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追放された雑用係、敗戦処理の天才だった ~崩壊寸前の辺境領を立て直す~   作者: 山田鰻
第一章 敗戦の帳簿

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届かぬ進言

「南街道一本では、橋で止まります」


レインの声は、将軍幕舎の中では小さく聞こえた。


外では兵が水を運び、馬が泥を蹴り、荷馬車の車輪が湿った轍を噛んでいる。だが幕舎の中だけは、別の軍のように乾いていた。床には板が敷かれ、卓上の地図には赤い石と青い石が整然と置かれている。


整っているものほど、今は信用しにくい。


地図の線には、泥も血も重さもない。


「橋の幅は荷馬車一台分。重装備を積んだまま通せば、二番車か六番車が止まります。止まれば後続が詰まり、追撃を受ける前に列が死にます」


セドリック・ヴァンハイムは椅子の背に片手を置いていた。泥のついていない黒い手袋が、幕舎の灯りでよく目立つ。


将軍は黙っている。疲れた顔だ。負け戦のあとに、自分の命令でさらに捨てる物を決めたくない顔でもあった。


「では、君はどうしろと言う」


セドリックが尋ねた。


答えを聞きたい声ではない。言わせてから、責任ごと折るための声だ。


「荷と兵を三つに分けます」


地図の上に置かれた木札を、指で動かした。大きな札は本隊。小さな札は荷馬車。欠けた札は負傷兵。


「南街道は盾を持てる者と本隊。牛追い道へ軽装兵と歩ける負傷兵。西の旧道へ、七台まで減らした荷馬車と歩けない負傷兵を回します」


「旧道は狭い」


「だから七台です」


「軍旗はどうする」


「本隊に一本あれば足ります。替え旗は捨てます」


将軍の眉が動いた。


セドリックは小さく息を吐いた。笑いに近いが、笑いきらない。幕舎の中の全員に、呆れたという形だけを配る息だった。


「聞きましたか、閣下。彼は王国軍の旗を捨てろと言っています」


「替え旗です」


「同じことだ。兵の士気を何だと思っている」


「水より重い旗は、撤退では兵を殺します」


幕舎の空気が硬くなった。


言い方を誤った自覚はある。だが、柔らかく言えば通る場でもない。ここでは、見栄えのよい言葉ほど荷台に残りやすい。


「雑用係の分際で、軍を三つに割るつもりか」


セドリックの声が少しだけ大きくなった。幕舎の外へ漏れる程度に。兵に聞かせるためではない。ここにいる士官たちへ、誰が上で誰が下かを思い出させるためだ。


「軍を割るのではありません。詰まる場所を減らします」


「言い換えれば済むと思うな」


「二番車は右後輪の鉄輪が浮いています。六番車は車軸にひび。どちらも重い箱を積んだまま橋へ入れば危険です」


「整備兵からは報告が上がっていない」


「荷台の下は、立っているだけでは見えません」


セドリックの目が細くなる。


「君は、整備兵も士官も見ていないと言うのか」


「見ていない場所があると言っています」


幕舎の奥で、若い士官が視線を落とした。車輪の下を覗く兵のことを思い出したのかもしれない。あるいは、思い出したくなかっただけかもしれない。


将軍が低く言った。


「セドリック。旧道へ一部回す案は」


「危険です」


答えは早かった。


「隊を割れば各個に襲われます。敗戦直後に必要なのは、軍としての形を保つことです。旗を掲げ、装備を残し、南街道を堂々と下る。追撃があっても、本隊で受ければよい」


堂々と。


その言葉は、泥に沈む車輪の重さを知らない。


「追撃を受ける前に詰まります」


「詰まらせないようにするのが、補給係の仕事だろう」


「荷を減らさなければ無理です」


「無理という言葉を、下の者が先に口にするな」


セドリックは地図の上に置かれた欠けた札を指で弾いた。負傷兵の札が、板の上で軽く跳ねる。


「敗戦で兵が動揺している。ここで重装備を捨て、旗を捨て、道を分ければ、軍は逃げ散る。君の計算は細かいが、軍の心を見ていない」


心で橋は広がらない。


喉まで来た言葉を、飲み込んだ。


将軍は地図を見下ろしたまま、長く黙った。


やがて言う。


「南街道を主路とする」


セドリックの肩から、ほんの少し力が抜けた。


「荷の放棄は最小限。軍旗、幕舎備品、予備武具は保持。負傷兵の振り分けは、各隊長の判断に任せる」


各隊長の判断。


責任が散る言葉だ。散った責任は、最後にいちばん軽い者へ落ちる。


「承知しました」


頭を下げる。


「ただし、水樽の分散と、熱のある負傷兵の馬車移動だけは許可を」


「まだ言うか」


今度はセドリックが笑った。


「水くらいなら好きにしろ。だが、荷は勝手に捨てるな。これは命令だ」


「分かりました」


分かったのは、命令の内容だけだ。


納得ではない。


幕舎を出ると、ハンスが待っていた。昼間、負傷兵を運んでいた若い兵だ。顔に乾いた泥がこびりつき、片手には空の革袋を握っている。


「どうでした」


「南街道だ」


ハンスの顔が曇った。


「じゃあ、二番車は」


「動かす」


「車軸、もちますか」


「重ければもたない」


ハンスは歯を食いしばった。


「降ろせないんですか」


「命令では降ろせない」


荷馬車列を見る。装飾箱がまだ載っている。替え旗も、儀礼用の食器も、壊れた攻城具の金具も。


「ただし、積み方は変えられる。二番車の右後輪側から鉄具を外せ。軽い布箱をそちらへ回す。重い箱は中央の低い位置。上には積むな」


「それで足りますか」


「足りない」


ハンスは黙った。


足りないと言うことに、まだ慣れていない顔だった。


「足りないが、ゼロよりましだ」


小さな紙片に、二番車と六番車の荷の位置を書いた。正式な命令書ではない。ただの覚え書きだ。持っていれば、誰かが迷った時に一手だけ早くなる。


「水樽は一番車と五番車。熱のある者は二番車へ固めるな。歩ける負傷兵は、橋の手前で降ろして渡らせる」


「処分されますよ」


「処分は、橋を渡ったあとでも受けられる」


紙片を折り、ハンスへ渡した。


「夜明け前に、もう一度車輪を見る。二番車、六番車、それから橋板だ」


南の空が赤くなり始めていた。朝焼けには早い。


レインは幕舎の灯りを背にして、荷馬車の列へ戻った。二番車の車軸へ、先に手を当てに行く。


進言は届かなかった。届かなかった数字は、まだ車輪の下に残っている。

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