残った損
日が落ちる前に本体前の土は三色に分かれていた。
中央の口は踏まれて黒く、右下は濡れ毛布の泥で鈍く、左は空車が逃げた跡で深く削れている。
どれも勝った場所には見えなかった。
「戻りの数を出します」
板の上から泥のついた紙だけを外す。使える紙は右へ/保留の紙は板の端へ/声で来たものは控えの下へ。混ぜれば次も同じところで迷う。
控えを開き数字を読み上げる。
「北の段から戻った者十四/歩ける者九/肩を借りた者五」
「車は南門から通した車三/空で逃がした車一/回収なし。負傷は本体前で増えた重いものはありません。肩を借りた者は五です」
重い負傷なし/戻り十四/車三/空車一回収なし。
その行だけなら悪くないように見える。けれど板の下には別の行がある。
濡れ毛布三・割れ盾二・壊れ箱一は捨て置き/空車一は回収なし/白灰二は回収/火は残しなし。
「捨てた物も多いな。車も捨てた」
戻る口の線から声が来る。
「戻る口を残しました」
「そういう言い方をすれば全部ましに見える」
「ましには見せません」
板の下へさらに線を引く。残ったもの/失ったもの/向こうで止まったもの。
「分けます」
火種の箱を抱えたままガレスが覗き込んだ。
「残ったものは戻る口だな」
「戻る口/車三/白灰二/火前一列・右三・弓二」
「失ったものは」
「濡れ毛布三/割れ盾二/壊れ箱一/空車一」
「向こうで止まったものは」
「前列二/起こす者三以上/後ろの足/追撃の時間」
本体兵の一人が最後の欄で目を止めた。
「時間も数えるのか」
「数えます」
「見えない」
「戻り十四の中に入っています」
見えないものほど後で勝ちと言いたくなる。けれど勝ちと言った瞬間に次は前へ出る。今日残したのは勝ちではなく戻るための時間だ。
時間は袋にも車にも載らない。だから失った物の隣に書かなければ消える。消えれば次に同じ空車や濡れ毛布を惜しみ、割れ盾まで抱えて逃げようとする。
エルクの靴はまだ戻る口の線の上にあった。剣は抜いていない。鞘の泥だけが乾き始めている。
「俺はほとんど斬っていない。それで戻った」
「はい」
「嫌な初陣だ」
「撤退戦です」
「分かっている」
短い返事のあと中央の口を見る目が変わった。誰もいなくなった土を見る目だった。前ではなく戻ったあとの場所を見ている。
南門からミリアの返しが入った。
南門は半食維持/火前一列維持/戻し車三受け/水桶戻し済み/夜番二刻交代。
本体前の板へ写す。
「夜番が入ります。本体前は戻る口を残したまま交代です。板はここに置きます」
「紙を道倉へ戻さないのか」
「戻す紙と残す紙を分けます」
残す紙は三つだった。早すぎる鈴の紙/同じ折り目の紙/車中央寄せの紙。
どれもすぐに捨てれば軽くなる。捨てれば味方の中を疑わずにすむ。だが軽くした紙は次にまた足を動かす。
板の端へ三枚を重ねた。
「出所はまだ追いません」
横目が向く。
「追わないのか」
「今追えば戻る口の兵が互いを見るだけです。紙を残します。次に同じ形が来た時に先に止めます」
「疑いを残すのか」
「形を残します」
ガレスが低く笑った。
「疑いは腐る。形は使える」
「それでいいです」
「良くはないだろう」
「良くはありません」
良くないものを良く見せない。そのまま板へ置く。これも本体前で覚えたことだった。
勝った話に変えれば兵は少し楽になる。けれど楽になった足は次に前へ出る。苦いまま残せば足は紙を見る。紙を見るならまだ止められる。
北の段から最後の返しが届いた。
追撃まだ遅れ/外側は右下へ寄り直し/車跡は踏み荒れ。
「まだ右下を見ている」
「そこに何かあると思わせたままです。実際には濡れ毛布と割れ盾だけです」
「安いな」
「安く止めた」
「次もそれで止まるか」
「止まりません」
戻る口から先に答えが来た。
「同じ手は読まれる」
「はい」
「なら次は」
「損を選びます」
言いながら板の下に新しい欄を作った。
明日渡せる損/明日渡してはいけない損。
その二つを分けなければ明日も同じものを守ろうとする。濡れ毛布・割れ盾・空車・戻る口・歩ける兵の足まで同じ重さで抱えようとする。抱えた瞬間に車は重くなり、戻る者は倒れる。右下の泥へまた寄る。選ぶのは捨てるためではなく戻すためだった。
「渡すのか」
「全部は守れません。濡れ毛布なら渡せます/戻る口は渡せません/空車は渡せる時があります/歩ける兵の足は渡せません」
本体前の兵たちが黙って聞いていた。勝ちの話でも勇ましい話でもない。何を失ってよく何を失ってはいけないか、その仕分けだった。
それでも誰も目を逸らさなかった。朝ならこの紙を嫌い、昼なら逃げるための言い訳に見えたかもしれない。今は違う。濡れた土の上に残った足跡が何を残して何を渡したかを先に見せていた。紙より先に土が教えていた。
「嫌な紙だ」
戻る口から声が落ちた。
「必要です」
「分かっている」
その返事は朝よりも低かった。怒っているのではない。飲み込んでいる声だ。
夜の火が本体の壁際で小さく残る。戻る口には置かない。そこはまだ空けておく場所だった。
火を囲めば人が集まり、口が狭くなる。暖かささえ置く場所を選ぶ。それがこの日の最後に残った決まりだった。
板の一番下に最後の行を書いた。
戻る口維持/追撃遅れ/損は選ぶ。
その行を見て控えを閉じる。
大きく勝たないまま初陣は終わった。
けれど次に必要なのは守るだけの紙ではなかった。守った数を次の形へ変える紙だった。まだ終わっていない。
相手に渡す損をこちらで選ぶ紙だった。
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