補給路遮断
北道の杭を、二本だけ抜いた。
抜いた場所は敵から見れば広くなったように見える。こちらから見れば、戻る車を通さない幅になる。抜いた杭は本館前へ戻さず、石塀の影へ横に寝かせた。
「広げるのか」とエルクが北道の奥を見たまま聞く。
「広げているように見せます」
「実際は」
「曲がる場所を消します」
敵の厚い列は北道へ寄っている。盾二十以上/車輪音複数/槍も多い/小台車は中ほど/畑跡の影は奥。道倉前では乾き縄一束を失ってようやく真ん中を保っている。
こちらの損は出た。なら次は、その損を増やさない形で相手に戻れない損を渡す。
本館前から運ばれてきた板は、前へ出すためではない。北道が見える石塀の裏に、小さい写しを置くためだ。
「大板は本館前のまま。写しだけここへ」
「敵に見えます」
「見えてもいい行だけ書きます」
写し板に三行だけ入れる。北道は広げる/畑跡は追わない/本館前は真ん中維持。
「広げる、と見せるのか」
エルクの声が少し低くなる。
「はい」
「敵が入る」
「入ります」
「入れてから」
「戻れない幅にします」
敵の台車は北道の中ほどで止まっている。前には盾/後ろには車輪音/横は石塀と畑跡。畑跡へ逃げれば足を取られ、石塀側へ寄れば荷がこすれる。
通れる道はあるが、戻れる幅はない。
「小台車を進ませる」
「まだ壊さないのか」
「壊しません」
「なぜそこまで」
「壊れた台車は捨てられます。壊れていない台車は、守ろうとします」
「守れば、兵が止まる」
「はい」
「荷は」
「水と油。三つ目はまだ未定」
「未定のまま入れるのか」
「未定だから、相手は守ります」
エルクは短く息を吐いた。納得ではないが、剣を抜きたい顔ではなくなっている。
「俺はどこに立つ」
「北道の右、石塀の切れ目。入ってきた盾を斬らずに止める場所です」
「斬らずに」
「斬るなら、戻る道を残す時だけ」
「分かった」
その返事が早かった。早すぎて少しだけ怖い。エルクがもう、斬らないことを自分の判断に入れている。
ガレスが横で杭を持ち上げた。
「抜いた杭はどうする」
「北道の戻り側へ寝かせます」
「踏ませるのか」
「車輪に見せます。踏ませるのは、戻ろうとした時だけです」
「嫌な置き方だ」
「戻らなければ踏みません」
「なら、戻ろうとした時の損だな」
「はい」
杭二本を石塀の影から戻り側へ寝かせた。立てれば罠に見えるが、寝かせればただの外した杭に見える。車輪が急いで戻れば片方を踏み、ゆっくり避ければ後ろが詰まる。
北道奥の盾列が動いた。
小台車が一歩進み、盾が左右へ開く。後ろの車輪音が近づき、二つ目と三つ目にさらに低い音が重なる。厚い列が本当に入ってくる。
「今」
エルクが右の切れ目へ立ち、槍兵はその後ろにつく。矢はまだ出していない。石塀の裏では空箱二つを押す兵が待つ。
「箱を前へ」
空箱が道へ転がる。北道を塞がず、右へ広がる場所だけを消す。敵の盾が箱を避けて左へ寄る。左には小台車があり、右へ逃げられない。
小台車の前輪が固い轍へ入った。「入った」とメイナの声が小さく落ちる。
「まだです」
後ろについていた大きい車が見えた。荷は高くないが、車輪が深く沈む音がする。水袋と油壺だけなら、あの音にはならない。
「三つ目」とエルクが言った。
「まだ見えません」
「音が重い」
「音だけでは書かない」
「分かっている」
言い返しながらエルクは前を見続けている。書かせず決めず、聞いたものは捨てない。前よりずっと厄介な顔になっていた。
敵の大きい車が北道へ入った瞬間、林の奥の影が一度だけ動いた。畑跡の左へ流れてすぐ止まる。追わせるためではなく、左へ逃げる道を浅く残しているように見えた。
「追わない」とエルクが先に言った。
「はい」
「左は残している」
「残しています」
「なら、そこへ行くな」
「はい」
こちらの命令ではなく、エルク自身の判断だ。
北道へ次の車が入る。
石塀の切れ目でエルクが盾を止めた。斬らずに柄で押し、盾の角度を変えさせる。敵の一人が怒鳴る。意味は分からないが盾が右へ寄れないことだけは分かる。
「右を消せ」
石塀裏の兵が二つ目の空箱を押した。箱は割れず転がるだけだ。敵の盾が足を止め、小台車の後ろが詰まる。大きい車の前輪が止まり、後ろの車輪音が重なる。
止めたのではなく、止まった。
「戻り側」ガレスが杭を指した。
大きい車が後ろへ引こうとして、車輪が寝かせた杭へ乗った。杭は割れず車輪を半分だけ持ち上げる。車が傾いて荷が揺れ、油壺の音と水袋の水音が聞こえた。
三つ目の荷は、まだ見えない。
「今なら壊せる」と槍兵が言った。「壊さない」エルクの声だった。
「傾いたまま守らせろ」
その判断を聞いて、板へ線を引いた。小台車は北道中ほど/大車一は戻り側で傾き/後続車輪は停止/右広がりは箱で消す/畑跡は追わない。
「敵の補給路」とメイナが言った。
「書いてください」
「断った、と?」
「まだです。前へ届かず、後ろへ戻れない」
メイナが書く。補給は前へ届かず/戻りは車輪詰まり。
「これで足りるか」エルクが戻らずに聞いた。
「足りません」
「まだ足りない?」
「敵が荷を捨てれば、兵だけ前へ来ます」
「なら」
「荷を捨てにくくします」
「どうやって」
「油壺を見せます」
ガレスが顔をしかめた。
「危ねえぞ」
「割りません。見せます」
大きい車が傾いたことで、布の隙間から油壺の首が見えた。壺の首には布が巻かれている。燃やすためか漏れを止めるためかは決めないが、敵にとって捨てたい荷ではない。
「あれを見せたまま止める」とエルクが言った。
「はい」
「なら、そこへ矢を撃たせるな」
「撃ちません」
「敵も撃たせにくい」
「油があるなら」
「あるなら、だな」
エルクが少し笑った。ほんの短くすぐ消えた。
敵の前列に動揺が出て声が飛ぶ。盾が右へ行けず、左へ行けば畑跡。後ろへ引けば杭、前へ出れば本館前の広さへ入る。だが荷は後ろに残る。
前の兵だけが進めても、荷は進めず後ろは戻れない。
「戻れない損」と板に書くと、その四文字で周りの兵が板を見た。
「勝ちですか」と若い記録兵が聞く。
「違います」
「では」
「敵が、戻るために損を捨て始めます」
「撤退ですか」
「まだです。影です」
敵の厚い列の奥で旗ではない布が揺れた。合図か荷の覆いか、そこまでは分からない。だが後ろの車輪音が前へ来なくなり、かわりに人の声が後ろへ流れていく。
戻す声で、前へ進める声ではない。
「撤退の準備か」とエルクが聞く。
「準備か立て直しか」
「どちらでも」
「どちらでも、次はこちらの戻る道を開けます」
「追わないのか」
「追えば畑跡へ引かれます」
「分かった」
エルクは今度こそ、すぐに返した。
本館前へ大板を戻す。補給は前へ届かず/戻りは車輪詰まり/油壺は見える/戻れない損成立/敵後方は戻す声。最後の行だけはまだ太くしない。撤退の影は、まだ追う札ではなかった。
それは勝ちの札ではなく、次に崩れるものを知らせる札だった。
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