逃げた書記官
会計室の裏戸が、細く開いていた。
レインが廊下を曲がった時には、もう遅かった。
床には紙が散っている。破れた控え、乾ききらない墨、封蝋の欠片。棚の奥にあったはずの小箱が一つなくなっていた。
墨は新しかった。
倒れた硯の周りだけ、床板が濡れている。紙を破った後で、急いで何かを書き足した跡があった。逃げるだけなら墨はいらない。持ち出す前に、残す紙を書き換えようとしたのだ。
レインは散った紙を踏まないよう、足を止めた。
破片の向き。
封蝋の割れ方。
棚の埃。
ラドが逃げた後の部屋ではなく、ラドが何を捨て、何を選んだかを見る場所だった。
「ラドは」
エルクが怒鳴る。
若い書記が震えながら裏戸を指した。
「外へ。さっき、帳面を持って」
エルクが走り出そうとした。
「待ってください」
レインは床の紙を押さえた。
「待てるか」
「追う人数を間違えると、会計室が空になります」
「逃げたんだぞ」
「はい。だから、残ったものを守ります」
エルクの顔が怒りで赤くなる。
だが、ミリアが先に言った。
「兄上。兵を二人だけ。門へ先回り。ガレス、会計室の扉を封じてください」
エルクは歯を食いしばった。
「俺は」
「兄上は門へ。剣が必要なら、そこです」
ミリアの声は震えていなかった。
エルクは短くうなずき、兵を連れて走った。
失敗だった。
レインはそれを認めた。
夕刻までに動くと見ていたのに、出口を押さえきれなかった。会計室から出る人を見ると言いながら、裏戸の古い通路を見落とした。
「裏戸は使われていないと聞いていました」
ミリアが言う。
「使われていない扉ほど、逃げる時に使われます」
「見落としましたか」
「はい」
レインは床の紙を集めた。
残った破片を見る。
給与準備金。
修繕費戻し。
南倉。
そして、ヴァンハ――商会。
「ヴァンハ――?」
ミリアが紙片を見た。
「王都で見た帳簿断片と、同じ始まりです」
「セドリックと」
「つながると決めるには早いです。個人の命令か、商会筋かもまだ分かりません」
ガレスが封蝋を持ってきた。
「若造。逃げた奴を追うか」
「追います。ただし、全部は追いません」
「どういう意味だ」
「ラドが持っていったものは、たぶん一番見せたくない紙です。ですが、残った紙に、何を持っていったかの形が残ります」
レインは棚の空いた位置を見た。
小箱の跡。
埃の四角。
隣には修繕費控え。
反対側には給与準備金。
下段には倉庫副鍵の返却簿。
「持っていったのは、現金箱の出納補助簿か、副鍵の実使用記録です」
「どちらです」
ミリアが聞く。
「今は分かりません」
「残ったものを封じます」
レインは紙片を並べた。
「トマ」
若い書記が顔を上げる。
「見た順に書いてください。裏戸開放。棚下段小箱欠落。床に破れ紙。確認者、ミリア様、ガレス殿、私。時刻も」
「はい」
トマの手は震えているが、書き始めた。
ダルムは会計室の入口で立っていた。
顔色は悪い。
「ラドが勝手に」
「まだ聞いていません」
レインは言った。
「今は、あなたも入口から動かないでください」
「私を疑うのか」
「会計室にいた全員を、同じ場所に置きます」
ダルムは唇を引き結んだ。
ミリアが一歩前へ出る。
「ダルム。あなたはこの部屋に残ってください。会計室関係者は全員、私の許可なく退出禁止」
「正式な処分では」
「確認中の措置です」
ダルムは言い返せなかった。
外で鐘が鳴った。
門の鐘だ。
エルクがラドを捕まえた合図ではない。逃亡者が門を抜けた時にも鳴らす鐘だ。
しばらくして、兵が戻った。
「逃げられました。西の小門から。馬はなし。徒歩です」
西の小門は、古い搬入口だった。
普段は使わない。だが、薪と壊れた桶を出す時だけ開ける。門番は一人。倒れた南門の代わりに人を回したせいで、そちらの確認が薄くなっていた。
食料を削ったこと。
門番が倒れたこと。
裏戸を見落としたこと。
小門の人員を薄くしたこと。
「私の責任です」
レインは言った。
ミリアが顔を上げる。
「今それを言う必要がありますか」
「あります。次に門を押さえる時、私の見落としを前提に組んでください」
ガレスが鼻を鳴らした。
「偉そうに間違える奴よりは、ましだ」
エルクは戻ってこない。
証拠の一部は失われた。
だが、床には破れ紙が残った。ヴァンハ――商会、南倉、修繕費戻し。そして、ラドが逃げたという事実。
ラドが自分のために走ったのか、誰かのために走らされたのか。小箱を持ってどこへ向かうのか。徒歩で西へ出たなら、街道まで追いつける距離ではある。だが、街道に出る前に隠れる小屋も、古い納屋も、使われていない祠もある。
「追跡班は、街道だけでなく水路沿いも見てください」
レインは兵に言った。
「水路?」
「紙を捨てるなら、水が要ります。燃やせば煙が出る。埋めれば時間がかかる」
兵はうなずき、走った。




