泥へ渡す車
同じ折り目の紙は日が傾く前にもう一枚来た。
戻る口詰まり/車は中央へ寄せろ。
今度は本体右からだった。紙の端には乾いた泥、折り目は二つ。字は前と違うが命じ方は同じだった。
怖い言葉を先に置き、車を動かし、最後に戻る口を狭くする。
「中央へ寄せるか」
戻る口から声が来る。
「寄せません」
板の上には前から決めていた順番がある。濡れ毛布は見せる/空袋は見せない/車腹は向けない/戻る口は中央に残す。
「では何を動かす」
「空車だけを横へ逃がします」
「荷車は」
「動かしません。動かすように見せます」
ガレスの目が細くなる。
「見せるための車か」
「はい」
「嫌な使い方だ」
「戻すためです」
南門から戻る空車は一台。荷台に残るのは泥だけだった。車輪の片側が少し沈む癖もすでに見ていた。中央へ入れれば口を塞ぎ、左へ逃がせば向こうから腹が見える。そこへ押し込めば車を止めたように見える。
止まっているのではなく、逃げる角度を作る。
板に短く書く。空車は左へ逃がす/濡れ毛布は右下へ見せる/空袋は底/粉麦は影/戻る口は中央。
メイナの筆が一度止まりすぐに写した。
「空車を見せて戻る車は通すのですね」
「はい」
「戻る車はどこを」
「中央の口です」
「狭いです」
「だから空車だけ左へ逃がします」
エルクの靴が戻る口の線を踏んだ。
「中央の口を開ける/左へ逃げる車を追うな/右三は動くな/弓二は足元だけを見る」
声が通り、本体前の兵たちの目が板と土へ落ちた。顔ではなく足を見る。誰が怖がっているかではなくどこが空いているかを見る。
北の段から負傷した兵が二人戻ってきた。片方は自分で歩け、もう片方は肩を借りている。車へ倒れ込みそうになったところを戻る口で受けた。
「車へ行くな。腕を借りろ」
その一声で車輪の前が空いた。
外側から土煙が近づく。右下の濡れ毛布の前で足音が鈍った。踏めば泥が跳ね、割れ盾が半分沈み、壊れた箱の角が見える。向こうはそこを避けて左へ寄る。
見えている通りに動いている。
「車の腹へ来ます」
偵察戻りの声が低い。
「来させます」
左へ逃がす空車の縄を車引きが握った。手は震えている。だが縄は落とさない。
「まだ」
ガレスが石の陰から車輪を見る。
「まだです」
向こうの足が濡れ毛布・割れ盾・壊れた箱を順に避けた。避けた分だけ左へ寄り、そこに空車の腹が見える。
「今」
空車が左へ逃げた。速くはない。逃げきるためではなく追わせるための速さだ。
向こうの前列が車腹へ寄った。泥の薄い場所へ足を入れ、次の一歩で深い跡へ落ちる。車を押すつもりの肩が空を押した。後ろから来た者が止まれず前の背へぶつかる。
倒れたのは二人、起こすために三人が止まった。さらに後ろの足が広がって濡れ毛布の前へ戻る。
「矢」
「足元だけ」
弓二人が低く射た。倒すためではなく膝の前へ落とす。踏めば止まり、避ければ広がる。どちらでも戻る口からは遠ざかる。
本体右の槍三は動かない。
「追うな」
エルクの声が右へ出かけた兵を止めた。
「今なら押せる」
「押すな。戻る口を空ける」
「逃げるぞ」
「逃げさせろ」
前へ出れば勝てそうに見える。だが前へ出た足は戻る者の道を塞ぐ。ここで欲しいのは勝ちではなく戻る数だ。
板に数字を足す。戻り四/車通過一/負傷二/右三維持/弓二維持/空車左逃げ成功/向こう停止五以上。
「五以上」
メイナが低く読む。
「倒れた二人だけではありません」
「起こす者も止まる」
「はい」
「後ろも詰まる」
「はい」
「こちらは」
「戻り四、通りました」
エルクがそこで一度だけ息を吐いた。
「なら勝ちに見えなくてもいい」
「はい」
勝ちに見えないことが本体前を守った。相手の足は濡れ毛布の前で乱れ、車腹を追って左へ流れた。中央の口には泥だけが残り、そこを北の段から戻る次の二人が通った。
見える勝ちは前へ出る足を呼び、見えない勝ちは戻る足を通す。今日必要なのは後者だった。
二人目の肩から白灰の袋が落ちかける。車へ投げ込まず腕を借りて線の内側へ入れた。荷と人を分け、戻る者と残す物も分ける。初めに決めたことを崩れかけた場でも繰り返す。
外側でまた声が上がった。
「中央が空いた」
向こうの声ではない。本体前の誰かが言いかけた声だ。
「空いたから塞ぐな」
エルクが返す。今度は怒鳴らない。戻る口に立ったまま手で土の線を示す。
「ここは空ける場所だ」
本体前の兵は中央へ寄らなかった。
南門からの返しが入る。車二予定どおり通過/火前一列維持/水桶戻し済み。
次に北の段から返し。戻り六/白灰二/火なし/追撃遅れ。
追撃遅れ。
その二語だけで本体前の兵が顔を上げた。喜ぶ声になれば足が前へ出る。前へ出れば戻る口が狭くなる。
板にすぐ書いた。追撃遅れ/前進なし/戻る口維持/空車回収なし/濡れ毛布捨て置き。
「空車を回収しないのか」
「しません」
「使える車だ」
「戻る口のほうが要ります」
ガレスが小さくうなずいた。
「車一台で向こうを五人以上止めた」
「車一台と濡れ毛布三枚です」
「細かい」
「次も数えます」
本体前の兵たちが笑うほどの余裕はない。けれど声が散らない。南へも右へも走らず、目の前の板へ戻る。
同じ折り目の紙は板の端で軽くなった。
命令ではなく罠の向きを教える紙になったからだ。
次に同じ折り目が来ても、声にせず足に渡さず、板の上で向きを変えられる。
その日の本体前は大きく勝たず、ただ戻る口だけは潰さなかった。
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