合わせる足
「これは合わせている」
ガレスの声は、北道の石塀の裏から来た。
エルクは膝をつき、土の傷を見た。人の靴跡/荷台の細い車輪/畑跡から出た獣の爪跡が同じ場所で重なっている。
「同じ道を通っただけでは」と若い槍兵が言った。
「違う。踏んだ順が近すぎる」
ガレスは指で土を削った。上は乾いた泥で下は湿った泥、靴が先で車輪が次、爪が最後に乗っている。間は開いていない。
「敵が下がったあとで魔物が来たのではない」
「同じ時に近い」
「近いじゃねえ。合わせてる」
その言葉を、エルクはすぐ小板へ書かせなかった。
意味を先に置けば兵の足が乱れる。見えたものだけを書けと昨日から何度も言ってきたが、今の土は見えたものだけでも重い。
「記録」小板の兵が近づく。
「靴跡/車輪/爪跡は同じ湿り。北道右の石塀裏、ガレス確認」
「合わせている、は」
「まだ書くな」
ガレスが横目で見た。
「書かねえのか」
「板には、まだ」
「なら口で覚えとけ」
「覚える」
北道の奥で小台車が軋んだ。昨日から進みは遅い。水と油は見えたが三つ目はまだ不明だ。台車の前は盾五枚で後ろは槍。盾の隙間から荷台の縁だけが見えても、確かめたい中心はまだ隠れている。油袋の角だけが濡れた光を返しても荷の奥はまだ読めない。畑跡の奥には低い影が動いている。
敵主力位置不明。
その行が、頭の中で残り続ける。
「本館前へ返す」伝令を呼んだ。
「石塀裏は靴跡車輪爪跡、同じ湿り。小台車は北道中ほど/三つ目の荷は不明/林影は畑跡奥」
「敵主力は」
「まだ書けない」
伝令が走った直後、北道の盾の向きが変わった。音ではない。
小台車の前にいた盾がいっせいに左へ傾いた。矢を防ぐ角度ではなく北道の右から見られる荷を隠す角度だ。ほぼ同じ時に畑跡の奥の影が右へ寄る。
右から見れば盾が邪魔になり、左へ出れば影が近い。
「見る場所を消してきた」とエルクは言った。
「壊しますか」と槍兵が聞く。
「何を」
「台車を」
「まだ壊さない」
「見えません」
「見えないから壊すな。見えない荷を壊せば、こちらの損だけ確定する」
言葉では止まったが、兵の足は前へ出かけていた。見えないものを放っておく方が怖いことはエルクにも分かる。剣を抜いて壊せば今だけは楽になる。
その楽さを選ぶと、戻る道が細くなる。
本館前から返しが来る前に、道倉側で声が上がった。
「負傷兵、道倉前へ三!」
三人ではなく五人だ。二人が肩を貸し、腕の布が赤く、ひとりは顔を上げられない。
道倉前は歩ける負傷の場所だった。だが、今戻ってきた者のうち二人は歩けない。石段右へ回すべき重さだ。
「本館前へ」と兵が言いかける。
「待て」
エルクは振り返った。
道倉前から本館前へ移すには、北道と本館前の間を横切る。その真ん中を空けるためにここまで何度も捨ててきたが、放っておけば道倉前が詰まる。
失敗だ。分けたはずの負傷兵が同じ場所に戻っている。
「二人だけ本館前へ。残り三人は道倉壁沿い。医箱を戻せ」
「本館前から医箱を戻すのですか」
「違う。道倉の医箱を壁側へ下げる。真ん中を空けろ」
「布が足りません」
「乾き縄を切る」
「乾き縄は車用です」
「人を縛る布がなければ、車も戻せない」
小さな損が決まった。乾き縄一束を、車ではなく負傷兵へ使う。戻る車一台分の余裕が減る。
小板に書かせる。乾き縄一束は負傷兵へ転用/道倉前は壁沿いへ三/本館前へ二/真ん中維持。
「損ですか」と記録兵が聞いた。
「損だ」
「渡した損では」
「違う。こちらで出した損だ」
その区別は痛い。敵に渡すための損ではなく、読み切れずに出た損だ。兵の顔を見れば、その痛さは伝わっている。
北道で盾が動いた。
小台車が半歩進み、盾が左へ傾く。畑跡の影が右へ寄り、同じ細い時間に道倉前の負傷兵も壁へ移った。
「今か」と槍兵が低く言う。
「今ではない」
「でも、道倉が詰まります」
「だから詰まらせない」
エルクは初めて、北道から目を外した。道倉前の壁沿いへ向かって歩く。剣ではなく腕を使う場所だ。
「三人は壁へ。肩を貸す者は戻れ。布は短く切り、結び目は外へ出せ」
「外へ?」
「ほどく時に早い」
負傷兵の顔がこちらを見た。助けを求める目ではなく、迷惑をかけた顔だ。そういう顔は余計に人を遅くする。
「歩ける者は、謝るな。壁へ寄れ」
声を荒げなかった。荒げれば南門まで響く。
ガレスが乾き縄を切った。
「これはあとで車一本分、泣くぞ」
「分かってる」
「分かってて切るならいい」
「よくはない」
「それも分かってんならいい」
北道から、伝令が戻った。
「本館前返し。乾き縄転用承認/真ん中維持優先/小台車は進ませる/三つ目の荷はまだ未定」
「敵主力」
「北道奥に厚い列。盾多し/車輪音複数/まだ全容見えず」
その報告で、エルクの指が小板の端に止まった。
敵主力位置不明ではなく、北道奥の厚い列へ変わった。
「数」
「見えた範囲で盾二十以上。後ろに車輪音三つか四つ、槍の穂先多数」
「畑跡は」
「影、奥へ寄ったまま。敵左の背側に残っています」
人の厚い列が北道へ寄る。影は畑跡の奥、小台車はその間。こちらの道倉前は、乾き縄一束を失ってようやく空いた。
ガレスが土の跡をもう一度見た。
「これで三つ目だな」
「三つ目?」
「橋前/畑跡/今の石塀裏。人と荷と獣の足が、妙に近い」
「妙に、で止める」
「板にはな」
エルクは小板を持つ兵へ向いた。
「書け。北道奥は盾二十以上/車輪音複数/槍多数。敵の厚い列、北道へ寄る」
「敵主力、と」
「まだ書かない。厚い列でいい」
「はい」
「もう一つ。石塀裏の跡、三度目の近さ。ガレス確認」
ガレスが鼻で笑った。「近さか。まあ、板ならそれでいい」
本館前へ送る札は二枚になった。一枚は損の札で乾き縄一束を負傷兵へ転用、もう一枚は敵の札で北道奥に厚い列と石塀裏の跡三度目の近さ。
伝令が走る。
その背中を見送りながら、エルクは剣の柄から手を離した。握っていたことに、そこで気づいた。
まだ抜かない。抜く時は損を取り返すためではなく、戻る道を残すためだ。
北道の奥で、盾の列がまた一歩前へ出た。
小台車の後ろに二つ目の車輪音が重なり、さらにその後ろで三つ目が低く鳴った。
敵の厚い列は、ハルヴェイン前へ寄り始めていた。
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