敗戦の帳簿
麦袋、百八十七。
朝の帳面に残っていた数は、三百四十二。
レイン・アストラは、泥に沈んだ荷台の前でその二つだけを先に書いた。
耳には負傷兵のうめき声も、馬の荒い息も、士官たちの怒鳴り声も入っている。だが、最初に拾う数字を間違えれば、次に死ぬ者の数まで間違える。
ルーデン平原で負けた。
誰もその言葉を口にしない。将軍旗はまだ倒されておらず、伝令は「後退」と叫んでいる。けれど戻ってきた兵たちの足は、勝った軍のものではなかった。
折れた槍を杖にする者。
空の革袋を振って水を求める者。
兜を脱ぐ力もなく、荷馬車の陰へ座り込む者。
隊列は、戻ってきた順番のまま崩れていた。槍兵の横に弓兵が座り、伝令の馬が荷馬車の轍を塞ぎ、誰の隊か分からない盾が泥の上で裏返っている。
部隊名より先に、歩けるか、歩けないか。水を飲ませるべきか、まだ待たせるべきか。今はその分け方の方が生死に近い。
干し肉、樽で十一。
水樽、割れていないものが九。うち二つは泥が入っている。
荷馬、動けるものが三十九。脚を痛めたものが十七。明日の昼まで持たないものが、少なくとも六。
包帯は箱で四。うち一箱は水を吸っている。
数字は嘘をつかない。
嘘をつくのは、数字を書いた人間の方だ。
「レインさん、歩けない者はどこへ」
兜の縁を曲げた若い兵が駆け寄ってきた。頬の血は乾き、声だけがまだ戦場に残っている。
「二番車」
顔を上げずに答えた。
「二番車には鎧を積むな。飾り鎧と替え旗は降ろせ」
「将軍幕舎の荷です」
「人より軽ければ積め」
若い兵は一瞬だけ迷った。
「軽くありません」
「なら降ろせ」
迷いは残っていたが、足は動いた。動けるだけましだった。負け戦のあと、現場は命令より先に止まる。誰も責任を持ちたがらず、誰も捨てる物を決めたがらない。
野営地の中央では、士官たちが地図を囲んでいた。
どの隊が正面を受けたか。誰が命令を聞かなかったか。王都への報告をどう整えるか。
声だけは大きい。
その横で、水樽が一つ倒れた。
倒れた水を見て、三人の兵が手を伸ばした。誰も受ける器を持っていない。泥が飲んだ分だけ、明日の喉が渇く。
「水樽は一番車と五番車へ分けろ」
帳簿の端に線を引いた。
「一か所に積むな。矢が飛べば全部失う」
「矢が飛ぶんですか」
「飛ばない形にしておく」
若い兵は今度は聞き返さずに走った。
荷馬車の反対側では、膝から血を流した兵が自分で包帯を巻こうとして、布を落とした。指が震えて結べない。隣の兵は肩を押さえたまま、誰を呼べばいいのか分からず立っている。
「歩ける者は左。担がないと動けない者は荷台の陰。熱のある者は水樽の近くへ寄せるな」
「水を飲ませないんですか」
「飲ませる。だが、順番を間違えると全員が足りなくなる」
若い兵の顔が歪んだ。
言い方は冷たい。分かっている。けれど、ここで優しい顔をして水を配れば、夜明け前に革袋は空になる。喉の渇いた兵が空の革袋を振った時、謝っても水は戻らない。
馬番が引き綱を握ったまま叫んだ。
「餌は弱った馬からでいいですね」
「違う。明日歩ける馬からだ」
「倒れそうなやつは」
「荷を外して休ませる。餌は少しだけ」
馬番は唇を噛んだ。可哀想だと思っている顔だった。レインもそう思う。だが、倒れる馬へ餌を入れ続ければ、歩ける馬まで止まる。止まった車輪は、人の足を奪う。
全軍がこのまま同じ速度で南街道を下れば、明後日の朝に糧食が切れる。負傷兵を馬車に乗せれば荷が乗らない。荷を守れば、歩けない者が置き去りになる。
本隊が南街道に固まれば、橋で詰まる。
詰まった列は、前からも後ろからも動けない。腹を減らした兵は命令を聞く前に水を探す。馬は餌のない方から倒れ、倒れた馬が車輪を塞ぐ。
頭の中で、道と人と荷を置き直す。
足りないものは増えない。だが、足りないまま全滅する形と、足りないものを承知で半分以上を戻す形は違う。
「おい、雑用係」
背後から声が飛んだ。
セドリック・ヴァンハイム。
王国軍副官。黒い外套の裾には泥がついていない。泥を避ける道を知っている男だ。
「副官殿」
レインは頭を下げた。
セドリックは周囲の混乱を見渡し、薄く眉をひそめる。
「補給列が乱れている。将軍閣下がお怒りだ。君の管理が甘かったのではないか」
「現物を数え直しています」
「数え直せば兵が戻るのか」
「戻せる人数は変わります」
セドリックの視線が、泥のついた帳面へ落ちた。読むというより、汚れた物を避ける目だった。
「今は帳簿遊びをしている場合ではない。軍としての形を保て。兵に余計な不安を与えるな」
不安はもう、兵の腹と喉に出ている。
そう言っても、この男には届かない。
「水と負傷兵の配置だけは変えます」
「勝手に命令するな」
「命令ではありません。手順です」
「兵が従えば同じことだ」
セドリックはそこで笑わなかった。笑うだけの余裕を見せるより、今は叱責の形を残す方が得だと判断した顔だった。
「将軍幕舎へ来い。報告はそこで聞く。ここで泥の上に書いた数字を振り回されても困る」
「承知しました」
頭を下げる。
その間にも、二番車の荷台へ負傷兵が一人運ばれた。声も出ない。片腕だけがだらりと揺れている。
レインはその腕を見て、帳簿の余白にもう一本線を引いた。
水、馬、荷台、道。
足りないものは四つ。
まだ足りない数字がある。
橋が朝までに飲み込める荷馬車の数。追撃が来るまでの時間。歩ける負傷兵と歩けない負傷兵の境目。捨てれば助かる荷と、残せば死ぬ荷の重さ。
どれも、正式な帳面には載っていない。
野営地の外では、南街道へ続く列が伸び始めていた。重い荷馬車が、負けた軍の面子を積んだまま、細い橋の方へ向かっている。
旗の下に集めれば、軍らしく見える列だった。
レインはもう一度、帳簿の余白に線を引いた。まだ足りない数字の場所に。




