届かぬ進言
「南街道一本では、橋で止まります」
レインの声は、将軍幕舎の中では小さく聞こえた。
外では兵が水を運び、馬が泥を蹴り、荷馬車の車輪が湿った轍を噛んでいる。だが幕舎の中だけは、別の軍のように乾いていた。床には板が敷かれ、卓上の地図には赤い石と青い石が整然と置かれている。
整っているものほど、今は信用しにくい。
地図の線には、泥も血も重さもない。
「橋の幅は荷馬車一台分。重装備を積んだまま通せば、二番車か六番車が止まります。止まれば後続が詰まり、追撃を受ける前に列が死にます」
セドリック・ヴァンハイムは椅子の背に片手を置いていた。泥のついていない黒い手袋が、幕舎の灯りでよく目立つ。
将軍は黙っている。疲れた顔だ。負け戦のあとに、自分の命令でさらに捨てる物を決めたくない顔でもあった。
「では、君はどうしろと言う」
セドリックが尋ねた。
答えを聞きたい声ではない。言わせてから、責任ごと折るための声だ。
「荷と兵を三つに分けます」
地図の上に置かれた木札を、指で動かした。大きな札は本隊。小さな札は荷馬車。欠けた札は負傷兵。
「南街道は盾を持てる者と本隊。牛追い道へ軽装兵と歩ける負傷兵。西の旧道へ、七台まで減らした荷馬車と歩けない負傷兵を回します」
「旧道は狭い」
「だから七台です」
「軍旗はどうする」
「本隊に一本あれば足ります。替え旗は捨てます」
将軍の眉が動いた。
セドリックは小さく息を吐いた。笑いに近いが、笑いきらない。幕舎の中の全員に、呆れたという形だけを配る息だった。
「聞きましたか、閣下。彼は王国軍の旗を捨てろと言っています」
「替え旗です」
「同じことだ。兵の士気を何だと思っている」
「水より重い旗は、撤退では兵を殺します」
幕舎の空気が硬くなった。
言い方を誤った自覚はある。だが、柔らかく言えば通る場でもない。ここでは、見栄えのよい言葉ほど荷台に残りやすい。
「雑用係の分際で、軍を三つに割るつもりか」
セドリックの声が少しだけ大きくなった。幕舎の外へ漏れる程度に。兵に聞かせるためではない。ここにいる士官たちへ、誰が上で誰が下かを思い出させるためだ。
「軍を割るのではありません。詰まる場所を減らします」
「言い換えれば済むと思うな」
「二番車は右後輪の鉄輪が浮いています。六番車は車軸にひび。どちらも重い箱を積んだまま橋へ入れば危険です」
「整備兵からは報告が上がっていない」
「荷台の下は、立っているだけでは見えません」
セドリックの目が細くなる。
「君は、整備兵も士官も見ていないと言うのか」
「見ていない場所があると言っています」
幕舎の奥で、若い士官が視線を落とした。車輪の下を覗く兵のことを思い出したのかもしれない。あるいは、思い出したくなかっただけかもしれない。
将軍が低く言った。
「セドリック。旧道へ一部回す案は」
「危険です」
答えは早かった。
「隊を割れば各個に襲われます。敗戦直後に必要なのは、軍としての形を保つことです。旗を掲げ、装備を残し、南街道を堂々と下る。追撃があっても、本隊で受ければよい」
堂々と。
その言葉は、泥に沈む車輪の重さを知らない。
「追撃を受ける前に詰まります」
「詰まらせないようにするのが、補給係の仕事だろう」
「荷を減らさなければ無理です」
「無理という言葉を、下の者が先に口にするな」
セドリックは地図の上に置かれた欠けた札を指で弾いた。負傷兵の札が、板の上で軽く跳ねる。
「敗戦で兵が動揺している。ここで重装備を捨て、旗を捨て、道を分ければ、軍は逃げ散る。君の計算は細かいが、軍の心を見ていない」
心で橋は広がらない。
喉まで来た言葉を、飲み込んだ。
将軍は地図を見下ろしたまま、長く黙った。
やがて言う。
「南街道を主路とする」
セドリックの肩から、ほんの少し力が抜けた。
「荷の放棄は最小限。軍旗、幕舎備品、予備武具は保持。負傷兵の振り分けは、各隊長の判断に任せる」
各隊長の判断。
責任が散る言葉だ。散った責任は、最後にいちばん軽い者へ落ちる。
「承知しました」
頭を下げる。
「ただし、水樽の分散と、熱のある負傷兵の馬車移動だけは許可を」
「まだ言うか」
今度はセドリックが笑った。
「水くらいなら好きにしろ。だが、荷は勝手に捨てるな。これは命令だ」
「分かりました」
分かったのは、命令の内容だけだ。
納得ではない。
幕舎を出ると、ハンスが待っていた。昼間、負傷兵を運んでいた若い兵だ。顔に乾いた泥がこびりつき、片手には空の革袋を握っている。
「どうでした」
「南街道だ」
ハンスの顔が曇った。
「じゃあ、二番車は」
「動かす」
「車軸、もちますか」
「重ければもたない」
ハンスは歯を食いしばった。
「降ろせないんですか」
「命令では降ろせない」
荷馬車列を見る。装飾箱がまだ載っている。替え旗も、儀礼用の食器も、壊れた攻城具の金具も。
「ただし、積み方は変えられる。二番車の右後輪側から鉄具を外せ。軽い布箱をそちらへ回す。重い箱は中央の低い位置。上には積むな」
「それで足りますか」
「足りない」
ハンスは黙った。
足りないと言うことに、まだ慣れていない顔だった。
「足りないが、ゼロよりましだ」
小さな紙片に、二番車と六番車の荷の位置を書いた。正式な命令書ではない。ただの覚え書きだ。持っていれば、誰かが迷った時に一手だけ早くなる。
「水樽は一番車と五番車。熱のある者は二番車へ固めるな。歩ける負傷兵は、橋の手前で降ろして渡らせる」
「処分されますよ」
「処分は、橋を渡ったあとでも受けられる」
紙片を折り、ハンスへ渡した。
「夜明け前に、もう一度車輪を見る。二番車、六番車、それから橋板だ」
南の空が赤くなり始めていた。朝焼けには早い。
レインは幕舎の灯りを背にして、荷馬車の列へ戻った。二番車の車軸へ、先に手を当てに行く。
進言は届かなかった。届かなかった数字は、まだ車輪の下に残っている。




