同じ向きの影
畑跡の端に杭を三本だけ刺した。
エルクは膝をついて杭の高さを見た。高すぎれば敵にも見え、低すぎれば味方が踏む。膝下で盾を持った歩兵の足には当たり、走る者の目には入りにくい高さ。
「罠にするのですか」と若い槍兵が聞いた。
「罠じゃない。道の印だ」
「敵のために?」
「味方のためだ。ここから先へ追うなという印にする」
畑跡は柔らかい。昨日敵の左列が足を取られた場所だ。追えばこちらの足も取られる。柔らかい土は敵だけを選ばない。
北道の右には石塀。左には畑跡。その奥に林。橋前には、まだ敵の歩兵が残っている。一台目の荷車は本館前へ近づききれず、車前の歩兵と一緒に止まっていた。
二台目の荷は古い搬入道で止まり、矢束は見えない。
その一行が、エルクの頭の後ろに残っていた。
「札を返せ」記録兵が小板を差し出す。
本館前からの返しは短い。畑跡は追撃禁止。林沿いは二人以上出さない。矢はまだ出さない。水は前へ出さない。
「また矢を出さないのか」槍兵の声に焦りが混じる。
「出せば楽になるか」
「少なくとも近づけません」
「矢を出した場所を守る兵が増える」
「……はい」
「守る場所を増やすな。昨日から同じだ」
言いながら自分の声が少しだけ板の言い方に似たことに気づいた。気に入らないが兵の肩は下がった。怒鳴るより短い言葉の方が今は届く。
北道の先で敵の列が動いた。
橋前の残りが一歩ずつ下がり、車前の歩兵は動かない。畑跡の左列は杭の手前で止まった。杭が効いたのではなく柔らかい土に足を沈めた記憶が効いている。
「下がるなら追える」と槍兵がまた言った。
「追うな」
「逃がすのですか」
「逃げていない。場所を替えている」
敵の退き方は敗走ではなかった。盾を前に残し、槍を横へ向けて荷車の後ろを空ける。逃げる足なら背中を見せるが、いま見えているのは道を作る足だった。
「水袋を通すつもりか」そう言うと記録兵が小板へ走り書きした。
「まだ書くな」
「見えたものだけでは」
「水袋は見えていない」
記録兵が筆を止める。
「敵、荷車後ろを空ける。そこまでだ」
「はい」
小板に敵は荷車後ろを空けると入る。意味を急げば紙が先に戦い始める。エルクは心の中でその言い方を少しだけ雑に削った。
林沿いから低い鳴き声がした。
犬ではなく狼でもない。喉を潰したような短い声が二つ重なって聞こえた。昨日見た小型の影より少し大きい。
槍兵の手が上がる。
「まだ」
エルクは左手を下げたまま合図した。右手は剣に触れない。触れれば、兵が先に構える。
林の影が三つ出た。地面すれすれに走り、畑跡の端で止まる。敵の左列との距離は遠く、こちらへ来るならまだ走れる距離だ。
敵の橋前の盾が同じ時に一歩下がった。
「下がった」
「見えている」
盾の列が下がり、林の影も下がる。どちらも畑跡の奥へ寄る。敵の左列は杭の前で止まったままだ。
「影が退くなら、こちらへ来ません」
「分からない」
「敵も退いています」
「だから分からない」
同じ向きへ退いている。その事実だけが喉に引っかかった。敵の盾列は人の足で下がり、林の影は四つ足で下がる。速さは違うのに下がる幅が近い。
「記録」小板が上がる。
「橋前盾列は一歩退く/林影三は同じ向きへ下がる/畑跡左列は杭前で停止」
「同じ、まで書くのですか」
「向きだけだ。意味は書くな」
記録兵の筆が震えた。怖いからではない。意味を書きたくなるものほど、筆は先へ行こうとする。
北道の奥で荷車の車輪が鳴った。
古い搬入道ではなく橋の後ろだ。姿を見せなかった二台目ではない。もっと小さい。手押しの荷台か車輪を外した台車の音。
「矢束か」と槍兵が言った。
「見えてから言え」
石塀の切れ目へ二人を送る。林側へは出さず北道の右からだけ見る。エルク自身は動かない。動けば兵が前へ流れる。
「右から見ろ。荷の形だけ。人の顔はいらない」
二人が低く走る。
敵の車前の歩兵が盾を少し上げた。矢を防ぐ角度ではなく右の視線を切る角度だ。
「見られたくない」
「何を」
「荷だ」
エルクは答えたが、小板にはまだ書かせなかった。見えた形だけを待つ。
右へ出した兵の一人が、手を三つ振った。水。油。分からない。決められない時の合図だ。
「水と油はある。三つ目は不明」
「矢束では」
「分からない」
「でも、向こうは隠している」
「隠しているものを、こちらで決めるな」
言葉がまたレインに寄った。今度は気にしなかった。
林の影がもう一度動いた。
敵の盾列が荷車の後ろを空ける。その空いた幅へ小さな台車が入る。林の影はその動きと同じ向きへ畑跡の奥を走った。敵の左列が安心して下がる道ではなく、左へ逃げる道を浅く閉じる走りだ。
「今、同じだ」と記録兵が言いかけた。
「書け。見えた順だ」
「敵盾列は荷車後ろを空ける/小台車は北道へ入る/林影は畑跡奥を同じ向きへ走る/敵左は杭前で動けず」
「そのまま」
「意味は」
「書かない」
敵の台車が北道へ入った瞬間に橋前の歩兵がまた二つに割れた。半分は台車を守り、半分は杭の前に残る。林の影は畑跡の奥を斜めに流れ、残った左列の背中側へ回る。
もし追っていれば、こちらの槍兵はそこに入っていた。
エルクの背筋に冷たいものが通った。恐怖ではなく、順番を間違えれば強い兵から削られるという感覚だ。
「追撃禁止、続ける」
「はい」
「本館前へ返せ。小台車、北道へ入る。水と油あり。三つ目不明。林影は敵左の背側へ回る。矢はまだ使わず」
伝令が走った。
敵の台車は遅い。重い荷ではないが足場を選んでいる。北道は細い。台車が入れば後ろの歩兵は詰まり、前の歩兵も下がれない。
こちらが撃たなくても、向こうの荷が向こうの足を止める。
「今なら台車を壊せる」槍兵の声が低い。
「壊さない」
「なぜ」
「台車が止まれば、後ろも止まる」
「壊せばもっと止まる」
「壊した台車をどけるために、人が動く。壊れていない台車は、荷を守るために人が動かない」
槍兵は口を閉じた。納得した顔ではない。それでも、槍は前へ出ない。
本館前から返しが来る。小台車は進ませる/三つ目の荷は確認まで未定/林影は札へ写す/夜前に畑跡杭を増やす。
「備えるのか」
「備える」
「どこへ」
「畑跡の奥へ入らないために。北道を細く保つために。南門を揺らさないために」
言葉を三つに分けると兵がそれぞれの方向を見た。畑跡/北道/南門。見る場所が増えたのではなく見てはいけない場所を減らした。
夕日が石塀の上にかかる頃、敵の台車はまだ北道の中ほどにいた。林の影は畑跡の奥で低く動き続けている。敵の左列も影もこちらへはまだ来ない。
来ないことが、いちばん嫌な形で残った。
エルクは小板の最後に自分で一行を書いた。畑跡は夜前に杭増し。その下にもう一行だけ足す。同じ向きの退き、二度目。
意味はまだ書かない。
だが、備える場所は決まった。
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