表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追放された雑用係、敗戦処理の天才だった ~崩壊寸前の辺境領を立て直す~   作者: 山田鰻
第五章 切るべきもの、残すべきもの

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

25/33

同じ紙の上

会計室の前には、紙ではなく人が積まれていた。


年嵩の役人。


若い書記。


倉の出納に関わっていた下役。


儀礼を扱う係。


そして、廊下の端には、顔をしかめた古参兵が二人。


誰も大声では叫んでいない。


怒鳴り声なら、兵で止められる。


静かな拒否は、机を止める。


机が止まると、配給札も、修理札も、見張り交代も止まる。


「支出停止の撤回を求めます」


年嵩の役人が言った。


名はロアム。


会計室の正式な会計官ではない。


だが、ダルムの下で長く支払いの順番を握ってきた男だ。


「撤回できません」


ミリアが答えた。


声は少し枯れている。


南倉から戻って、まだ十分に休んでいない。


それでも、彼女は会計室の前に立った。


「旧台帳は封印しました。支払いは現物確認後です」


「では、我々は職務を続けられません」


ロアムは丁寧に頭を下げた。


「迎賓費、儀礼酒、冬物飾り布、古参手当。加えて、領主館の人員と武具庫の扱い。これらは家の体面を保つために必要です」


エルクの眉が動いた。


古参手当、という言葉に反応したのだ。


レインは見逃さなかった。


「体面で、兵は食えません」


ガレスが低く言った。


ロアムは顔を上げる。


「兵の士気は体面で支えられることもあります」


「薄い粥で支えられる士気はない」


廊下の端にいた古参兵の一人が、苦い顔をした。


その顔は、ロアムにも、ガレスにも向いていない。


レインは新台帳を開いた。


第一頁の次。


まだ白い紙だ。


「同じ紙に書きます」


「何をです」


ミリアが聞いた。


「止めるものと、残すものです」


ロアムが眉をひそめた。


「それは別々の決裁です」


「だから分からなくなります」


紙を床ではなく、長机の上に置いた。


全員が見える高さだ。


「止める支出だけを書くと、ただの削減になります。残す支出だけを書くと、ただの願望になります」


「では」


「同じ紙に置きます。何を止め、その代わりに何を残すか」


メイナがすぐ横に立つ。


筆を持っている。


トマは少し後ろで紙束を抱え、会計室の扉を気にしていた。


扉は開いている。


中には見張りが二人。


「一つ目。迎賓費」


レインが言うと、ロアムの顔が動いた。


「王都からの使者を迎える費用です」


「迎える部屋は、すでに捕縛者部屋に使っています」


エルクが横を向いた。


笑いそうになったのをこらえている。


ロアムは顔を赤くした。


「冗談で済む話ではありません」


「冗談ではありません。鍵がかかり、見張れる部屋が必要でした」


レインはメイナに視線を向ける。


「迎賓費は当面停止。代わりに、井戸縄、釘、荷車右輪の修理」


メイナが書く。


止めるもの。


迎賓費。


残すもの。


井戸縄、釘、荷車右輪。


「使者に酒を出すより、井戸水を上げる縄が先です。荷車が動かなければ、使者を迎える麦も届きません」


廊下の柱にもたれていたルシアが、片手を上げた。


「商人としては、井戸縄に一票だね。井戸が死んだ町には泊まれない」


「あなたはいつから」


「支払いの話があるところには、だいたいいる」


「困ります」


「払えない帳簿ほど、商人には面白い」


レインは反論を後回しにした。


「二つ目。儀礼酒と冬物飾り布」


ロアムがすぐに言った。


「まとめて扱うものではありません」


「どちらも現物がある支出です」


トマが紙をめくる。


「儀礼酒は小樽三。うち一つは封切り済み。冬物飾り布は六反。うち二反は虫食い」


ガレスが腕を組んだまま答えた。


「酒は二つ飲める。一つは酸っぱい。飲むには悪いが、洗いには使える」


「負傷兵の布と器具を洗えます」


「儀礼を何だと」


「酒です」


レインが言うと、廊下が一瞬静かになった。


「飲むために残すか、洗うために使うか。今は後者です」


「兵が納得しません」


「納得しないのは、たぶん俺たちだ」


バルドだった。


いつの間にか、廊下の端に立っている。


腕はまだ吊っている。


「負傷兵の腕が腐るよりはましだ。酒一杯で誤魔化される方が腹が立つ」


廊下の古参兵たちが黙った。


レインは続けた。


「冬物飾り布は、装飾使用を止めます。虫食い二反は切って包帯補助。残りは北見張り台、病室、荷馬、南倉乾燥用へ」


「領主館には残さないのですか」


ロアムが問う。


「残しません」


ミリアが答えた。


彼女の声だった。


レインの声ではない。


「壁を飾る布より、兵の体を冷やさない布を優先します」


ミリアの指は震えている。


だが、文字はまっすぐだった。


「三つ目。領主館の人員」


儀礼係の一人が顔を上げた。


「人員整理ですか」


「解雇ではありません。配置替えです」


紙の左に「止める」、右に「残す」と書き足した。


「儀礼待機を止めます。今日から、井戸縄の運搬、病室の洗い、配給札の写し、倉の見張りに分けます」


「礼を知る者に、荷運びをさせるのですか」


ロアムが言う。


「礼を知る者なら、死にかけた兵の寝床を整える意味も分かるはずです」


儀礼係は言い返しかけ、口を閉じた。


メイナが書く。


止めるもの。


儀礼待機。


残すもの。


井戸、病室、配給札、倉見張り。


「四つ目。武具庫の棚外れ品」


今度はエルクが顔をしかめた。


「父上の式典具まで売るな」


「売りません。式典具と実戦用は分けます」


トマが控えを読む。


「折れた胸当て二、刃こぼれした短槍五、飾り金具の外れた盾三。いずれも武具庫の奥、修理予定のまま二年」


「二年」


ミリアが小さく繰り返した。


「使える短槍は見張り台へ。直せない金具は鍛冶屋へ渡し、釘と荷車修理に充てます」


ロアムの口元が硬くなる。


「ハルヴェインの武具を釘に」


「荷車が止まれば、武具を持つ兵も動けません」


ガレスがうなずいた。


「飾ってある鉄より、車輪を留める鉄だ」


紙にまた一行が増えた。


止めるもの。


武具庫の死蔵。


残すもの。


見張り台の短槍、釘、荷車修理。


「五つ目。古参手当」


ここで、エルクが口を開いた。


「それは簡単に止めるな」


廊下の空気が固まった。


ロアムの目が、かすかに光る。


エルクはそれに気づいていない。


「古参手当は、父上が残した約束だ。戦えなくなった兵や、門を守ってきた者への礼でもある」


「はい」


レインはうなずいた。


「止めません。全部は」


「そういう言い方をすると思った」


「分けます」


紙に三つの欄を作った。


勤務あり。


負傷・老齢。


名だけ。


「勤務ありの古参手当は残します。負傷・老齢で現場に出られない者は、食料支援に切り替えます。本人確認のない支払いは停止します」


「古参に本人確認とは、侮辱です」


ロアムが言う。


「死者に手当を出す方が、侮辱です」


言葉が落ちた。


エルクが眉を寄せる。


「死者にも出ているのか」


「兵舎では、帳簿上の死者が残っていました」


バルドが低く言う。


「冬に死んだヘルムにも、半分出ていたことになっていた」


エルクの拳が握られる。


「誰が受け取った」


「それを調べるために、止めます」


レインは言った。


「全部を止めると、実在する古参が飢えます。全部を残すと、名だけの古参が食います」


「名だけの古参は食わない」


エルクが言いかけた。


途中で、自分で止めた。


「誰かが、食う」


「はい」


エルクは目を伏せた。


「分かった。だが、実在する古参には俺が説明する」


「お願いします」


「お前だけに言わせると、たぶん刺される」


「困ります」


「困った顔をしろ」


レインは少し考えた。


「努力します」


バルドが短く笑った。


ロアムは面白くなさそうだった。


「では、我々の職務は」


「続けてください」


ミリアが言った。


「ただし、新しい順番で」


ロアムは目を細めた。


「支払いは、現物と実働を確認したものから。会計室だけで決めません」


「それでは遅れます」


「今までも遅れていました」


ロアムの頬がひくつく。


「現場が分からないまま机で早く処理しても、兵舎の粥は薄くなりました。南倉の麦は水路へ行きました」


彼女は新台帳を指した。


「今日から、遅くても正しい方を選びます」


ルシアが軽く口笛を吹いた。


「いいね。商人は遅い支払いを嫌うけど、嘘の早払いはもっと嫌う」


「商人の意見は」


ロアムが言いかけた。


「聞きます」


ミリアが遮った。


「採用するかは、こちらで決めます」


ルシアは楽しそうに笑った。


「領主代理らしくなってきたじゃないか」


ミリアは少しだけ頬を赤くしたが、視線を逸らさなかった。


紙の下段に、今日の配分を書いた。


兵舎へ麦一袋半。


北見張り台へ半袋。


南倉乾燥作業へ半袋相当の粥。


濡れ麦の使用候補一袋は粉にし、二日以内に使う。


飼葉候補は荷馬へ回し、麦を馬に食わせない。


「馬まで」


ロアムが呆れたように言う。


「馬が止まれば、人の麦が届きません」


ガレスがうなずく。


「妥当だ」


「酒は」


バルドが聞いた。


「酸っぱい一樽を病室へ。残り二樽は封じ、古参慰労の代替として、食料支援の説明後に一部を弔い用に残します」


「弔い用」


「死者の名を消す時、何もないのは違うと思います」


レインは少し言葉を探した。


得意ではない。


だが、ここは言う必要がある。


「ただし、生きている者の食を削ってまでは残しません」


バルドはしばらく黙った。


「それなら、俺は説明に立つ」


「助かります」


「助かる顔をしろ」


「努力します」


今度は、エルクが小さく笑った。


紙の上に、切るものが並んだ。迎賓費、儀礼酒の配布、冬物飾り布の装飾使用、儀礼待機、武具庫の死蔵、名だけ古参手当。


その隣に、残すものが並ぶ。井戸縄、釘、荷車右輪、負傷兵の洗浄、北見張り台の隙間塞ぎ、病室の敷布、荷馬の夜掛け、実在古参の食。


ロアムは紙を見つめていた。


「これでは、会計室の裁量が」


「減ります」


レインが言う。


「はっきり言いますね」


「はい」


「我々を信用していない」


「現物確認が済むまでは」


ロアムの目が冷たくなった。


「それは、我々への侮辱です」


「南倉の封紐を切らずに扉を外した者への侮辱なら、構いません」


廊下が静かになった。


ロアムはそれ以上言わなかった。


代わりに、深く頭を下げる。


「分かりました。新しい順番に従います」


「トマさん」


「はい」


「今の決定を二枚書いてください。一枚は会計室内。一枚は兵舎と南門の掲示へ」


ロアムの肩がわずかに動く。


「掲示まで」


「商人に見せる数字と、領民に見せる数字を分けないと決めました」


ルシアが満足そうに目を細めた。


「いいね。後でわたしにも一枚写しをおくれ」


「証人料に含めますか」


「別だ」


「でしょうね」


ミリアが署名する。


エルクも、実在古参の確認欄に名を書く。


バルドが証人として印を押す。


ゴルツは少し迷い、今日雇いの欄に乱れた字で名を書いた。


「これで俺も紙の中か」


「はい」


「悪い紙じゃないことを祈るよ」


「そのために、現物を見ます」


ゴルツは苦笑した。


廊下の外で、井戸縄を取りに行く兵が動き始めた。


南倉へ布を運ぶ者。


病室へ酸っぱい酒を運ぶ者。


本倉へ釘束を運ぶ者。


その時、トマが掲示用の写しを持って戻ってきた。


顔がこわばっている。


「レインさん」


「どうしました」


「冬物飾り布の保管札です。六反のはずですが、裏に別の控えがありました」


「別の控え」


「冬物資、外套三十、毛布二十、井戸覆い五。会計室預かり」


廊下の空気が変わった。


外套三十。


毛布二十。


井戸覆い五。


それがあれば、北見張り台も、負傷兵も、冬の井戸も違った。


「現物は」


レインが聞く。


トマは首を横に振った。


「飾り布の棚には、ありません」


ロアムが口を開きかけた。


だが、ミリアの視線を受けて閉じた。


新台帳の次の欄を開いた。


切るべきものと残すべきものを書いた紙の下に、さらに一行を足す。


冬物資。


帳簿上、外套三十、毛布二十、井戸覆い五。


現物、未確認。


扱い、最優先確認。


残すべきものが、まだどこかで消されていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ