役人の壁
倉庫の扉を閉めた途端、役人たちが廊下を塞いだ。
レインは台帳を抱えた文官の後ろで足を止めた。
領主館の裏手から役所へ続く廊下は広くない。そこに五人が並ぶと、荷を持った者は通れない。一番前に立つ男は、腹回りに余裕があり、指にインクより指輪の跡が目立った。
「ダルム・ローネン。会計官補佐です」
男は自分から名乗った。
補佐と言ったが、周囲の役人が彼の顔色を見ている。実際には会計室を動かしている人間なのだろう。
「王都からの支援要員殿が、到着早々倉庫を荒らしていると聞きました」
「荒らしてはいません」
レインは答えた。
「まだ、開けただけです」
ダルムの眉が動いた。
「面白い言い方ですな」
「面白くはありません。台帳と現物が合っていない」
「辺境では、出入りの記録が遅れることがあります。王都のように紙が整っている場所とは違う」
「紙が整っていないのではありません。紙だけが整っています」
役人たちの空気が変わった。
ダルムの頬がわずかに赤くなった。
その変化は一瞬だった。
すぐに戻る。
ダルムは感情を表に出し続ける男ではなかった。怒りを飲み、礼儀へ戻し、相手の言葉を手順の中へ閉じ込める。
ミリアが一歩前へ出る。
「ダルム。倉庫の確認は私が許可しました」
「ミリア様。許可の問題ではありません」
ダルムは丁寧に頭を下げた。
「正式な手順があります。支援要員の受け入れ、領主様への挨拶、役所への登録、会計室での職務範囲確認。それを飛ばして倉庫を開ければ、現場が混乱します」
「現場はすでに混乱しています」
レインは言った。
「兵は百二十ではなく八十六。荷馬車は十四ではなく七。穀物は三か月分ではありません」
「その数字は、仮の確認でしょう」
「はい」
ダルムは勝ったように口元を緩めた。
「仮の数字で領内手順を乱すのは」
「仮でも、現物です」
笑みは広がらなかった。
ただ、消えもしない。
ダルムは弱い反応をしない男だった。怒鳴らず、黙り込まず、話を自分の得意な手順へ戻す。
「では正式確認をしましょう。明日、会計室立ち会いのもとで」
「今日、封じます」
「急ぎすぎです」
「急がなければ消えます」
「何が消えると?」
レインは廊下の床を見た。
古い泥の跡がある。
倉庫から会計室へ向かう足跡だ。雨の日のもの。革靴の踵が細い。軍靴でも倉庫番の靴でもない。
「時間です」
「時間?」
「今日見た状態が、明日も同じとは限りません」
ダルムは笑った。
「詩的な表現ですな」
「記録の話です」
ミリアは二人を見ていた。
顔色は悪い。
だが、逃げてはいない。
「レイン殿。優先順位を」
彼女が言った。
「今日中に封じるもの。麦、塩、油、薬草。釘と布は支援物資分だけ別置き。兵舎の薬箱は使用記録をつける。厩舎は動ける馬を別札に」
「会計室は」
エルクが低く聞いた。
「今日は開けません」
「なぜだ」
「人手が足りません。会計室を開けるなら、見る人、写す人、持ち出しを止める人、証言を残す人が要ります。今は倉庫の現物が先です」
エルクは不満そうにした。
ダルムはその隙を逃さなかった。
「ご覧ください。王都の方でさえ、会計室には手を出せないとお認めになった」
役人たちに、少し安堵が広がる。
失敗だ。
レインはそれを認めた。
言葉の置き方を間違えた。
会計室を後回しにする理由が、ダルムには「触れられない」として使える形になった。
「違います」
ミリアが言いかける。
だが、ダルムは丁寧に遮った。
「ミリア様。領主家の体面もございます。まずは支援要員殿を客間へ。正式な受け入れの席を整え、明日から各部署と調整を」
客間。
暖房。
茶。
挨拶。
そのすべてに油と薪と時間がいる。
けれど、反対すれば無礼になる。ミリアは領主家の人間だ。体面を捨てると言えば、その言葉だけが先に走る。
「今日は、ここまでですな」
彼は柔らかく言った。
「倉庫はガレス殿に封じていただきましょう。会計室の正式記録は明朝、私が整えます」
廊下の奥で、下役の一人が会計室の方へ目を走らせた。
ほんの短い動きだった。
だが、レインは見た。
明朝までに整えられるのは、記録だけではないかもしれない。
レインはミリアを見た。
彼女は唇を引き結んでいる。
この場で押し切るには、領主家の権限を使うしかない。だが、初日からそれを乱発すれば、役所全体が固まる。
主導権は取れなかった。
今日できるのは、倉庫の一部封印と薬箱の使用記録までだ。
「分かりました」
レインは言った。
エルクがこちらを見る。
「引くのか」
「今日は、です」
「逃げるのと何が違う」
「明日また開ける準備を残します」
ここで怒鳴れば、エルクは味方につくかもしれない。
だが、ミリアは役所全体を敵に回す。ガレスは倉庫へ戻れず、封もできない。勝ったように見えて、明日の棚卸しが死ぬ。
ダルムは満足げに礼をした。
廊下の奥で、油の灯りが揺れている。
客間へ案内する下役が待っていた。
歓迎の形をした足止めだった。
レインは台帳をミリアへ返した。
「倉庫の封だけは今日中に」
「はい」
ミリアの声は小さかった。
悔しさが混じっている。
ただ、その悔しさはまだ行き場を持っていない。
初日は、押し返された。
そして、客間の暖炉には、すでに火が入っていた。




