金具修理。炭使用、小。購入回避見込み、銅貨十四枚相当」


「十四?」


トマが目をこすりながら聞いた。


「新しい金具を買えば、そのくらいです」


そう答えた。


「今直した分は」


「炭と手間です。炭代欄から銅貨一枚相当」


「差し引き十三」


「帳簿上は、そう見えます」


トマの眠気が少し飛んだ。


「それ、黒字ですか」


「まだ違います」


「またですか」


「購入しなかっただけです」


トマの肩が落ちた。


メイナが軽く睨む。


「黒字にしたがると、帳簿が緩みます」


「はい」


「でも、黒い線は引けます」


トマが顔を上げた。


メイナの指が小さく紙の端を示した。


赤字の横に支出回避の黒線。細いが、確かにある。


トマの口元がそれを見て少しだけ緩んだ。


「黒字じゃない黒線」


「余計な言い方をしない」


「はい」


そのやり取りを聞きながら、南倉の扉に手を置いた。


扉は重く、蝶番も古い。戸締まり金具一つで完全に安全になるわけではない。それでも今夜、誰かがここへ手を出すには時間がかかる。時間がかかれば見回りが気づき、気づけば追うかどうかを選べる。


「見回りの手順を確認します」


レインが言うと、エルクが兵たちを呼んだ。


水運びを終えた兵、槍石突きを直した兵、以前に門前でレインを王都の雑用係と呼び、命令を嫌そうに聞いていた兵もいる。顔には疲れも不満もある。それでも逃げてはいない。


「追わない」


最初に口を開いた。


兵の一人が眉をひそめる。


「見つけてもですか」


「はい。持ち場を空けません」


「逃がすんですか」


「炭と倉を守る方が先です」


「敵を逃がせば、また来ます」


兵の声には焦りがあった。


南倉の扉を指した。


「敵が来る目的は、こちらを走らせることかもしれません」


「走らせる?」


「夜に兵が追えば、門が薄くなります。炭干し場が空きます。南倉も空きます。追った先で何もなければ、戻った時には別の場所が濡らされるか、開けられている」


兵たちは黙った。


バルドが低く言う。


「囮か」


「その恐れがあります」


「では、見つけた時は」


「笛を一度。近くの炭を覆う。二人で立つ。追う判断はエルクさんかバルドさんが来てから」


「剣を抜かれたら」


エルクが聞いた。


「下がってください」


「兵に下がれと?」


「守るものは、首ではなく炭と倉です。剣を抜かせた相手を追って怪我をするより、扉の前に二人残してください」


「臆病に見える」


「見えて構いません」


エルクの目が細められた。


「構うだろう」


「夜の倉前で勇ましく見える必要はありません。朝、扉が閉まっていて炭が乾いていれば勝ちです」


兵の何人かが、顔を見合わせた。


エルクの口元が少しだけ歪んだ。


「おまえの勝ちは、本当に地味だな」


「はい」


「だが嫌いではなくなってきた」


兵たちの肩から少し力が抜けた。


「見回りは三組」


木札を並べた。


「南倉前に二人、南壁炭干しに二人、西門内側に二人。水運びは一巡ごとに各組へ声をかける」


「声だけですか」


「声だけです。止まると水が遅れます」


「返事がなければ」


「笛を一度」


「笛が鳴ったら」


「全員は動かない。近い組だけが見る。遠い組はその場を守る」


以前なら、兵たちはここで不満を言ったかもしれない。


敵が見えたら全員で追う。以前ならそうだったかもしれない。だが今夜の兵たちは木札を見ていた。誰がどこに残るか、どこを見れば済印がつくか。自分の役目が狭く書かれている。


「俺は南壁で」


槍石突きを直した兵が言った。


バルドが眉を上げる。


「志願か」


「はい。自分の槍を直してもらったので」


「理由になっているようで、なっていないな」


「でも、炭が濡れたら、明日の修理が止まります」


兵は言ってから、自分で少し驚いた顔をした。


バルドが何も言わず、木札を一枚渡した。


南壁。


兵はそれを受け取った。


別の兵が言う。


「俺は西門内側で。炭粉の麻袋、飛びそうだったんで」


「おまえ、昨日まであの雑用係を追い出せと言ってなかったか」


横の兵が茶化す。


言われた兵は顔をしかめた。


「言ったよ」


空気が少し固まる。


レインも、覚えていた。


到着した頃、王都から来た者を信用できないと吐き捨てた兵の一人だ。


「でも、槍の石突き、直っただろ」


その兵は続けた。


「鍋の列も、昨日より揉めてない。炭粉が飛んだら、またあの紙が面倒になる」


「面倒だから守るのか」


「そうだよ。面倒が増えるのは嫌だ」


ゴルツが笑った。


「分かってきたじゃねえか」


「あんたに言われたくない」


門前に低い笑いが広がった。


「お願いします」


その兵に声をかけた。


兵は少しだけ困った顔をした。


「……分かりました」


返事は硬い。


それでも従った。


夜は長かった。一度目の巡回は異常なし。二度目、南壁の戸板の端に猫が乗っていた。


兵が笛を吹きかけ、ゴルツに止められる。


「猫で笛を吹くな」


「紛らわしいんだよ」


「猫は青い紐を結ばねえ」


「分からないだろ」


「分かるわ」


そのやり取りは翌朝まで話の種になった。


三度目は西門内側の麻袋が少し浮いていた。風だった。だが見張りの兵はレインの言った通り、追わず、触らず、近い組だけを呼んだ。石を増やして麻袋の端を折ると、炭粉は飛ばなかった。


四度目、南倉前で笛が一度鳴った。


門前の空気が凍る。


エルクが走り出しかけた。


声を上げる。


「遠い組は残ってください」


その声に、西門内側の兵が足を止めた。


走りかけていた。


だが止まった。


炭粉の麻袋の前に、二人が残る。


南壁の兵も、持ち場を離れなかった。


エルク・バルド・レイン・ゴルツだけが南倉へ向かった。


南倉前には布切れが落ちていた。


濡れていない。


古い麻布だ。


戸締まり金具に引っかけようとしたのか、金具の端に細い擦れ跡がある。


だが金具は外れていない。


「人影は」


エルクが聞く。


見張りの兵が首を振った。


「見えませんでした。音だけです。金具が鳴ったので、笛を一度。追ってません」


声が震えている。


金具を見た。曲がっていない。外れていない。扉も開いていない。


「正しいです」


兵が顔を上げた。


「追わなくて、よかったんですか」


「はい。倉は閉まっています」


「でも、人影を」


「扉が開いていたら、南倉の中身を数え直すところでした。炭粉が飛んでいたら、鍛冶場が遅れました。今はどちらも残っています」


兵は言葉を探した。


見つからないらしい。


バルドがその肩を叩いた。


「今夜はそれで勝ちだ」


今度はバルドが言った。


兵は小さく頷いた。


「はい」


麻布は証拠として回収した。青い紐はない。ただ布の端に黒い油がついていた。南倉の金具へ触れた時についたものだ。老鍛冶師が塗ったばかりの油だった。


「触った証拠になるか」


エルクが聞く。


「断定は避けます」


「また可能性か」


「はい」


「だが今度は扉が開かなかった」


「はい」


「それでいい」


エルクの手が剣から離れた。


夜の残りは何も起きなかった。夜明け、メイナの筆が門前の紙の下に新しい欄を足した。


夜間保全。南倉、開放なし。炭干し三か所、損耗なし。炭粉、飛散なし。見回り六名・笛一回・追跡なし。


「追跡なし、まで書くのか」


バルドが聞いた。


「書きます」


そう答えた。


「追わなかったことが成果なので」


バルドの目がしばらく紙を見て、それから頷いた。


「そうだな」


兵たちも、その欄を見た。


追跡なし。


「済印は」


水運びをした兵が聞いた。


メイナが印を押した。


夜の水運び。


炭干し巡回。


済。


兵はその印を見て、少しだけ口元を緩めた。


午前の鍛冶場は予定通り動いた。小鍋二・桶輪二・鍬先一・槍石突き一・南倉金具の再確認。共有鎌の返却二件・飼葉受入は籠二・修理料受入は銅貨六枚。乾豆二握り・作業返済三刻分・炭代支出は銅貨換算四枚。


メイナが集計した時、トマが先に数を見た。


「残っています」


「何が」


ゴルツが覗き込む。


「炭代欄です。昨日までの銅貨二十枚に、今朝六枚。合計二十六枚。炭代支出が、昨日と今朝で二十三枚相当」


「三枚残るのか」


「はい」


トマの指が、何度も数え直した。


「銅貨三枚、残ります」


鍛冶場が静かになった。


銅貨三枚。たった三枚。領地全体の赤字から見れば砂粒のような額だった。それでも炭代専用欄の受入・支出・差引に、初めて残りが出た。


「黒字ですか」


トマが小さく聞いた。


今度はメイナもすぐに否定しなかった。


紙を見た。


領地全体では違う。鍛冶場も、明日の炭を考えれば余裕はない。見えない疲労も残っている。それでも炭代専用欄だけなら、今朝のこの時点だけなら、受け入れたものが使ったものを銅貨三枚上回っている。


「炭代欄に限れば」


短く言葉を継いだ。


「差引、銅貨三枚の黒字です」


トマが息を止めた。


ゴルツが目を丸くした。


老鍛冶師は槌を置いた。


メイナの筆が静かに、しかし少しだけ強く、走った。


炭代欄。差引、銅貨三枚。黒。赤字ではない、小さな黒い線だった。


「小さいですね」


ミリアが言った。


いつの間にか、彼女は鍛冶場の入り口に立っていた。


領主館用の紙を貼りに行った後、ほとんど眠っていない顔だった。


それでもその目は紙を見ていた。


「小さいです」


そう答えた。


「でも、嘘ではありませんね」


「はい」


「領地全体の黒字ではない」


「はい」


「けれど鍛冶場の火は、昨日より自分で少しだけ続く」


「はい」


ミリアの胸から深く息が抜けた。


だが彼女は両手を胸の前で握った。


「これを、領主館にも貼ります」


「反対が出ます」


「昨日も出ました」


「何と言われましたか」


ミリアの口元が少しだけ苦く緩んだ。


「領主家の恥を門前に貼るな、と」


「それは」


「でも、同じ人が今朝壊れた暖炉金具を持ってきました」


ゴルツが吹き出した。


老鍛冶師も笑った。


エルクの手が額に当たる。


「誰です」


「名は出しません」


そう続けた。


「出しませんが、修理料は取ります。炭代欄に入れます」


その声は疲れていた。


だが昨日より強い。


ガレスが鍛冶場へ入ってきた。


手には古い木板を持っている。


「門前に出す用だ」


「早いですね」


レインが言う。


「老人は朝が早い」


「ありがとうございます」


「そこは慣れたな」


「少しだけです」


ガレスの目が炭代欄の黒い線へ落ちた。


そして、ゆっくり頷いた。


「これだ」


「これ、ですか」


「わしが見たかったものだ」


ガレスの手が木板を置いた。


「赤字が減るだけでは、人はまだ疑う。だが一つでも黒い線が出れば、次に何を残すべきか分かる」


「黒字は炭代欄だけです」


「それでいい」


「領地全体では」


「誰も領地全体が救われたとは言っておらん」


ガレスの声は、いつもより少し重かった。


「だが火が自分で次の火を呼んだ。これを最初の黒字と言わずに、何と言う」


返事に詰まった。


最初の黒字。まだ早いと思っていた言葉だ。


「記録します」


メイナが言った。


「大きな題はつけませんが」


「しなくていい」


ガレスが笑う。


「炭代欄、初黒字。銅貨三枚。それで十分だ」


メイナの顎が頷き、門前用の紙に太く書いた。


炭代欄、初黒字。銅貨三枚。黒字は領地全体ではありません。


最後の一行は、レインが足した。


ミリアがそれを見て、笑いそうになった。


「必要ですね」


「必要です」


「分かっています」


門前に貼ると、人が集まった。


まず、鍋を直した女。


次に、桶輪の老人。


共有鎌を借りた農民。


槍石突きを直した兵。


そして、昨日まで不満を口にしていた者たち。


「三枚?」


誰かが言った。


「それだけか」


別の誰かが言う。


小さく頷いた。


「三枚です」


「三枚で何ができる」


「今日の炉を少し長く保てます。もしくは、明日の炭運びの縄を二本替えられます」


「飯は増えないのか」


「増えません」


不満の息が漏れる。


そのまま続けた。


「ただ飯を減らす理由が一つ減ります」


門前が静かになった。


増えない。でも、減らさずに済むかもしれない。


「鍛冶場が続けば、壊れた鍋と農具は順番に直せます。共有鎌が戻れば、飼葉が少し入ります。兵装を直せば、隠れた危険が減ります」


紙を指した。


「黒字は小さいです。だから、使い道を決めてからでないと使いません」


「何に使う」


桶輪の老人が聞いた。


答える前に、ミリアを見た。


これは領主代理が決めることだ。


ミリアの足が一歩前へ出た。


「銅貨三枚は、炭運びの縄と、鍛冶場の水桶の紐に使います」


「食い物じゃないのか」


「食い物ではありません」


ミリアの声が、まっすぐ落ちた。


「縄が切れれば炭が濡れます。桶の紐が切れれば水がこぼれます。火と水が止まれば、鍋も農具も直りません」


老人は頷いた。


「なら、先に縄だ」


老人の言葉に、何人かが納得した顔をした。


午前の終わりに、問題が起きた。


西門から南倉へ向かう荷車の前で、二人の兵が言い争っていた。


一人は昨日レインを追い出せと言っていた兵。もう一人は槍石突きを直した兵だ。荷車には石灰袋が四つ載っている。本来の上限は三つ。


「一つくらい増やせるだろ」


「三つまでだ」


「今朝は急ぎだ。南倉の前が詰まってる」


「詰まってても三つだ」


「おまえ、いつから帳簿係の味方になった」


「味方じゃない。車輪が割れる」


レインが近づく前に、二人の声が聞こえた。


足を止める。


エルクが隣で眉を上げた。


「止めるか」


「少し待ちます」


「喧嘩になるぞ」


「今、判断しています」


二人の兵は確かに言い争っている。だが手は出ていない。片方は石灰袋を降ろそうとし、もう片方は荷車の前に立って轡を押さえている。


「どけ」


「どかない」


「命令だぞ」


「誰の」


「南倉の班長だ」


「班長に言え。西門荷車は二往復限定、積み荷は三つまで。紙にある」


足を止めた。紙にある。兵がそう言った。現場の兵が、紙を盾にして荷を減らそうとしている。


「紙なんか」


もう一人が言いかけた時、バルドが背後から低く言った。


「紙なんか、何だ」


兵の顔色が変わった。


「いえ」


「続けろ」


「……紙に従います」


「最初からそう言え」


バルドの目が荷車へ落ちた。


「四つ目を降ろせ」


兵が石灰袋を降ろす。


重い。


腰を使わずに持とうとして、レインが止めた。


「二人で」


兵は一瞬だけ反射的に嫌な顔をした。


だがすぐにもう一人を呼んだ。


二人で袋を降ろす。


車輪が少し浮き、荷車のきしみが軽くなった。


「出せ」


バルドが言う。


荷車は動いた。右輪は鳴るが割れない。三つの石灰袋を載せ、ゆっくりと南倉へ向かう。何も命じてはいない。命令は紙と木札に書かれていた。敵対していた兵が、それを使った。


「レイン」


エルクが言った。


「今のは、おまえの命令か」


「昨日の指示です」


「今日、言ってない」


「はい」


「なのに動いた」


「はい」


エルクの目が荷車の轍へ向いた。


浅い。


三袋だからだ。


「こういうことか」


「何がですか」


「兵站ってやつだ」


少し考えた。


「たぶん、違います」


「違うのか」


「兵站の一部です」


エルクの顔が呆れた。


「そこは頷いておけ」


「すみません」


「だが分かった。戦場で剣を振る前に、こういうものが折れると負ける」


「はい」


「今まで俺は、折れてから怒っていた」


エルクの声は、少し苦かった。


「折れる前に止める紙を作るのも、仕事なんだな」


小さく頷いた。


それ以上は言わなかった。


昼前、門前の紙に新しい行が足された。


西門荷車。過積載一件、現場判断で停止。車輪損耗、回避。石灰袋一、次便へ。指示待ち一件、減。


メイナが書き終えた時、昨日の兵が紙を見て、そっぽを向いた。


「そんなのまで書くのか」


「書きます」


そう答えた。


「恥じゃねえか」


「車輪が割れなかった記録です」


「俺の名前は」


「書きません」


兵は少しだけこちらを見た。


「書かねえのか」


「人ではなく、手順の記録なので」


「……そうか」


兵は紙を見直した。


ゴルツが横から言った。


「名前が欲しかったのか」


「違う」


「書いてやろうか。紙なんかって言った兵」


「やめろ」


「いい名前だぞ」


「やめろ」


周りが笑った。


兵も、少しだけ笑った。


笑った後で、彼はレインに向かって短く言った。


「次も、三袋で行かせます」


「お願いします」


「お願いします、か」


兵は変な顔をした。


それから、木札を持って西門へ戻った。


午後、炭代欄の銅貨三枚は、ミリアの決定どおり縄と桶紐に使われた。


銅貨は消えた。


黒字欄の残りはゼロになる。


トマが少し残念そうな顔をした。


「なくなりました」


「使ったので」


そう答えた。


「黒字、消えたんですか」


「違います」


メイナが言った。


「黒字を使って、明日の火を残したのです」


トマの目が縄へ落ちた。


新しい縄・補強された桶紐・南壁で乾く炭。


「残り方が変わった」


「はい」


小さく頷いた。


「銅貨としては残っていません。けれど炭を運ぶ縄と水を運ぶ桶紐に変わりました」


「なら、次も火がつく」


「その可能性が上がります」


「可能性」


トマの口元が笑った。


「レインさんらしいです」


返事に迷い、帳簿へ目を戻した。


夕刻、ガレスが一枚の板を持ってきた。


そこには、第七日の作業案が書かれていた。


街道短距離補修。西門から古井戸まで。石灰袋三・砕石六・砂利四。荷車は二往復。作業者は兵二・農民四・今日雇い二。炊き出し、薄めず。


「次は道ですか」


レインが聞く。


「道だ」


ガレスの声が短く落ちた。


「鍛冶場が動いた。荷車も動いた。石灰もある。なら、短い道を直す」


「古井戸まで」


「水だ。水の道を先に直す」


板を見た。


次の仕事の入り口が見えた気がした。


街道の大補修ではない。王都へつながる大きな道でもない。西門から古井戸までの短い道。けれどその道が直れば水運びが減り、鍛冶場の手が空く。手が空けば修理が進み、鍋と農具が戻る。鍋と農具が戻れば、配給の列が少し短くなる。


「この作業案は、誰が」


レインが尋ねると、ガレスの顎が西門を示した。


そこには、昨日までレインを嫌っていた兵と、槍石突きを直した兵がいた。


二人で轍を見ている。


石灰袋の数を数え、車輪の音を聞いている。


その横にゴルツが腕を組んで立っていた。


「あいつらが、荷車を壊さずに水運びを減らすなら、そこだと言った」


ガレスが続けた。


「わしは、板にしただけだ」


西門の兵たちを見た。


彼らはレインに気づくと、少し気まずそうにした。


それでも逃げなかった。


一人が木札を掲げる。


西門から古井戸。石灰、三。二往復まで。


小さく頷いた。


兵も頷き返した。


「レインさん」


ミリアが隣に立った。


「はい」


「明日から、この作業案をあなたの指揮で進めてください」


一瞬、言葉を失った。


「私の、ですか」


「はい」


「ガレスさんの方が」


「ガレスには監督をお願いします。エルクには護衛と兵の配置を。私は領民への説明を続けます」


ミリアの視線がまっすぐレインへ向いた。


「でも、作業の順番と、何を残して何を後に回すかは、あなたが決めてください」


すぐには頷けなかった。


胸の奥が妙に静かだった。


嬉しいのか、怖いのか。どちらも数字にできない。


「私で、いいのですか」


言ってから、弱い問いだと思った。


だが出てしまった。


ミリアの表情が、少しだけ緩んだ。


「あなたでなければ、銅貨三枚はただの三枚でした」


ガレスが頷く。


「そうだ」


エルクも短く言った。


「俺は三袋で止められん」


「止めていました」


レインが言うと、エルクの口元が苦く緩んだ。


「折れてからな」


返せなかった。


ミリアの手が作業案の板を差し出した。


「お願いします」


板を受け取った。


重くはない。


だが金物箱より重く感じた。


西門から古井戸まで。短い道。名もなき雑用に見える作業。けれどその道の上を水が通り、石灰が通り、鍋を直す人が通る。誰かが名をつけなくても、明日の火につながる。


台帳の新しい頁を開いた。


第七日の作業。西門から古井戸まで。


その下に、まだ小さく書く。


水運び短縮見込み。


鍛冶場手空き見込み。


門前では、炭代欄の黒い線が乾いていた。


銅貨三枚はもうない。


それでも線は消えない。


領地が自分の手で次の日を買った、その跡だけが残っていた。

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