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追放された雑用係、敗戦処理の天才だった ~崩壊寸前の辺境領を立て直す~   作者: 山田鰻
第十八章 初陣は撤退戦

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走る足を止める紙

南から戻るはずのない兵が、本体前へ飛び込んできた。四度目の鈴は鳴らず、代わりにその足音が鳴っていた。


片手に空袋を抱え、もう片方の手で肩を押さえている。傷ではない。人を押しのけて走った手だ。


「火前が倒れた」


その声だけで、戻る口の近くにいた二人が振り向いた。車引きが縄を持ち直し、矢束を抱えた兵が半歩だけ南へ戻ろうとする。


エルクが戻る口から動かず、槍の柄で土を叩いた。


「止まれ」


足は止まった。だが、目は南へ向いたままだ。


「火前だぞ」


「見たのか」


エルクが聞く。兵の喉が動いた。


「聞いた」


前の誤報と同じ形だった。紙ではなく声になっただけだ。聞いたものが走り、走ったものを見た者がもっと悪い形に直していく。


板の端に新しい欄を作った。見た声/聞いた声/走った足。三つに分ける。


「火前が倒れたと見た者」


誰も手を上げない。


「火が消えたと見た者」


答えはない。


「南門の車が止まったと見た者」


車引きの一人が、縄を握ったまま口を開いた。


「車は、まだ入っています。ただ、早く返せと叫ばれました」


「誰に」


「南の列です。名は聞いていません」


メイナが板へ写す。火前倒れは確認なし。火消えも確認なし。南門車は進入あり。早返しの声は持ち場未確認。


本体前の兵たちが紙を見る。叫んだ声より遅い。けれど遅い分だけ形がある。


「南が崩れたら、本体前も終わりだ」


槍を持つ兵が言った。声が高い。怒りではなく、逃げる前の声だ。


「終わる順番を書きます」


レインが板の下を空けた。


南門が止まる/本体前の車が詰まる/戻る口が塞がる/北の段から戻る者が倒れる/火前へ人を戻しすぎる。


「今起きているのは」


指で順に消す。


「南門の車は入っています。本体前の車も詰まっていません。戻る口も空いています。北から戻った者も、まだここへ入れます。起きていないものを先に怖がれば、起きている場所を壊します」


息の荒かった兵が槍を握り直した。


「なら、火前は」


「返しを待ちます。見た者だけ」


「待つ間に燃えたら」


ガレスが石の陰から顔を上げた。


「燃えていたら煙が変わる」


「煙など見えない」


「見えないなら見たと言うな」


短い言い方に兵が歯を食いしばった。だが南へ走らない。


恐慌は声より先に足へ入る。足へ入れば荷が落ち、荷が落ちれば車が止まる。車が止まれば戻る者が潰れる。だから、まず足を止める。


板に次の指示を入れた。南へ走る者は本体前で止める/火前確認は見た者のみ/車引きは縄を離すな/矢束は左から動かすな。


「縄を離すな」


エルクが読み上げた。


車引きが縄を握り直す。手が震えている。だが、縄は落ちない。


「矢束、左から動かすな」


弓のそばにいた兵が抱え直した矢束を元の位置へ戻した。


「南へ走る者、本体前で止める」


エルクの声が、そこで少し低くなる。


「俺の前を通るな。火を見た者だけ通す。聞いただけの者は、ここで止まれ」


戻る口の外側に、人の線ができた。逃げる線ではない。止める線だ。


南門から返しが来たのは、息が二つ詰まったあとだった。紙を持った兵は走っていない。泥のついた足で、早歩きのまま本体前へ入る。


火前一列維持/車二通過/水桶一倒れ/火は残りあり。


「水桶」


メイナが読み上げた。


「倒れたのは火前ではなく、水桶です」


本体兵の肩が落ちる。安堵ではない。走りかけた体が、ようやく自分の重さを思い出しただけだ。


「水桶一つで、ここまで動くのか」


エルクが吐き捨てる。


「動きます」


「嫌なものだな」


「はい」


「次は、もっと悪い形で来る」


その見方は正しい。恐慌は一度止まっても同じ口では来ない。火で止められなければ負傷者で来る。負傷者で止められなければ道で来る。


数字を足した。南へ走った者三/戻した者三/車から離れかけた者二/矢束移動しかけ一/実害まだなし。


数字にすると恐れの幅が見えた。全員が走ったわけではない。車列全部が離れたわけでもない。矢束一つなら戻せる。水桶一つなら立て直せる。板の上では壊れかけたものが、まだ数えられる形に戻っていた。ここで止めれば、次の声にも同じ形で当たれるはずだった。


「まだなし」


本体兵がそこだけを読んだ。


「まだ、です」


「次を止めろということか」


「はい」


エルクが戻る口の線を靴で削り、土に跡を深くした。


「ここから南へ行く者は見た者だけだ。聞いた者は板へ行け。走った者は先に息を整えろ」


「息を整えてから報告ですか」


「息が荒い報告は、半分声で半分恐れだ」


ガレスが小さく笑った。


「いい言い方を覚えた」


「今は黙れ」


笑いは広がらない。けれど戻る口の近くにあった硬さが少しだけ割れた。兵たちが南ではなく板と足元を見る。


そこへ、もう一枚の紙が来た。


持ってきたのは、北の段から戻る兵だった。南からではない。


「本体右へ回せ、と」


紙には、短く書いてあった。


火前危うし/車は南へ戻せ。


メイナの筆が止まる。


「南門からの紙ではありません」


「北から来た」


エルクが低く言う。


「南の話が、北から来たのか」


紙の端を見る。泥は乾いている。いま走ってきた紙ではない。折り目が二つ、古い。


「保留」


板の下に書く。火前危うし、北から到着/南門返しと不一致/車は動かさない。


「動かさない」


エルクが本体兵へ向けて声を張った。


「南へ戻す車はない。戻る口を空ける。北から戻る者を受ける」


車引きが縄を引き、車輪を中央から外す。矢束は左に残る。水桶一つの恐慌は本体前の口を潰さなかった。


だが板の下に残った紙だけが軽くならない。


南で倒れた水桶の話が北から来た。


恐慌は止まった。けれど声の出どころはまだ止まっていない。


同じ言い回しで別の口から来ていた。

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