同じ紙の上
会計室の前には、紙ではなく人が積まれていた。
年嵩の役人。
若い書記。
倉の出納に関わっていた下役。
儀礼を扱う係。
そして、廊下の端には、顔をしかめた古参兵が二人。
誰も大声では叫んでいない。
怒鳴り声なら、兵で止められる。
静かな拒否は、机を止める。
机が止まると、配給札も、修理札も、見張り交代も止まる。
「支出停止の撤回を求めます」
年嵩の役人が言った。
名はロアム。
会計室の正式な会計官ではない。
だが、ダルムの下で長く支払いの順番を握ってきた男だ。
「撤回できません」
ミリアが答えた。
声は少し枯れている。
南倉から戻って、まだ十分に休んでいない。
それでも、彼女は会計室の前に立った。
「旧台帳は封印しました。支払いは現物確認後です」
「では、我々は職務を続けられません」
ロアムは丁寧に頭を下げた。
「迎賓費、儀礼酒、冬物飾り布、古参手当。加えて、領主館の人員と武具庫の扱い。これらは家の体面を保つために必要です」
エルクの眉が動いた。
古参手当、という言葉に反応したのだ。
レインは見逃さなかった。
「体面で、兵は食えません」
ガレスが低く言った。
ロアムは顔を上げる。
「兵の士気は体面で支えられることもあります」
「薄い粥で支えられる士気はない」
廊下の端にいた古参兵の一人が、苦い顔をした。
その顔は、ロアムにも、ガレスにも向いていない。
レインは新台帳を開いた。
第一頁の次。
まだ白い紙だ。
「同じ紙に書きます」
「何をです」
ミリアが聞いた。
「止めるものと、残すものです」
ロアムが眉をひそめた。
「それは別々の決裁です」
「だから分からなくなります」
紙を床ではなく、長机の上に置いた。
全員が見える高さだ。
「止める支出だけを書くと、ただの削減になります。残す支出だけを書くと、ただの願望になります」
「では」
「同じ紙に置きます。何を止め、その代わりに何を残すか」
メイナがすぐ横に立つ。
筆を持っている。
トマは少し後ろで紙束を抱え、会計室の扉を気にしていた。
扉は開いている。
中には見張りが二人。
「一つ目。迎賓費」
レインが言うと、ロアムの顔が動いた。
「王都からの使者を迎える費用です」
「迎える部屋は、すでに捕縛者部屋に使っています」
エルクが横を向いた。
笑いそうになったのをこらえている。
ロアムは顔を赤くした。
「冗談で済む話ではありません」
「冗談ではありません。鍵がかかり、見張れる部屋が必要でした」
レインはメイナに視線を向ける。
「迎賓費は当面停止。代わりに、井戸縄、釘、荷車右輪の修理」
メイナが書く。
止めるもの。
迎賓費。
残すもの。
井戸縄、釘、荷車右輪。
「使者に酒を出すより、井戸水を上げる縄が先です。荷車が動かなければ、使者を迎える麦も届きません」
廊下の柱にもたれていたルシアが、片手を上げた。
「商人としては、井戸縄に一票だね。井戸が死んだ町には泊まれない」
「あなたはいつから」
「支払いの話があるところには、だいたいいる」
「困ります」
「払えない帳簿ほど、商人には面白い」
レインは反論を後回しにした。
「二つ目。儀礼酒と冬物飾り布」
ロアムがすぐに言った。
「まとめて扱うものではありません」
「どちらも現物がある支出です」
トマが紙をめくる。
「儀礼酒は小樽三。うち一つは封切り済み。冬物飾り布は六反。うち二反は虫食い」
ガレスが腕を組んだまま答えた。
「酒は二つ飲める。一つは酸っぱい。飲むには悪いが、洗いには使える」
「負傷兵の布と器具を洗えます」
「儀礼を何だと」
「酒です」
レインが言うと、廊下が一瞬静かになった。
「飲むために残すか、洗うために使うか。今は後者です」
「兵が納得しません」
「納得しないのは、たぶん俺たちだ」
バルドだった。
いつの間にか、廊下の端に立っている。
腕はまだ吊っている。
「負傷兵の腕が腐るよりはましだ。酒一杯で誤魔化される方が腹が立つ」
廊下の古参兵たちが黙った。
レインは続けた。
「冬物飾り布は、装飾使用を止めます。虫食い二反は切って包帯補助。残りは北見張り台、病室、荷馬、南倉乾燥用へ」
「領主館には残さないのですか」
ロアムが問う。
「残しません」
ミリアが答えた。
彼女の声だった。
レインの声ではない。
「壁を飾る布より、兵の体を冷やさない布を優先します」
ミリアの指は震えている。
だが、文字はまっすぐだった。
「三つ目。領主館の人員」
儀礼係の一人が顔を上げた。
「人員整理ですか」
「解雇ではありません。配置替えです」
紙の左に「止める」、右に「残す」と書き足した。
「儀礼待機を止めます。今日から、井戸縄の運搬、病室の洗い、配給札の写し、倉の見張りに分けます」
「礼を知る者に、荷運びをさせるのですか」
ロアムが言う。
「礼を知る者なら、死にかけた兵の寝床を整える意味も分かるはずです」
儀礼係は言い返しかけ、口を閉じた。
メイナが書く。
止めるもの。
儀礼待機。
残すもの。
井戸、病室、配給札、倉見張り。
「四つ目。武具庫の棚外れ品」
今度はエルクが顔をしかめた。
「父上の式典具まで売るな」
「売りません。式典具と実戦用は分けます」
トマが控えを読む。
「折れた胸当て二、刃こぼれした短槍五、飾り金具の外れた盾三。いずれも武具庫の奥、修理予定のまま二年」
「二年」
ミリアが小さく繰り返した。
「使える短槍は見張り台へ。直せない金具は鍛冶屋へ渡し、釘と荷車修理に充てます」
ロアムの口元が硬くなる。
「ハルヴェインの武具を釘に」
「荷車が止まれば、武具を持つ兵も動けません」
ガレスがうなずいた。
「飾ってある鉄より、車輪を留める鉄だ」
紙にまた一行が増えた。
止めるもの。
武具庫の死蔵。
残すもの。
見張り台の短槍、釘、荷車修理。
「五つ目。古参手当」
ここで、エルクが口を開いた。
「それは簡単に止めるな」
廊下の空気が固まった。
ロアムの目が、かすかに光る。
エルクはそれに気づいていない。
「古参手当は、父上が残した約束だ。戦えなくなった兵や、門を守ってきた者への礼でもある」
「はい」
レインはうなずいた。
「止めません。全部は」
「そういう言い方をすると思った」
「分けます」
紙に三つの欄を作った。
勤務あり。
負傷・老齢。
名だけ。
「勤務ありの古参手当は残します。負傷・老齢で現場に出られない者は、食料支援に切り替えます。本人確認のない支払いは停止します」
「古参に本人確認とは、侮辱です」
ロアムが言う。
「死者に手当を出す方が、侮辱です」
言葉が落ちた。
エルクが眉を寄せる。
「死者にも出ているのか」
「兵舎では、帳簿上の死者が残っていました」
バルドが低く言う。
「冬に死んだヘルムにも、半分出ていたことになっていた」
エルクの拳が握られる。
「誰が受け取った」
「それを調べるために、止めます」
レインは言った。
「全部を止めると、実在する古参が飢えます。全部を残すと、名だけの古参が食います」
「名だけの古参は食わない」
エルクが言いかけた。
途中で、自分で止めた。
「誰かが、食う」
「はい」
エルクは目を伏せた。
「分かった。だが、実在する古参には俺が説明する」
「お願いします」
「お前だけに言わせると、たぶん刺される」
「困ります」
「困った顔をしろ」
レインは少し考えた。
「努力します」
バルドが短く笑った。
ロアムは面白くなさそうだった。
「では、我々の職務は」
「続けてください」
ミリアが言った。
「ただし、新しい順番で」
ロアムは目を細めた。
「支払いは、現物と実働を確認したものから。会計室だけで決めません」
「それでは遅れます」
「今までも遅れていました」
ロアムの頬がひくつく。
「現場が分からないまま机で早く処理しても、兵舎の粥は薄くなりました。南倉の麦は水路へ行きました」
彼女は新台帳を指した。
「今日から、遅くても正しい方を選びます」
ルシアが軽く口笛を吹いた。
「いいね。商人は遅い支払いを嫌うけど、嘘の早払いはもっと嫌う」
「商人の意見は」
ロアムが言いかけた。
「聞きます」
ミリアが遮った。
「採用するかは、こちらで決めます」
ルシアは楽しそうに笑った。
「領主代理らしくなってきたじゃないか」
ミリアは少しだけ頬を赤くしたが、視線を逸らさなかった。
紙の下段に、今日の配分を書いた。
兵舎へ麦一袋半。
北見張り台へ半袋。
南倉乾燥作業へ半袋相当の粥。
濡れ麦の使用候補一袋は粉にし、二日以内に使う。
飼葉候補は荷馬へ回し、麦を馬に食わせない。
「馬まで」
ロアムが呆れたように言う。
「馬が止まれば、人の麦が届きません」
ガレスがうなずく。
「妥当だ」
「酒は」
バルドが聞いた。
「酸っぱい一樽を病室へ。残り二樽は封じ、古参慰労の代替として、食料支援の説明後に一部を弔い用に残します」
「弔い用」
「死者の名を消す時、何もないのは違うと思います」
レインは少し言葉を探した。
得意ではない。
だが、ここは言う必要がある。
「ただし、生きている者の食を削ってまでは残しません」
バルドはしばらく黙った。
「それなら、俺は説明に立つ」
「助かります」
「助かる顔をしろ」
「努力します」
今度は、エルクが小さく笑った。
紙の上に、切るものが並んだ。迎賓費、儀礼酒の配布、冬物飾り布の装飾使用、儀礼待機、武具庫の死蔵、名だけ古参手当。
その隣に、残すものが並ぶ。井戸縄、釘、荷車右輪、負傷兵の洗浄、北見張り台の隙間塞ぎ、病室の敷布、荷馬の夜掛け、実在古参の食。
ロアムは紙を見つめていた。
「これでは、会計室の裁量が」
「減ります」
レインが言う。
「はっきり言いますね」
「はい」
「我々を信用していない」
「現物確認が済むまでは」
ロアムの目が冷たくなった。
「それは、我々への侮辱です」
「南倉の封紐を切らずに扉を外した者への侮辱なら、構いません」
廊下が静かになった。
ロアムはそれ以上言わなかった。
代わりに、深く頭を下げる。
「分かりました。新しい順番に従います」
「トマさん」
「はい」
「今の決定を二枚書いてください。一枚は会計室内。一枚は兵舎と南門の掲示へ」
ロアムの肩がわずかに動く。
「掲示まで」
「商人に見せる数字と、領民に見せる数字を分けないと決めました」
ルシアが満足そうに目を細めた。
「いいね。後でわたしにも一枚写しをおくれ」
「証人料に含めますか」
「別だ」
「でしょうね」
ミリアが署名する。
エルクも、実在古参の確認欄に名を書く。
バルドが証人として印を押す。
ゴルツは少し迷い、今日雇いの欄に乱れた字で名を書いた。
「これで俺も紙の中か」
「はい」
「悪い紙じゃないことを祈るよ」
「そのために、現物を見ます」
ゴルツは苦笑した。
廊下の外で、井戸縄を取りに行く兵が動き始めた。
南倉へ布を運ぶ者。
病室へ酸っぱい酒を運ぶ者。
本倉へ釘束を運ぶ者。
その時、トマが掲示用の写しを持って戻ってきた。
顔がこわばっている。
「レインさん」
「どうしました」
「冬物飾り布の保管札です。六反のはずですが、裏に別の控えがありました」
「別の控え」
「冬物資、外套三十、毛布二十、井戸覆い五。会計室預かり」
廊下の空気が変わった。
外套三十。
毛布二十。
井戸覆い五。
それがあれば、北見張り台も、負傷兵も、冬の井戸も違った。
「現物は」
レインが聞く。
トマは首を横に振った。
「飾り布の棚には、ありません」
ロアムが口を開きかけた。
だが、ミリアの視線を受けて閉じた。
新台帳の次の欄を開いた。
切るべきものと残すべきものを書いた紙の下に、さらに一行を足す。
冬物資。
帳簿上、外套三十、毛布二十、井戸覆い五。
現物、未確認。
扱い、最優先確認。
残すべきものが、まだどこかで消されていた。




