帳簿を一から
「帳簿を、一から作り直します」
レインが言うと、会計室の空気が止まった。
逃げたラドは戻っていない。
エルクが西の小門から戻り、泥のついた手袋を握りしめたまま壁際に立っている。捕まえられなかった悔しさが顔に残っていた。
ミリアが長机の前に立っている。
ガレスが封じた旧台帳を足元に置いた。
ダルムは椅子に座らされている。正式な処分ではない。会計室関係者として、確認中の待機。だが、彼の顔から余裕はかなり消えていた。
「一からとは、乱暴ですな」
ダルムが言った。
声はまだ整っている。
「旧台帳を修正すればよい。長年の記録を捨てれば、領政そのものが」
「捨てません」
旧台帳の上に手を置いた。
「封じます」
ミリアがうなずいた。
「旧台帳は証拠として保管します。今後の配給、支払い、修繕、倉庫出納には使いません」
「では何で動かすのです」
「現物優先の新台帳です」
白い紙を出した。
一枚目に本倉現物、二枚目に兵実数、三枚目に馬と荷馬車、四枚目に未払いと契約、五枚目に修繕優先。
「最初から全部を整えません。今日生きるもの、明日動かすもの、一週間で確認するものに分けます」
「王都式ではない」
ダルムが言う。
「現物式です」
「そんな帳簿は正式に通りません」
「正式に通す帳簿は後で作ります」
白紙を机に並べた。
「今必要なのは、領地を動かす帳簿です。王都へ出すための帳簿ではありません」
「王都を軽んじるのか」
「王都へ嘘を送らないためです」
ダルムは口を閉じた。
旧台帳をそのまま清書すれば、形は整う。だが、空の倉庫が満ちていることになり、いない兵が飯を食い、直っていない門が直ったことになる。
ガレスが低く笑った。
「いい名前じゃねえな」
「正式名ではありません」
「ならいい」
ガレスが初めて、レインの紙を自分から覗き込む。
「麦は正規袋と軽量袋を分けろ。混ぜると若いのが間違える」
「はい」
「塩は俺が封じる。だが、鍵はミリア様の印も要る」
「二重確認にします」
「三重にしろ。俺、ミリア様、記録係」
筆が止まった。
「記録係は」
ガレスが部屋の隅を顎で示した。
トマが肩を跳ねさせる。
「俺、ですか」
「お前は字が曲がるが、見たものは曲げにくい顔をしてる」
だが、トマが小さく頷いた。
「やります」
ミリアが一歩前へ出た。
「私からも命じます。トマ、今日から現物確認の記録補佐を」
「はい」
トマの返事は細かった。
ラドが逃げた後、会計室の若い書記たちは全員が自分の机を見ていた。誰も、次に疑われるのが自分ではないとは思えない。
「記録は、見た順に書いてください」
短く告げた。
「整えてから書かなくていい。間違えたら横線で消す。消した跡も残す」
「汚くなります」
「汚れている方が、後で直された紙より信用できます」
トマの唇が結ばれ、頷いた。
エルクが口を開いた。
「兵の未払いは」
「別紙です」
四枚目を出した。
「払える日を約束しません。確認した銭、確認した未払い、優先順だけを書く。兵には、空約束をしない」
エルクが苦い顔で頷いた。
「バルドに言わせる」
「エルク様からも」
「俺が言えば荒れる」
「言わなければ、もっと荒れます」
エルクの目が睨んだ。
だが、反論しなかった。
ミリアが紙を見ていた。
「止める支出と、残す支出を同じ紙に」
「はい」
「会計室の前で、明日説明します」
「旧台帳の封印を」
ガレスが言った。
ミリアの手が封蝋を取った。
煤の跡がまだ指に残っている。昨日、客間の火を消した指だ。その指で、旧台帳の紐に封を落とす。
エルクが確認印を押す。
ガレスが倉庫番の印を押す。
トマが時刻を書く。
最後に、封印理由を短く書いた。
現物不一致多数、再作成中。
「これで終わりではありません」
ミリアが言った。
「分かっています」
「明日から、もっと反発が出ます」
「はい」
「それでも、旧台帳ではもう動かしません」
部屋の中で、誰もすぐには答えなかった。
ガレスが最初に口を開いた。
「若造」
「はい」
「お前、帳簿屋にしちゃ手が汚れるな」
「昨日から、だいぶ」
「いいことだ」
新台帳の一枚目に、最初の行を書いた。
本倉麦、正規九袋、軽量十一袋、使用不可四袋。
二行目には、大麦十二袋、うち使用不可四袋。
三行目には、豆五袋。
四行目には、塩樽一、湿りあり。
書けば書くほど、貧しい数字だった。
ミリアの目が、その行から逸らされなかった。
「この数字で、明日の配分を組みます」
「はい」
「足りないと言われたら」
「足りないと答えます」
「怒鳴られたら」
「現物を見せます」
ミリアが小さく息を吸った。
「隠さないのですね」
「隠す余裕がありません」
その下に、太い線を引く。
この線より上は、旧台帳。
この線より下は、現物。
翌日からの削減作業は、この線の下で始まる。
会計室の外には、もう人が集まり始めていた。
静かな拒否が、廊下に積もっている。
ミリアが新台帳を閉じず、同じ紙の上に置いたまま言った。
「止めるものと、残すものを並べます」
その時、廊下の奥で、軽く手を叩く音がした。
一度。
二度。
役人たちの視線がそちらへ向く。
柱の陰に、旅装の女が立っていた。濃い外套の裾に街道の泥がつき、腰には小さな算盤袋を下げている。護衛らしい男を一人だけ連れていたが、本人の方がよほど場慣れして見えた。
「いいね」
女は笑った。
「死にかけた帳簿にしては、まだ商売の匂いがする」
ミリアが眉を寄せる。
「どなたですか」
「フェネル商会のルシア・フェネル。塩と薬布の見積もりを持ってきた、ということにしておくよ」
「ということに?」
「本当は、ここがまだ荷を入れる価値のある領地か見に来た」
エルクが一歩前に出る。
「今は取り込み中だ」
「だから見ている。取り込み中の時に、金を払う順番が見えるからね」
ルシアの目が、新台帳の白い紙へ落ちた。
「嘘の黒字より、貧しい実数の方がましだ。商人は、嘘をつく相手より、足りないと先に言う相手の方を信用する」
レインの目が、女の手元へ落ちた。
指先に荷縄の痕がある。
「見積もりは」
「明日でいい。今夜は、その紙がどこまで本気か見せてもらう」
ルシアが軽く肩をすくめた。
「酒はいらない。椅子もいらない。払えない歓迎ほど高いものはないからね」
会計室の外に積もっていた静かな拒否の中へ、別の視線が混じった。
商人の目だ。




