敵の最初の手
車二台の報告だったのに、北道へ見えた車は一台だけだった。
エルクは石塀の低い切れ目から先鋒の列を見た。先頭に盾を持つ歩兵、少し空いて荷車一台、その後ろに槍と土煙。見張りが言った二台目はまだ姿を見せない。
「車が減った」と隣の兵がつぶやく。
「減ったんじゃない。隠したか、遅らせたかだ」
言ってから本館前を振り返った。石段の下に板があるが、そこには立たない。板の前へ人を寄せないと決めたため、少し奥の荷下ろし場の影でメイナの札を見ている。
一度だけ聞くという約束を足が先に覚えていた。
エルクは北道と本館前の間から動かず、手旗の兵へ合図した。赤は止まれ/白は通せ/黒は戻せ。橋の前にいる者へ届くよう、旗は大きく振らせる。
北道の先にある低い石橋には昨日の仕掛けが残っていた。左の轍は泥で消し、右の轍だけが硬い。橋の幅は二台を並べず、右へ寄った車は通れるが後ろは細くなる。
敵の先頭歩兵が橋の前で止まった。
「止まったぞ」
「止まらせたんじゃない。見ている」
橋の上に兵はいない。こちらの槍も置いていない。強く守る場所に見せれば向こうは力を集め、空に見せれば疑って足を止める。
敵の歩兵が三人橋板を叩いた。一人は下を覗き、もう一人は左の泥へ足を入れる。膝までは沈まないが車輪は取られる深さだ。
エルクの指が剣の柄へ動きかけた。まだだ。頭の中で昨日の声が戻る。走る前に一度だけ、聞くなら足を出す前だ。
「伝令」若い兵が寄る。
「本館前へ。車一は橋前で停止/二台目見えず/歩兵は橋板確認/左泥は足だけ通る/車輪は取られる、と」
「そのままですか」
「そのままだ。言葉を足すな」
伝令が走る。足された言葉は嫌われる。恐れている/迷っている/焦っている。そういう言葉は今はいらない。見えたものだけでいい。
橋の前で、敵の荷車が右の轍へ乗った。
きしむ音が乾いた空に伸びる。車軸は軽く荷は少ない。見せるための車か先に通すための車か。どちらでも橋の上では止めない。
エルクは白旗を上げさせた。
こちらの兵が息をそろえる気配がある。橋を渡す合図はまだ兵の腹に落ちきっていない。敵が進むのを見れば反射で止めたくなる。
「通せ」と低く言った。
「橋は取らせるのですか」
若い槍兵が聞いた。
「橋ではない。時間を取る」
「ですが、渡りました」
「一台だけだ」
一台目が橋を越えて右へ寄ったまま道の狭いところへ入る。そこで速度が落ちる。車を守ろうと歩兵が左右へ開き、左の足が泥へ落ちる。右は硬く寄れば後ろの槍が詰まる。
橋の手前にはまだ歩兵が残り、二台目は来ない。先頭の車が進むほど後ろとの間が空く。
「第一波、渡った数」とエルクは言った。
メイナの札を持つ兵が首から下げた小板を見た。
「歩兵十二/車一/槍六/橋前残りは歩兵十八ほど」
「こちらの損は」
「矢なし/槍なし/橋板損なし/泥は踏まれました」
「泥は損に入れるな。踏ませるための泥だ」
「はい」
槍兵の肩がわずかに下がった。渡したものと失ったものを同じ箱へ入れない。その分け方が板の仕事だった。
本館前から返しの旗が来た。黒でも赤でもなく、白を半分だけ上げる合図。一台目は進ませ、後ろは止める。
「橋の後ろを細くしろ」
エルクは北道の兵へ言った。
低い石塀の裏から空箱が二つ出る。昨日壊れた箱として捨てたものとは別で、軽く蹴れば動く。だが車輪が踏めば割れて音が出る。
空箱を右の轍の外へ置く。道を塞がず、広がる場所だけを消す。橋を越えた車は右へ寄ったまま進み、歩兵の肩が石塀へ近づく。
「斬れるぞ」と隣の兵が言った。
「斬らない」
「今なら」
「今斬れば、後ろが広がる」
兵の喉が鳴った。納得ではない。だが、槍は下がった。
一台目の車は本館前へ届く前に止まった。車軸が折れたのではなく、前を行く歩兵が止まったからだ。歩兵の先には広い本館前があり、その広さを見て敵の足が少し迷った。
広い場所は走りやすいが、戻る車も動きやすい。
エルクはそこを見て、ようやく一歩だけ下がった。北道と本館前の間。約束の場所から大きく外れない。
「今、聞く」
伝令を呼ぶ前に、本館前から小さな板札が届いた。走ってきたのはメイナの下につく若い記録兵だ。
板札には短く書いてある。一台目は荷軽し/二台目は遅れ/歩兵は橋前と車前で二分/矢を使わず継続。下にもう一行、エルク判断は北道側で待つ。
「先に言われた」と思わず口から出た。
記録兵は困った顔をした。
「本館前からです」
「分かってる」
誰が命じたのか、メイナが先に読んだのかは分からない。どちらでもいい。聞く前に答えが来たのではない。自分が聞く場所に立っていたから答えが届いた。
橋の後ろで、敵の歩兵が動いた。
橋前に残った十八が二つに割れる。半分は車の後ろへ付き、もう半分は左の畑跡へ出た。泥を避ける動きではなく道の外から本館前を測る動きだ。
「左へ出る」
エルクは黒旗ではなく、赤旗を握らせた。
「止めますか」
「止めない。見せろ」
「何を」
「畑跡は柔らかい」
左へ出た歩兵の足はすぐに遅くなった。畑は冬前に掘り返してあり、草を刈った後で水が抜けていない。歩兵なら通れるが走れない。盾を持てばさらに遅い。
その遅れを見て、橋前の残りが右へ寄った。
敵の列は三つに分かれた。一台目の車前/橋前の右/畑跡の左。数はまだ多くないが命令が三つ必要になる形だ。
「第一波の損」とエルクは小板の兵へ言った。
「敵は時間を失う/列は三分/車一は孤立しかけ/こちらは矢なし・槍なし/箱二配置済み」
「箱は損か」
「割れたら損です」
「まだ割れてない」
「では、配置」
「そう書け」
小板に箱二配置と入る。損を急いで増やさず、損になってから数える。そうしないと怖さで紙が膨らむ。
敵の一台目が、もう一度動いた。車前の歩兵が本館前の広さへ入る。盾が上がる。矢を警戒している。だが、こちらはまだ矢を撃たない。
矢は音だ。音を出せば南門の民が揺れ、その揺れは本館前の広さへ返ってくる。
エルクは初めて、剣より南門の煙を見た。
煙はまだ細く、火前は道を塞いでいない。ミリアの線は生きている。
北道から別の見張りが駆け込んできた。橋の方ではなく外縁の林沿いからだ。肩に泥、袖に細い傷。転んだ傷ではない。
「林側、魔物影」
その一語で、槍兵が動きかけた。
「数」
エルクの声が先に出る。
「五、いや七。小型でまっすぐではありません。敵の左へ寄っています」
「こちらへではなく」
「敵の左です」
橋前の歩兵が右へ寄った直後だった。畑跡へ出た敵の左列が、足を取られている。その外側を、小さな影が低く走る。まだ距離はある。人へ跳びかかる距離ではない。
魔物の影は、畑跡の端で止まらなかった。
敵の左列が一歩引き、影も同じ向きへ流れる。敵の右列が橋へ戻ろうとすると、影は畑跡を横切らず右列の退路を押すように斜めへ走る。
「撃つか」と兵が聞いた。
エルクは答える前に、本館前の板を見た。遠い。だが、白い札が見える。
矢を使わず継続。
「まだ撃つな」
「魔物です」
「近づいたら撃つ。今は、敵の足を見ろ」
敵の歩兵が二歩下がった。魔物の影も二歩分同じ線を詰めた。人の声も笛もない。だが畑跡の左列と林側の影が同じ向きへ動いている。
エルクは小板の兵を呼んだ。
「書け」
「何を」
「敵左は畑跡で停止/魔物影は敵左の退きに沿う/右列は橋側へ戻れず」
「意味は」
「書くな。見えたものだけだ」
小板に筆が走る。エルクは剣を抜かなかった。
第一波は、まだ終わっていない。
だが、敵の手は人だけでは済まなくなった。
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