早すぎる鈴
三度目の鈴は、まだ鳴るはずのない時刻に鳴った。
本体前の土にいた者の肩がこわばった。音が一つ早いだけで、荷を捨てる順番も戻る車の向きも狂う。
本体前の兵が一斉に顔を上げる。右下には濡れ毛布三枚/割れ盾二つ/壊れた箱一つ。戻る口は中央に空けたまま、弓は左、槍は右へ寄せてある。形は崩れていない。
それでも、鈴だけが早い。
「右が抜かれた」
北の段から来た兵が泥のついた紙筒を差し出した。
「本体右、抜かれた。戻る口へ寄るな。右へ槍を集めろ、と」
本体兵の一人が槍を持ち直した。右へ動こうとする足を、エルクが止める。
「まだ動くな」
「右が抜かれたんだぞ」
「紙を見てからだ」
エルクの声は荒くなかった。だが、戻る口から一歩も動かない。右へ行きたい体を、そこに置いている。
紙筒を開くと、字が荒かった。紙の端は濡れているが、走ってきた泥ではない。水たまりへ落とした泥だ。
右抜かれ/槍右へ/戻る口閉じろ。
「誰が見た。どこを」
「北の段の下からです。右下の荷捨て場を」
「何を見て、抜かれたと書いた」
兵が口を閉じかけた。すぐに言い直す。
「土煙です。右下の荷の向こうに、土煙が立ちました」
右下の荷。濡れ毛布・割れ盾・壊れた箱。そこは、敵側の足を寄せるために作った場所だ。土煙が立つなら予定通りの可能性がある。
「戻る口を閉じろ、と誰が書いた」
「本体右の伝令だと聞きました」
「聞いた」
メイナが本体前用の板にそのまま写す。右抜かれは確認未了。見た者は北の段下。見た物は土煙。戻る口閉鎖は出所未確認。
本体兵の足が止まった。
「出所未確認まで書くのか」
「書きます」
板の上に別の行を足した。誤報の可能性/戻る口は閉じない/槍は右三のまま/弓は左二のまま/確認は右下荷捨て場。
「右が本当に抜かれていたら」
本体兵が言う。
「戻る口を閉じると、北の段から戻る者が詰まります」
「詰まっても抜かれるよりは」
「詰まれば、本体前が崩れます」
エルクが横から言った。
「右へ槍を集めるな。三のままでいい」
本体兵がエルクを見る。
「お前は右へ行かないのか」
「戻る口だ」
槍を持つ兵の足が止まった。エルクが右へ走らないなら、自分だけ走る理由も弱くなる。
ガレスが右下へ目を細めた。
「毛布が乾いてきたな」
「乾くと?」
「踏まれた時、泥が跳ねる。さっきより高く見える」
土煙ではなく、泥の跳ねかもしれない。荷捨て場に足がかかったのは事実だ。けれど、右が抜かれたとは限らない。
確認用の紙を二つに分けた。
北の段へは、土煙の高さではなく進んだ位置を見るように書く。白灰の手前か奥かだけ返せばいい。
本体右へは、戻る口閉鎖の指示を出した者を確認させる。名はいらない。どの持ち場から来た紙かだけ返す。
「名はいらないのか」
メイナが聞く。
「今は、持ち場です」
名前を書かせれば遅れる。責める相手を探せばもっと遅れる。今必要なのは右が抜かれたかどうかと、戻る口を閉じろという指示がどこから出たかだけだ。
ルシアから南門の返しも届いた。戻る車一、予定より早く上がる。半食維持。火前乱れなし。
「戻る車が早い」
エルクが言った。
「だから、戻る口は閉じません」
「閉じたら、車も詰まる」
「はい」
「右が抜かれていたら」
「右三で受けます。足りなければ、荷をもう一つ落とします」
「何を。空袋は戻す物だろう」
「戻る口を守るほうが先です」
エルクが短くうなずいた。
「分かった。空袋は最後の荷だ」
板へ、空袋束は最後の荷と書く。右下へ落とす場合も戻る口は残す。
本体兵の目が板へ集まった。右へ走れという声より、目の前の紙のほうが強くなる。紙が強いのではない。紙に今動かす順番があるからだ。
北の段から返しが来た。白灰は手前/荷捨て場で足止まり/奥へ抜けなし/右は未突破。
「未突破」
本体兵が息を吐いた。
エルクがすぐに言う。
「息を抜くな。まだ止まっただけだ」
「はい」
「右三のまま。弓は左のまま。戻る口を空ける」
言い終えると、エルクが板を見た。声と紙が合っているか確かめている。
本体右からの返しは少し遅れて届いた。戻る口閉鎖の紙は持ち場不明/右へ槍集めは確認なし/伝令は聞き渡し。
「聞き渡し」
メイナが低く繰り返した。
誰かが見たのではなく、誰かが聞いたことを渡した。聞いた者が急いで紙にした。急いだ分だけ右が抜かれたことになり、戻る口を閉じることになった。
「誤報ですか」
本体兵が聞いた。
「今は、誤報として扱います」
板へ書く。右突破は誤報扱い/戻る口維持/右三維持/聞き渡し紙は以後停止/見た者だけ紙を出す。
「見た者だけ」
エルクが言った。
「聞いた者は、口で伝える。紙にしません」
「紙になれば、命令になる」
「はい」
「なら、紙にする前に止める」
「そうです」
エルクが本体兵へ向き直った。
「聞いた紙を持ってきた者は責めるな。次から止めろ。見た者だけを走らせる」
本体兵がうなずく。
右下で、濡れ毛布の上にまた泥が跳ねた。土煙は立つ。だが、もう誰も「抜かれた」と叫ばない。
戻る車が南から入り、中央の口へ近づく。
エルクが手を上げた。
「中央へ入るな。左から回せ。戻る口は空ける」
車輪が左へ寄る。負傷者を乗せる場所が残る。北の段から次に戻る者の足も残る。
本体前の形は、崩れなかった。
最初の誤報は、濡れ毛布三枚と割れ盾二つの前で止まった。
止まっただけで消えたわけではない。聞き渡しはまた別の声で来る。別の紙で来る。だから今止めた形を残す必要があった。次に走る足を、少しでも早く紙へ戻すためだ。誤報を笑って終わらせれば、次の誤報はもっと速く本体前へ入ってくる。紙は足より先に置かなければならない。ここで覚えさせる必要があった。
板の端に、小さく一行を足す。
早すぎる鈴は、まず紙を疑う。
その行を見て、メイナが同じ文を控えに写した。




