銅貨一枚の理由
西門の前には鍋を抱えた人が並んでいた。鍋だけではない。鎌・桶の輪・折れた鍬・戸口から外したらしい蝶番・布で包んだ小さな刃物。それぞれ壊れ方も急ぎ方も違うが、門前に立つ人の顔はよく似ていた。
直るなら直したいが、余分に払うものはほとんどない。
最初に人数を数えた。二十七人、持ち込み品は三十四。一人で複数抱えている者もいれば、列の後ろで様子を見ているだけの者もいた。
「列を三つに分けます」
門番の兵にそう告げた。
兵は一瞬だけ戸惑った。
「三つ、ですか」
「今日中に火へ入れるもの。預かって順番を決めるもの。危ないので受け取らないもの」
「危ないので、受け取らない」
「割れた刃物を布だけで包んでいるものは、ここで開かないでください。子どもが近い」
兵の視線が列の横へ動くと、確かに母親の裾を掴んだ子どもがいた。兵は顔色を変え、すぐに声を張った。
「刃物を持っている者は、布をほどくな。合図があるまで地面に置け」
エルクがその声を聞き、軽く頷いた。
ゴルツが木札を抱え、不満そうに列の前へ出た。
「鍋はこっち。鎌と鍬はあっち。刃物は置け。置けって言ってんだろ、手に持ったまま近づくな」
「おまえ、いつから役人になった」
列の中から、誰かが笑った。
ゴルツが睨み返す。
「今日だけだ」
「昨日もそう言ってなかったか」
また笑いが起きた。
その間に、壊れ物をざっと見る。小鍋八・大鍋二・鎌六・鍬四・桶輪五・蝶番二・刃物七。
刃物七のうち、三つは危ない。一つは刃の根元が欠け、一つは柄が腐り、一つは布越しでも先が曲がっているのが分かる。
「危険廃棄、三」
メイナが書く。
トマがその横で、持ち主の名を聞き取っていた。名前・品目・状態・預かり札・修理料・受取予定。紙の上に欄が増える。
「領主代理様が話される」
エルクの声が門前に響いた。
人のざわめきがすぐには止まらない。鍋を抱え直す音・子どもを後ろに下げる声・誰かが咳き込む音。その上に、ミリアが一歩前へ出た。
台ではなく、荷車の横木に立つ。
「皆さん」
ミリアの声は、最初だけ少し震えたが、途中で消えなかった。
「鍛冶場を、今日から動かします」
ざわめきが広がる。喜びではない、疑いを含んだざわめきだ。
「ただし、何でも無料で直すことはできません」
今度のざわめきは、はっきり濁った。
「税を取って、まだ取るのか」
前の方にいた男が言った。肩幅の広い、畑仕事の手をした男で、抱えているのは鍬先だった。
「家には麦も残ってないぞ」
「うちの鍋は、領主館の兵に貸し出した時に歪んだんだ」
別の女が言う。
「それも払うのかい」
ミリアの手が、袖を握った。
エルクが前へ出かけたが、ミリアが小さく首を振った。
「払えない家から、無理に銅貨を取ることはしません」
そのまま続けた。
「銅貨がない場合は、乾豆一握り、大麦一握り、または作業一刻で代えます」
「作業?」
「錆落とし、柄の掃除、桶の水運び、壊れ物の分類です」
男が鼻を鳴らした。
「それなら無料と何が違う」
「鍛冶場の火を、明日もつけるためです」
ミリアの視線がレインへ向いた。
小さく頷いてメイナに合図すると、メイナが木板を二枚、前へ出す。
一枚目には今日の支出が書かれている。炭・油・水運び・老鍛冶師の半日分で、合計、銅貨十八枚相当。
二枚目には、今日すでに直った小鍋の修理料――銅貨一枚、炭代専用と書かれていた。
「今、鍛冶場を半日動かすには、最低でも銅貨十八枚分が要ります」
そう続けた。
「今日、最初に入った修理料は銅貨一枚です」
列の前にいた女が、小さく声を上げた。
「あたしのだ」
「はい」
布袋から銅貨を出し、木板の上に置いた。
「これは領主館の金庫には入れません。鍛冶場の炭代にだけ入れます」
「そんなの、後で分からなくなるだろ」
鍬先の男が言った。
「分からなくならないように、ここに貼ります」
メイナが別の紙を出した。炭代受入――日付・名前・品目・受けたもの・使った先。欄は大きく、遠くからでも見える。
「門前と鍛冶場、同じものを二枚貼ります」
メイナの声は硬かった。
「一枚は私が書きます。一枚はトマが写します。数字が違えば、その場で直します」
トマの顔が引き締まった。
「僕が写します」
声は少し裏返ったが、門前まで届いた。
「字が汚かったら?」
誰かが言った。
トマの肩が一瞬固まる。
メイナがすぐに答えた。
「私が書き直します」
列の後ろで、さっきより柔らかい笑いが起きた。
ミリアがその笑いの消えるのを待ち、もう一度前を向いた。
「今まで、領主館は皆さんへの説明が足りませんでした」
門前が静かになった。
エルクの顔が強張る。ガレスも黙ってミリアを見た。
「不足していました」
言い直す声が、もう一度落ちた。
「だから、今日から、全部とは言えませんが、直すもの、直せないもの、支払われたもの、使ったものを見える場所に出します」
「出したら、食い物が増えるのか」
今度は腕に桶輪を三つ通した痩せた老人が言った。
ミリアの返事はすぐには出なかった。
「すぐには増えません」
「でも、桶の輪が直れば、水を運べます。鍋が直れば、粥を炊けます。鎌が直れば、刈り残した草を飼葉にできます。そういうものを一つずつ戻して、買うものを減らします」
老人は桶輪を見た。
「買わずに済ませる、か」
「はい」
「領主館がけちになるって話か」
ゴルツが思わず口を開きかけたのを、目で止めた。この問いは、ミリアが受けるべきだ。
ミリアが一度だけ頷いた。
「けちになります」
ざわめきが跳ねた。エルクが目を見開く。
そのまま続ける。
「でも、削る場所を間違えないようにします。削ってはいけない食料と水と道は残します。削れる見栄と無駄を削ります」
「見栄?」
「領主館の夕食の皿数を減らしました」
今度は、本当に静かになった。
ミリアの声が淡々と続く。
「客用の白パンを止め、兵と同じ麦粥に替えています。燭台の油も半分にしました。私の部屋の暖炉も、夜半で消します」
「ミリア」
エルクが低く言った。
「見栄を残して修理料を取れば、皆さんは怒って当然です」
ミリアの声に、迷いはなかった。
「だから、まず私たちが削ります。その上で、鍛冶場を止めないための銅貨一枚をお願いします」
列の女が、小鍋を抱きしめた。
「……本当に、炭代だけに使うんだね」
「はい」
「領主館の皿に戻さないね」
「戻しません」
銅貨一枚だけが入った小さな布袋を掲げた。
「今日の修理受付は、十二件までです」
そう告げた。
「十二だけか」
列の後ろから不満が出る。
「三十四件あります」
「なら三十四やれ」
「やると、明日の炉が止まります」
声の主が黙った。
木板の横へ、修理順の札を並べた。一、今夜の食事に必要な鍋。二、明朝の水運びに必要な桶輪。三、明日の作業に使う鎌と鍬。四、家の扉や棚の蝶番。五、刃物類。
「刃物が最後か」
腰に壊れた鉈を下げた若い男が言った。
「刃物は危険確認に時間がかかります」
「俺は明日、森へ入る」
「一人でですか」
「そうだ」
「では、直しても渡しません」
若い男の顔が赤くなる。
「何だと」
エルクが一歩出るが、今度はレインが先に言った。
「黒森寄りの道は、二人組以上でなければ入れません。つい先日、荷車が狙われました。刃物だけ直して一人で入れば、戻らない可能性があります」
「俺の勝手だ」
「戻らなければ、あなたの家の鍋を誰が運びますか」
若い男の口が止まった。
「刃物の修理は、使い道と組で受けます。森へ入るなら二人組。門番に名を残す。戻り時刻も書く」
「役所の許しが要るのか」
「生きて戻るための確認が要ります」
若い男は不満そうだったが、周囲の年寄りが彼を見る目は違った。
「その鉈は、今日は預かります」
レインが言う。
「明朝、二人で来てください」
若い男は唇を噛み、壊れた鉈を地面に置いた。
ゴルツが布越しに受け取り、危険確認の札をつける。
「預かり札」
メイナが言う。
トマが若い男の名を聞き、札を書いた。
次に、鍋。小鍋は六件を今日受け、大鍋は一件だけ。残りは明日だ。
「大鍋を後回しにするのかい」
太った女が言った。
「うちは五人いる」
鍋の底を見た。底の薄さ・縁の割れ・持ち手の緩み。
「これは今日です」
「なら、何が後回しなんだい」
「こちらの大鍋です」
別の家の大鍋を示す。
「こっちは水漏れしていません。縁は欠けていますが、布を巻けば一晩使えます」
「布?」
「継ぎ布を一枚渡します。返却は明日」
「借りるのか」
「はい。借りた布は洗って返してください。返せなければ、大麦半握り」
女たちが顔を見合わせた。貸す・返す・返せないなら代わりを出す。
「継ぎ布、貸出一」
メイナが書いた。
「明日返却」
トマが写す。
鍋の列が少しずつ動き始めた。
最初に直した女が、後ろの者に言う。
「本当に一枚だったよ。底は薄いって怒られたけど」
「怒られたのかい」
「空焚きするなって」
小さな笑いが起き、鍋を抱えた人の肩から少し力が抜ける。
「鎌は明朝に回します」
レインが言うと、農民たちから不満が出た。
「明朝じゃ遅い」
「夕方に少し刈りたいんだ」
「飼葉が足りない」
「今日直す鎌は二本です」
短く告げた。
「二本だけか」
「はい。その二本は共有にします」
「共有?」
「西門横で貸し出します。一刻ごとに返却。刈った草の十分の一を、馬の飼葉置き場へ入れてください」
一瞬、誰も反応しなかった。
ルシアが小さく息を吐く。
「やるね」
「それは税か」
農民の一人が聞く。
「税ではありません。鎌の使用料です。銅貨の代わりに草で払えます」
「草を取るのか」
「馬が食べます。馬が動けば荷が動きます」
「俺の草だ」
「では、自分の鎌を明日直します。今日の共有鎌は使わないでください」
男は黙った。
「共有鎌二。使用料、草十分の一」
メイナが書く。
「返却時刻も」
レインが言う。
「はい」
トマが貸出札を作り始めた。一刻・二刻・日没前の三つだ。
「桶輪は」
老人が三つの桶輪を掲げた。
「水運びに使うなら今日です」
短く答えた。
「ただし、全部は直しません。一つは直す。一つは予備。一つは材料に戻します」
「三つ持ってきたのに」
「三つとも直すと、炭が減ります。一つ直せば水は運べます」
老人はしばらく桶輪を見た。
「……そう言われると、そうだな」
説明会は日没前まで続いた。修理受付十二件・預かり十六件・危険廃棄三件・持ち帰り三件。炭代受入は銅貨九枚・乾豆五握り・大麦三握り。作業申出七人・鎌共有使用予定四人・馬の飼葉見込み籠二つ分。
トマが最後の数字を書き終えた時、指先が墨で黒くなっていた。
メイナがその写しを確かめ、頷く。
「一致しています」
「よかった」
トマの胸から小さく息が抜けた。
「よかった、ではありません」
メイナが言った。
「明日も一致させます」
「はい」
ミリアの目が門前に貼られた紙へ向いた。炭代受入・修理順・貸出札・危険廃棄・領主館の削減。紙だらけの門になった。
「これで、納得してもらえたのでしょうか」
ミリアが、領民には聞こえない小さな声で聞いた。
少し考えた。
「全員ではありません」
「ですよね」
ミリアの口元が苦く緩んだ。
「ただ、待つ理由はできました」
「待つ理由」
「順番が見えれば、人は少し待てます。理由が見えれば、少し払えます」
「少し、ばかりですね」
「今は少しを集める時です」
ミリアの目が門前の人々へ流れた。
誰も笑ってはいないが、列は崩れていない。鍋を預けた者は預かり札を握り、鎌を借りる者は返却時刻を確認している。若い男は、壊れた鉈の代わりに、門番から明朝の同行者名を書く板を受け取っていた。
ガレスがレインの横に来た。
「銅貨九枚、豆五握り、大麦三握り」
「はい」
「炭代には足りん」
「足りません」
「だが、明日の火をつける口実にはなる」
「はい」
ガレスが門に貼られた紙を見上げた。
「昔はな、こういうことは倉番と鍛冶場と村役が勝手にやっていた」
「はい」
「それを領主館が知らず、帳簿が知らず、兵が知らず、商人が値を乗せた。だから、同じものを三度買った」
黙って聞いた。
「おまえは、紙を増やしているようで、買い物を減らしている」
「まだ減らし切れていません」
「そこは、ありがとうございますと言え」
「……ありがとうございます」
ガレスはそれを見て、低く笑った。
「慣れろ。これから増える」
その時、門前の紙を見ていた兵の一人がぽつりと言った。
「俺の槍の石突きも、これで直るか」
バルドが振り返る。
「おまえ、壊していたのか」
「割れてます。報告すると怒られると思って」
「怒る」
兵は肩をすくめたが、逃げなかった。
「でも、直るなら出します」
隣の兵も槍を見下ろし、もう一人は腰の革帯を触る。兵装の小さな不具合が言葉になり始めた。
すぐに台帳を開いた。
「兵装小修理の欄を作ります」
メイナが何も言わずに紙をめくった。
バルドが兵たちを睨む。
「全員、夕食前に自分の槍と革帯を見ろ。隠していたら飯を減らす」
「飯を減らすのは駄目です」
レインが言う。
バルドが顔をしかめる。
「そこは駄目か」
「動けなくなります」
「じゃあ、夜の水運びだ」
「それなら」
兵たちが嫌そうな顔をしたが、何人かは自分の装備を確認し始めている。
ルシアが門の柱にもたれて笑っていた。
「商売になると言っただろう」
「まだ商売ではありません」
短く答えた。
「では何だい」
「破綻の棚卸しです」
「嫌な店だね」
「はい」
「でも、客は並んでいる」
ルシアの言葉に、目を門前へ戻した。
確かに、列はまだ残っていた。直してほしい人・預けるか迷う人・貼られた紙を読めないから隣に読んでもらっている人。
ミリアが荷車の横木から降りると、足元が少しふらついた。エルクが手を伸ばしかけたが、彼女は自分で立った。
「レインさん」
「はい」
「明日の朝、もう一度説明をします。今日来られなかった人にも」
「分かりました」
「その前に、炭を確保しなければなりませんね」
黙って頷いた。
「今の炭では、明日の昼までです」
「炭焼き小屋は」
「以前確認した農具小屋の近くに、古い炭置き場がありました。ただ、道が悪い」
「人を出します」
「兵を出すと門が薄くなります。農民を出すと朝の作業が遅れます。今日雇いを増やすと、粥が減ります」
ミリアの返事は、すぐには出なかった。
「では、どうしますか」
「明朝の作業申出七人を、二組に分けます。水運び三。炭運び四。護衛は兵一人と、ゴルツさん」
「俺かよ」
離れたところで木札を束ねていたゴルツが、即座に反応した。
「はい」
「今日だけって言ったよな」
「明朝の手が足りないので聞きました」
「聞くなって言っただろ」
「断りますか」
ゴルツの口が閉じた。
周りの視線が集まる。兵・領民・老鍛冶師・メイナ・ミリア。
ゴルツの顔がものすごく嫌そうに歪んだ。
「粥は」
「普通です」
「銅貨は」
「半日三枚」
「炭粉を吸ったら」
「水を二杯」
「薬は」
「ありません」
「分かってるよ」
ゴルツの手が木札を腰に挟んだ。
「明朝だけだ」
バルドが笑い、エルクも今度ははっきり笑った。門前の領民からも、少し笑いが起きた。
ゴルツが舌打ちした。
台帳に明朝の欄を作った。炭運び四人・護衛一・ゴルツ。水運び三人。鍛冶場稼働、昼まで。その下に小さく、炭が戻れば夕刻まで延長、と書く。
門前の紙が夕風に揺れた。黒い墨が乾く前に、明日の仕事が始まっていた。




