走る足を止める紙
南から戻るはずのない兵が、本体前へ飛び込んできた。四度目の鈴は鳴らず、代わりにその足音が鳴っていた。
片手に空袋を抱え、もう片方の手で肩を押さえている。傷ではない。人を押しのけて走った手だ。
「火前が倒れた」
その声だけで、戻る口の近くにいた二人が振り向いた。車引きが縄を持ち直し、矢束を抱えた兵が半歩だけ南へ戻ろうとする。
エルクが戻る口から動かず、槍の柄で土を叩いた。
「止まれ」
足は止まった。だが、目は南へ向いたままだ。
「火前だぞ」
「見たのか」
エルクが聞く。兵の喉が動いた。
「聞いた」
前の誤報と同じ形だった。紙ではなく声になっただけだ。聞いたものが走り、走ったものを見た者がもっと悪い形に直していく。
板の端に新しい欄を作った。見た声/聞いた声/走った足。三つに分ける。
「火前が倒れたと見た者」
誰も手を上げない。
「火が消えたと見た者」
答えはない。
「南門の車が止まったと見た者」
車引きの一人が、縄を握ったまま口を開いた。
「車は、まだ入っています。ただ、早く返せと叫ばれました」
「誰に」
「南の列です。名は聞いていません」
メイナが板へ写す。火前倒れは確認なし。火消えも確認なし。南門車は進入あり。早返しの声は持ち場未確認。
本体前の兵たちが紙を見る。叫んだ声より遅い。けれど遅い分だけ形がある。
「南が崩れたら、本体前も終わりだ」
槍を持つ兵が言った。声が高い。怒りではなく、逃げる前の声だ。
「終わる順番を書きます」
レインが板の下を空けた。
南門が止まる/本体前の車が詰まる/戻る口が塞がる/北の段から戻る者が倒れる/火前へ人を戻しすぎる。
「今起きているのは」
指で順に消す。
「南門の車は入っています。本体前の車も詰まっていません。戻る口も空いています。北から戻った者も、まだここへ入れます。起きていないものを先に怖がれば、起きている場所を壊します」
息の荒かった兵が槍を握り直した。
「なら、火前は」
「返しを待ちます。見た者だけ」
「待つ間に燃えたら」
ガレスが石の陰から顔を上げた。
「燃えていたら煙が変わる」
「煙など見えない」
「見えないなら見たと言うな」
短い言い方に兵が歯を食いしばった。だが南へ走らない。
恐慌は声より先に足へ入る。足へ入れば荷が落ち、荷が落ちれば車が止まる。車が止まれば戻る者が潰れる。だから、まず足を止める。
板に次の指示を入れた。南へ走る者は本体前で止める/火前確認は見た者のみ/車引きは縄を離すな/矢束は左から動かすな。
「縄を離すな」
エルクが読み上げた。
車引きが縄を握り直す。手が震えている。だが、縄は落ちない。
「矢束、左から動かすな」
弓のそばにいた兵が抱え直した矢束を元の位置へ戻した。
「南へ走る者、本体前で止める」
エルクの声が、そこで少し低くなる。
「俺の前を通るな。火を見た者だけ通す。聞いただけの者は、ここで止まれ」
戻る口の外側に、人の線ができた。逃げる線ではない。止める線だ。
南門から返しが来たのは、息が二つ詰まったあとだった。紙を持った兵は走っていない。泥のついた足で、早歩きのまま本体前へ入る。
火前一列維持/車二通過/水桶一倒れ/火は残りあり。
「水桶」
メイナが読み上げた。
「倒れたのは火前ではなく、水桶です」
本体兵の肩が落ちる。安堵ではない。走りかけた体が、ようやく自分の重さを思い出しただけだ。
「水桶一つで、ここまで動くのか」
エルクが吐き捨てる。
「動きます」
「嫌なものだな」
「はい」
「次は、もっと悪い形で来る」
その見方は正しい。恐慌は一度止まっても同じ口では来ない。火で止められなければ負傷者で来る。負傷者で止められなければ道で来る。
数字を足した。南へ走った者三/戻した者三/車から離れかけた者二/矢束移動しかけ一/実害まだなし。
数字にすると恐れの幅が見えた。全員が走ったわけではない。車列全部が離れたわけでもない。矢束一つなら戻せる。水桶一つなら立て直せる。板の上では壊れかけたものが、まだ数えられる形に戻っていた。ここで止めれば、次の声にも同じ形で当たれるはずだった。
「まだなし」
本体兵がそこだけを読んだ。
「まだ、です」
「次を止めろということか」
「はい」
エルクが戻る口の線を靴で削り、土に跡を深くした。
「ここから南へ行く者は見た者だけだ。聞いた者は板へ行け。走った者は先に息を整えろ」
「息を整えてから報告ですか」
「息が荒い報告は、半分声で半分恐れだ」
ガレスが小さく笑った。
「いい言い方を覚えた」
「今は黙れ」
笑いは広がらない。けれど戻る口の近くにあった硬さが少しだけ割れた。兵たちが南ではなく板と足元を見る。
そこへ、もう一枚の紙が来た。
持ってきたのは、北の段から戻る兵だった。南からではない。
「本体右へ回せ、と」
紙には、短く書いてあった。
火前危うし/車は南へ戻せ。
メイナの筆が止まる。
「南門からの紙ではありません」
「北から来た」
エルクが低く言う。
「南の話が、北から来たのか」
紙の端を見る。泥は乾いている。いま走ってきた紙ではない。折り目が二つ、古い。
「保留」
板の下に書く。火前危うし、北から到着/南門返しと不一致/車は動かさない。
「動かさない」
エルクが本体兵へ向けて声を張った。
「南へ戻す車はない。戻る口を空ける。北から戻る者を受ける」
車引きが縄を引き、車輪を中央から外す。矢束は左に残る。水桶一つの恐慌は本体前の口を潰さなかった。
だが板の下に残った紙だけが軽くならない。
南で倒れた水桶の話が北から来た。
恐慌は止まった。けれど声の出どころはまだ止まっていない。
同じ言い回しで別の口から来ていた。




