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追放された雑用係、敗戦処理の天才だった ~崩壊寸前の辺境領を立て直す~   作者: 山田鰻
第二十章 ハルヴェイン攻防戦

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もはや偶然ではない

夜明け前、本館前の板に残った火は一つだけだった。


北道の音は遠い。車輪の軋みも盾のこすれる音も昨日より薄くなっている。消えたのではなく、遠ざかった音だ。


板の右端にある行を見た。


撤退の影。


まだ太くしていない。追えば罠になり、喜べば列が崩れる。守り切ったかどうかは、朝の道と負傷兵の数を見るまで決めない。


「北道、戻りなし」見張りが報告した。


「敵は」


「厚い列は後ろへ下がっています。小台車は道に残ったまま/大車一は傾き/油壺は見えます」


「人は」


「前の盾は減りました。畑跡の影も奥へ引いています」


畑跡の影。板の端に置いた三枚の小札が目に入る。橋前・畑跡・石塀裏。同じ向きの退き・畑跡奥を同じ向きへ走る影・三度目の近さ。意味を書かずに残してきた札だ。


「先に、戻る道」メイナが筆を持ったまま待っている。


「はい」


南門/本館前/道倉の三札を開く。南門は民の列が座り場へ移り、門へ押し込まれていない。本館前は真ん中が空いている。道倉は乾き縄一束を失ったが、荷の外下ろしは出ていない。


守ったものは本館前の真ん中/南門の民の列/道倉の荷の腹/井戸の水/戻る道三分。失ったものは乾き縄一束/空箱二/車輪止めに回した杭二本/増えた負傷兵。


「勝ちの板に見えませんね」とメイナが言った。


「勝ちの板ではありません」


「では」


「崩れていない板です」


その言い方で筆が少し止まった。派手な線はなく討ち取った名も奪った旗もない。だが本館前は空いている。南門は押しつぶされず道倉の内側に荷が残っている。


ハルヴェインは、まだ立っている。


「ミリア様からです」南門の使いが紙を差し出した。民の列は夜明けまで維持。湯は残り少。半食は昼までなら可。泣く子二、眠る。外へ出る者なし。


領主代理の印は少しだけにじんでいた。夜の湿りか急いだ手かは分からない。


「南門、維持」とメイナが書く。


「昼までなら可、も入れてください」


「不足ですか」


「不足です。勝ったあとに増える不足です」


周りの兵が一度だけ板を見る。勝ったあと。まだ誰も声に出していない言葉だった。


その行は消さずに残した。


「北道からエルク様」と声がかかる。


エルクは石塀の切れ目から戻ってきた。鎧の泥が乾き、顔には疲れが残っている。剣は抜かれていない。柄の革だけが少しずれていた。


「追っていない」


「はい」


「追える距離ではあった」


「はい」


「追わなかった」


「それでいいです」


エルクは本館前の真ん中を見た。空いている場所を見る。敵の背ではなく、味方が通る場所を見ている。


「守ったのか」


「守り切りました」


言ってから板へ目を落とした。言葉だけなら軽い。板に残る形へしなければならない。


ハルヴェイン、守り切り。メイナがその行を太く書いた。


兵の誰かが息を吐く。歓声にはならない。歓声にすれば南門へ流れ、列が動く。だから息だけで止まった。


エルクが板の端を指した。


「その三枚は」


「まだ残します」


「意味を書くのか」


「書きます」


橋前の札を置く。敵の左列が退いた時、影も同じ向きへ流れた。


畑跡の札を置く。敵の盾列が荷車後ろを空けた時、林影が畑跡奥を同じ向きへ走った。


石塀裏の札を置く。靴跡/車輪/爪跡は同じ湿り、ガレスの確認。


三つを並べると、板の上の余白が狭くなった。


「偶然か」とエルクが聞く。


板の上の三枚から、目を離さなかった。


偶然ならここで終わり、次に同じことは起きない。血・腐肉・匂い袋を封じた壺も同じ折り目の紙も、別々の棚に戻せる。


だが、戦場の紙は別の形をしていた。


「もはや偶然ではない」と板に書いた。誰がとは書かない。どうやっても書かない。


ただ人の列と影の動きが三度近かったことだけを、戦の記録として確定させる。


ガレスが後ろから覗いた。


「ようやく書いたか」


「原因は書きません」


「まだ早え」


「はい」


「だが、偶然で済ませるのも遅え」


その通りだった。


ルシアの使いが遅れて紙を持ってきた。紙の端に油の染みがある。商人控えの写しだ。


敵側の買い声は夜明け前に止まる。水袋は戻し値なし/油壺は引き取り手なし/布は負傷兵用に追加で預かり可。


「水と油を戻せない」とエルクが言った。


「戻せない損が残りました」


「だから、下がった」


「下がらざるを得ない形になりました」


「勝ったとは言わないんだな」


「言いません」


「守り切った」


「はい」


エルクは板の行を見た。ハルヴェイン守り切り/もはや偶然ではない/撤退の影。三つの行は、同じ板に並ぶには重すぎた。


「次は何だ」


「勝ったあとに崩れるものを止めます」


「負傷兵か」


「負傷兵・遺体・荷・捕虜・残った車・油壺・水袋。あと紙です」


「紙」


「今日からは戦場の紙ではなく戦後の紙になります」


本館前の石段右では夜の間に運ばれた負傷兵が眠っている。道倉前では切った乾き縄の端を若い倉番が結び直している。南門の方からは湯を配る器の音がかすかに届く。


どれも戦いの外に見える。だがここで乱れれば、守り切ったはずの場所から人が倒れる。敵を退かせた後に、味方の列を崩すわけにはいかない。


「追う兵は」


「出しません」


「見張りだけか」


「見張りと、拾う者です。敵が捨てたものを拾う時も、手順を決めます」


「拾えば得だろう」


「触っていいものと、触ってはいけないものがあります」


エルクの視線が油壺の方へ動いた。布を巻かれた首が、傾いた車の影でまだ見えている。水袋もある。三つ目の荷は、結局まだ開いていない。


「あれも紙にするのか」


「はい。拾う前に紙にします」


エルクは少しだけ黙った。疲れた顔で、北道ではなく南門を見た。


「俺はどこに立つ」


「前線です」


「まだ前線か」


「はい。ただし追う前線ではありません。戻す前線です」


「負傷兵を戻し、荷を戻し、敵を追わずに見張る」


「はい」


「それは武か」


「武です」


エルクの目が少しだけ細くなる。


「なら、俺は相棒の武をやる」


その言葉は大きくなかった。だが本館前の板の前で、一度だけ顔を上げた。


助言を求めていた男が自分の立つ場所を選んだ。


剣を抜くためではなく、抜かずに残すために。


「お願いします」


「命令は短くしろ」


「はい」


「迷ったら」


「聞いてください」


「一度だけか」


「今は、必要なら何度でも」


エルクが短く笑った。今度は消さなかった。


昼前、本館前の板は三つに分けられた。守り切ったもの/偶然ではないもの/これから崩れるもの。


最後の板にはまだ何も書かれていない。だが南門から湯の残りを数える声が来る。北道から傾いた車を見張る声が来る。道倉から乾き縄不足の声が来る。


勝ちのあとには、もう次の不足が並んでいた。


白い余白へ、最初の一行を書いた。


戦後処理、開始。


その下にはまだ名前を書かない。先に数え、運び、封じるものを決める。朝の仕事はそこから始まる。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


少しずつ読んでくださる方が増えていて、とても励みになっています。

リアクションやブックマークも本当にありがたいです。


もし続きが気になる、面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。


次回も楽しんでいただけるよう頑張ります。

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