井戸の手前
古井戸の縄はまだ濡れていた。
昨日まで本体前の水桶を満たしていた縄だ。切れば早いが燃やせば戻せない。だから外す。結び目をほどき、桶を井戸から離す。水は底に残る。
水は捨てず、すぐに汲めない形にする。
「桶はどこへ」
メイナが聞いた。
「井戸裏の穴へ。粉麦の上には置かない」
「匂いがつきます」
「はい」
水桶には水の匂いがある。粉麦のそばに置けば湿りが移る。湿った粉麦は重くなり、戻す車を遅らせる。小さなことでも重なると車が止まる。
ガレスが井戸の縁を手でなぞった。
「石は抜くな」
「なぜですか」
「崩せばあとで直すのに人が要る」
「残します」
井戸は残す/縄を外す/桶を隠す/水を濁さない/井戸の周りの土だけを踏ませる。
井戸の手前は乾いて見える。だが薄い草の下は柔らかい。人は踏めるが車輪は沈み、馬は嫌がる。
「ここへ誘うのか」
エルクが井戸の手前を見た。
「橋で待たせた後なら、水を探します」
「探さなければ」
「車は橋で細くなります。どちらでも止まります」
「水を探せば、ここで止まる」
「はい」
「なら俺は」
言いかけて、エルクは地面を見た。
「井戸のそばで斬らない」
「斬れば血が入ります」
「分かっている」
返事が早かった。自分でも嫌そうな顔をした。
「井戸を残すなら斬る場所ではない」
板に書く。井戸では戦わない/井戸手前は車輪を沈める/水桶は隠す/縄は別保管/血を入れない。
「血まで書くのか」
「書きます」
ガレスが短く言った。
「水に混ざるものはあとで人を殺す」
本体兵の口が閉じた。
水は兵だけのものではない。火前にいる者も南門へ戻る者も、避難している者も飲む。ここで井戸を汚せば敵に渡す損ではなく領へ返る損になる。
そこは渡せない。
橋から返しが来た。
敵車一は橋へ入る/二台目は手前停止/歩兵は水を探す動きあり/見せ荷は下げ済み。
「入った」
エルクが言った。
「一台目は渡しました」
「二台目は」
「待っています」
「水を探す」
「ここへ来ます」
井戸の手前に割れ盾の金具を二つ埋めた。刃ではなく足を切るためでもない。車輪が当たれば音がし、馬が踏めば嫌がる。人が拾えばそこに目が落ちる。
目が落ちれば足は遅れ、後ろが詰まる。
「こんなものまで使うのか」
「捨てた盾です」
「昨日の損か」
「今日使います」
捨てたものをそのまま損にせず使える形に変える。壊れた盾は防げないが音は出せる。壊れた箱は荷を守れないが足を迷わせる。
ルシアの紙が井戸裏へ届いた。
縄商は替え縄二/桶は商人印なしで貸し出し可/水代は取らない。
「水代は取らない」
メイナが読み上げた。
ルシアらしい書き方だった。水に値をつければ後で争いになる。今は貸しにもしない。ただ戻せる桶として記録する。
「商人の損は」
「桶の欠けです」
「安いのか」
「今は安いです。井戸を失うより」
井戸の北側から歩兵が二人見えた。敵側だ。槍を持たず一人は空袋を持っている。水を探す者の動きだった。
本体兵が弓へ手を伸ばす。
「撃ちません」
手が止まった。
「井戸のそばです」
「水を汲まれる」
「桶がありません」
敵側の二人は井戸へ近づく。縄がないことに気づき、縁を覗いた。水はあるが汲めない。空袋では汲めない。片方が戻り、片方が井戸の石を探る。
その間に橋の手前の二台目が動かない。
エルクの目が動いた。
「戻る者が出る」
水を取りに来た一人が戻れば橋の列へ逆向きの足が入る。前へ行く足と戻る足が混ざれば車輪は止まる。
板へ数字を入れた。水探し二/戻り一/橋二台目停止/後ろ詰まり三以上。
「三以上」
メイナが写す。
「数えられるのか」
「見える分だけです」
「見えない分は」
「あとで橋の返しで足します」
エルクが井戸の縁を見た。
「斬っていないのに止まる」
「はい」
「俺が出たらもっと早いか」
「井戸が使えなくなります」
今度は反論せず、井戸と橋を交互に見た。
「では俺はどこを見る」
「水を取りに戻る足です」
「斬る足ではなく」
「戻る足です」
「戻る足が増えたら」
「橋が詰まります」
エルクが低くうなずく。
「分かった。戻る足を数える」
その言葉を板の端に書いた。井戸は戻る足を数える。
前へ出ないためではなく、前へ出る前に見るものを決める言葉だった。
敵側の二人目が井戸の縁を諦め、草の下の柔らかい土を踏んだ。足首が少し沈み、立て直すために手が石へ伸びる。
水は取れず、井戸は壊れていない。橋の列だけが少し長くなった。
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