濁った古井戸
古井戸の水は、桶の底で茶色く揺れていた。
レインは、すぐには触らなかった。
匂いを先に見る。
土。
少しだけ藁。
腐った肉や油の匂いではない。
だが、飲める水ではなかった。
「捨てますか」
南門の使いが聞いた。
「この桶の分は」
短く答えた。
「井戸そのものは、まだ捨てません」
古井戸の周りには、すでに人が集まっていた。
水を汲みに来た女。
桶を持つ子供。
南門の兵。
そして、井戸番をしている老人。
老人は、胸の前で手を組んでいた。
「昨夜までは、澄んでおりました」
彼は言った。
「今朝、最初の桶から」
「何桶目ですか」
「三桶、上げました。全部、土の色で」
「最初の桶は」
「捨てました」
「二桶目は」
「洗いに使おうとした者がおりまして」
「止めましたか」
老人はうなずいた。
「土の匂いが強かったので」
「よく止めました」
老人は驚いた顔をした。
レインの目が井戸の縁へ落ちた。
石組みは古い。
北側の石に、細い隙間がある。
その隙間から、湿った土が少しだけ出ていた。
土が混じった。
「昨夜、雨は」
「降っておりません」
南門の兵が答える。
「では、水が増えた理由は別にあります」
エルクが井戸の中を覗き込んだ。
「水門か」
「可能性があります」
昨夜、東小屋の水門が開いた。
水路の流れが変わった。
「つまり、昨日の麦とつながっているのか」
エルクの声が低くなる。
「直接かどうかは、まだ分かりません」
「また、まだか」
「はい」
「だが、関係はある」
「水の動きとしては」
エルクが井戸の縁を叩きたい顔をした。
「飲ませるな」
彼が兵に言った。
「全部止めるのですか」
ミリアが聞く。
彼女は井戸覆いを腕に抱えたまま来ていた。
布は重い。
それでも、下ろさない。
「飲用は止めます」
そのまま続けた。
「洗いは」
「泥を落とす程度なら、沈ませた上澄みを使えるかもしれません。ただし、病室と食器には使いません」
ミリアがすぐに頷いた。
「飲用停止。洗いは限定」
メイナが書く。
「用途分けですね」
「はい」
「井戸も、ただ閉じるだけではない」
「閉じると、南井戸に人が集まりすぎます」
南井戸の縄も傷んでいる。
そこへ古井戸の利用者まで行けば、今日中に切れるかもしれない。
「この井戸を使っている家は」
井戸番が答えた。
「南門の内側で二十七。兵舎の洗い桶が二。馬小屋が一」
「一日何桶」
「家が一桶ずつなら二十七。兵舎が四。馬小屋が三。合わせて三十四ほど」
新台帳に書き付けた。
古井戸。
使用家、二十七。
兵舎洗い、四桶。
馬小屋、三桶。
計、三十四桶目安。
「南井戸へ全部回すと」
「南井戸は、今でも朝に二十桶ほどです」
南門の兵が言った。
「合計五十四桶」
メイナが計算する。
「傷んだ縄では無理です」
「今日中に切れます」
レインが言うと、井戸番の顔が青くなった。
「では、どうすれば」
「分けます」
紙に三行を書いた。
飲む水。
洗う水。
馬の水。
「飲む水は南井戸。優先は病室、負傷兵、幼児のいる家」
女たちの間にざわめきが起きた。
南門の古参兵が、低く言った。
「また止めるのか」
「飲用だけです」
「酒も止めた。布も持っていった。今度は水だ」
別の男が、桶を握り直す。
「切ってばかりじゃ、領地が痩せる」
エルクがその言葉を聞き、レインを見た。
責めたい顔だった。
「俺も、そう思う」
エルクが言った。
「お前のやることは、いつも何かを削る」
「はい」
「はい、じゃない」
エルクの声が荒くなる。
「兵から酒を取り、館から布を取り、今度は井戸を分ける。理屈は分かる。だが、聞かされる側は、削られているだけだ」
井戸の周りが静かになった。
木札を見た。
飲む水。
洗う水。
馬の水。
「切るだけなら、この井戸は閉じます」
「違うのか」
「閉じません。飲み水から外し、洗い水として残します」
「それで納得しろと」
「納得は、今でなくていいです」
エルクが眉を寄せた。
「何だ、それは」
「今日、腹を立てたままでも、水は分けられます。明日、水が澄んだら、飲み水に戻せます」
古参兵が舌打ちした。
「洗う水は、古井戸の上澄みを沈ませてから。食器と傷口には使わない」
「馬は」
南門の兵が聞いた。
「馬小屋の水桶は、南井戸から二桶だけ。残りは古井戸を沈ませた後の水。ただし、泥が濃い桶は捨てます」
「馬に泥水を」
エルクが言う。
「泥水ではなく、沈ませた水です。馬も腹を壊します」
「なら」
「馬に麦を運ばせるなら、水も必要です」
エルクの口が閉じられた。
「井戸の中をさらう必要があります」
そのまま続けた。
「今日ですか」
ミリアが聞く。
「はい。ただし、人を中へ下ろす前に、外側です」
「外側」
「北側の土が緩んでいます。先に水路側の溝を見ます」
古井戸の北には、細い排水溝があった。
昔は水路へ逃がすための溝だろう。
今は半分埋まっている。
泥。
枯葉。
そして、藁。
見覚えのある藁だった。
本倉の麦袋に詰められていたものと似ている。
「誰か、ここへ藁を捨てています」
トマが言った。
彼も来ていた。
紙束を抱えている。
「本倉の藁袋ですか」
「似ています」
藁を手に取り、匂いを嗅いだ。
乾いた倉の匂い。
水路の草ではない。
「捨てた藁が排水溝を塞ぎ、水門の水で土が押された」
ミリアがゆっくり言う。
「だから、井戸に土が」
「その可能性が高いです」
「嘘の麦袋が、井戸まで汚した」
彼女の声に、怒りが混じった。
うなずいた。
「嘘は、紙の上だけでは終わりません」
井戸の周りの人々が静かになった。
藁袋の偽装を見た者は少ない。
だが、濁った水は、誰でも見える。
「やることを分けます」
井戸の縁に、木札を三つ置いた。一つ目に飲用停止、二つ目に排水溝さらい、三つ目に井戸縄交換。
「人手は」
ミリアが聞く。
「南門の兵二。今日雇いから二。兵舎の動ける者二。井戸番」
「今日雇い」
エルクが言う。
「ゴルツさんたちです」
「また使うのか」
「昨日、南倉道と東小屋で動きました。今朝、支払いを受ける前に仕事を増やすなら、木札を書き直します」
「信用できるのか」
「完全には」
「なら」
「完全に信用できる人だけで回る領地ではありません」
エルクが苦い顔をした。
「俺が見る」
「お願いします」
「また残る役か」
「水路に入る役です」
「それは残る役なのか」
「動く残る役です」
「訳が分からん」
それでも、エルクが上着を脱ぎ、排水溝へ向かった。
剣より、泥掻き棒を持つ。
その姿を見て、女たちが少しざわめいた。
ゴルツが遅れて来た。
顔をしかめながら、腰に短剣を差している。
「朝の支払いを取りに来たら、井戸さらいか」
「契約を変えます」
レインが言う。
「またか」
「危険手当ではなく、水手当です」
「何だそれは」
「作業中の飲み水と、朝の粥を濃くします」
ゴルツの目が井戸へ落ちた。
濁った桶を見る。
排水溝を見る。
エルクが泥掻き棒を持っているのを見る。
「領主の若様まで泥を掻くなら、断りにくいな」
「断れます」
「断ったら支払いは」
「昨日分は払います。今日分はありません」
「分かりやすくて腹が立つ」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
ゴルツが袖をまくった。
若い男もついてくる。
昨日、南倉で口を割った男だ。
名前はネスといった。
トマが木札に書く。
今日雇い。
排水溝さらい。
水手当。
粥増し。
「粥増しって、紙に書くと貧しいな」
ゴルツが言う。
「現物です」
トマが答えた。
自分で言って、少し笑った。
作業は、すぐに始まった。
排水溝から、泥と藁を掻き出す。
藁は思ったより多い。
籠三つ分。
枯葉と混じり、泥を抱えている。
水の逃げ道を完全に塞いでいた。
エルクが歯を食いしばって泥を掻く。
ゴルツが横で藁を引き抜く。
南門の兵が籠を運ぶ。
ネスは、水路側の石を戻している。
「藁、籠三」
メイナが書く。
「本倉偽装藁と比較候補」
「そこまで」
ゴルツが泥まみれの顔で言った。
「藁まで証拠か」
「井戸を汚した藁です」
「麦でもないのに」
「麦のふりをした藁です」
ゴルツが、少し黙った。
「なるほどな」
「納得しましたか」
「したくなかった」
排水溝が開くと、水が少し動いた。
井戸の縁から染み出していた泥水が、外へ流れる。
まだ井戸の中は濁っている。
だが、新しい土は止まった。
「次、縄です」
南井戸用に確保した新しい縄を、古井戸へ半分回すか。
南井戸の縄も危ない。
一本しかない。
「切りますか」
ミリアが聞く。
「縄をですか」
「はい」
一本を二本にすれば、どちらも短くなる。
短すぎれば、桶が水面まで届かない。
長いまま一本なら、どちらかの井戸しか守れない。
「古い縄を継ぎます」
短く告げた。
「危なくないですか」
「飲用の南井戸は新縄をそのまま。古井戸は、古い縄の使える部分と礼装庫の傷み綱を合わせ、洗い水用にします。深く落とさない印をつける」
「深く落とさない」
「底の泥を巻き上げないためです」
井戸番が顔を上げた。
「桶を半分までで止めるということですな」
「はい。底をさらうまでは」
「できます」
老人の声が、少しだけ強くなった。
木札に書く。
古井戸。
飲用停止。
浅汲みのみ。
洗い水限定。
底さらい、明朝。
「底さらいは今日ではないのですか」
ミリアが聞く。
「今、人を入れると危険です。濁りが落ち着いてから、底の状態を見ます」
「でも、水が」
「今日必要な水は、南井戸と浅汲みで分けます」
「足りますか」
計算した。
南井戸、通常二十桶。
飲用追加、二十七家から半桶ずつで十四桶。
病室、二桶。
負傷兵、二桶。
合計三十八桶。
南井戸の新縄なら、今日は持つ。
古井戸は洗いと馬へ、浅汲みで十桶まで。
「今日だけなら」
「今日だけ」
ミリアが繰り返す。
「毎日、今日だけですね」
「はい」
「それでも、今日を越えないと明日がありません」
彼女は自分で言って、少し驚いた顔をした。
うなずいた。
「その通りです」
「今のは、レインさんの言い方に似ていました」
「すみません」
「謝ることではありません」
エルクが泥だらけで戻ってきた。
「水の逃げ道は通った」
「ありがとうございます」
「俺は褒められたか」
「はい」
「分かりにくい」
ゴルツが後ろで笑った。
「若様も慣れろ。こいつはこういうやつだ」
「お前に言われたくない」
「俺も言いたくねえ」
泥まみれの二人が言い合う。
井戸の周りの人々が、少し笑った。
排水溝が通り、井戸縄の交換順と浅汲みの印が決まった。古井戸は飲めないが洗い水として残り、南井戸は飲用へ回った。
最後に、古井戸の桶をもう一度上げさせた。
浅く。
底をさらわず。
水はまだ薄く茶色い。
だが、最初より土の粒が少ない。
「上澄みなら、洗いに使えます」
井戸番が言った。
「飲ませないでください」
「分かっております」
彼は木札を井戸の柱に掛けた。
飲用不可。
洗い水のみ。
浅く汲む。
底さらい明朝。
その文字を、女たちが一人ずつ確認していく。
「水が戻ったら、知らせます」
井戸番が言った。
「水は、戻るものではありません」
そのまま続けた。
「残すものです」
老人は一瞬だけ目を丸くした。
それから、深くうなずいた。
「残します」
だが、排水溝から掻き出した藁は、籠三つ分ある。
メイナが藁を見ていた。
「これを捨てますか」
「いいえ」
短く答えた。
「乾かします」
「何に使うのですか」
「濡れ麦の下敷き、泥道の仮埋め、馬小屋の敷き藁」
ゴルツが顔をしかめた。
「井戸を汚した藁を、また使うのか」
「洗い流した後、泥道用にします。食べ物には触れさせません」
「本当に、何でも残すな」
「残せるものだけです」
その時、南門の兵が排水溝の奥から何かを拾い上げた。
小さな木片だった。
泥にまみれている。
水で洗うと、文字が出た。
西。
そして、半分消えた数字。
三。
「西三?」
トマが読む。
ルシアが目を細めた。
「西門の荷車札だね」
エルクが泥掻き棒を握り直す。
「今度こそ西門か」
古井戸の木札を一度だけ見た。飲用不可、洗い水のみ、浅く汲む、底さらい明朝。
そして、新台帳の余白に、もう一行書いた。
西門荷車札。
泥中より発見。
「追う前に、街道を見ます」
「なぜ」
エルクの声には、もう怒鳴りはなかった。
理由を聞く声だった。
「荷車が通った道が壊れていれば、また井戸に土が入ります」




