本体前の線
本体前の土は、道倉の台より柔らかかった。
車輪の跡は深い。人の足跡はその上を何度も踏み替えている。北から下りる者も南へ戻る者も矢束や空袋を抱えた者も同じ道へ集まり同じ場所で詰まろうとしていた。遠くで鳴る声より近くで軋む車輪のほうが切迫して聞こえる。足元の詰まりは前の崩れより先に広がる。
最初に見たのは前ではない。戻る口だった。槍先の並びより先に車が向きを変えられる幅と、負傷者が膝をつける乾いた土を探す。ここで詰まれば、前にいる兵まで後ろへ押される。
本体前の左、土が少し高い場所。そこに空きを作れば北の段から戻る者が止まれる。止まれれば次の車へ渡せる。渡せれば道倉へ流せる。
「ここを戻す場所にします」
エルクが剣の柄ではなく地面を見た。
「ここか」
「はい。前ではなく、戻す場所です」
「分かっている」
返事は短い。だが足は前へ出なかった。本体前の兵を見て、次に戻る口の空きを見る。
「誰を置く」
「歩ける兵を二人。担ぐ者ではなく止める者です」
「止める」
「戻った者が、そのまま車へ倒れ込まないように」
うなずきが返る。
「車の前で倒れたら車が止まる。止まれば後ろも止まる」
「はい」
戻す場所の意味が、そこで少しだけ固まった。
本体前の兵たちはまだこちらを見慣れていない。紙を持つ者が戦場の土へ来た。その違和感は視線の端に残っている。だが誰も口には出さない。撤退戦の紙は、すでに本体へ届いている。ここからは口の強さではなく、紙の行が先に通る。
メイナが板を抱えて追いついた。道倉の台より小さい板だ。膝の上でも書けるよう、紐で吊れる穴がある。
「本体前用です」
「置ける場所は」
「あの杭の横なら、雨を少し避けられます」
ガレスが火種を包んだ小箱を持っていた。
「箱はここへ置くな」
「なぜですか」
「戻る者が蹴る。火は本体寄りだ」
火種の箱は、本体の壁に近い石の陰へ移された。戻る口には置かない。戻る者が最初につかむのは火ではなく、人の腕でいい。
古い体裁の紙を板の上に広げた。上げる物/下ろす者/残す物/戻る車/空で返さぬ車/止める車。その下へ本体前用の行を足す。道倉の台で見ていた線を、今度は泥の上で使う。
戻す場所/受ける線/捨てる荷。
「捨てる荷」
エルクがその行だけを読んだ。
「ここで捨てるのか」
「ここで決めます。捨てる場所は、もう少し後ろです」
「前で捨てれば相手に渡る。後ろで捨てれば車が軽くなる」
「はい」
「捨てる物を間違えれば戻る車が止まる」
視線が、板から荷車へ移った。
車は二台。ひとつは空袋と濡れ毛布を積んでいる。もうひとつは、矢束と粉麦を本体へ渡した帰りだ。どちらも荷台の底に泥がついていた。
北の段から、最初の戻りが見えた。見張り二。歩行遅い一。置いてきたはずの白灰の袋を、今度は背に負って戻ってきた。火なし。
「予定どおりです」
そのまま板へ入る。
エルクが戻る口へ歩いた。
「止まれ。車へ寄るな。先に腕を貸せ」
声が通る。
戻った見張りが反射で車へ向かいかけ、エルクの声で止まった。歩行遅い兵の肩を脇にいた二人が受ける。車の前ではなく、戻す場所の線の内側だった。
「そこへ座らせるな」
「座れば立てない。膝をつかせる。水は少し」
ガレスが目を細める。
「覚えが早い」
「うるさい」
言い返しながらも手は止まらない。歩行遅い兵の足から泥を払わせ、白灰の袋を別の兵へ渡す。人と荷を分ける。戻す者と残す物を分ける。昨日まで紙の上でしていたことを、今は土の上でしている。
板に線を引く。戻す者三/白灰回収/火は残しなし/北の段は無人化へ。
「無人化」
本体兵の一人が声を落とした。
「本当に北の段を空けるのか」
「夕までに」
「まだ見える場所です」
「見えます。だから戻します」
「見えるなら置ける」
「置けば戻せなくなります」
その兵は黙った。納得ではない。けれど目の前で戻った三人が息を整えている。紙だけなら疑えたことも、泥のついた足が横にあると疑い方が変わる。
ミリアからの返しが、南から届いた。
南門は半食継続/止める車二/戻し時刻厳守/負傷者受けは火前一列。
「南門は持ちます」
メイナの声が返しを読む。
「持たせます」
返しの紙を本体前用の板に重ねる。
「戻る車を空で返さない。次は濡れ毛布と空袋、それから歩ける兵の荷を載せます」
エルクが振り返る。
「歩ける兵の荷?」
「本人は歩かせます。荷は車へ。兵は嫌がります」
問いが重なる。剣は。粉麦袋は。毛布は。弓は。板を見たまま順に返した。剣は持たせる。粉麦袋は下ろす。濡れ毛布は捨てる荷へ、乾いていれば車へ。弓は使える者に残す。
エルクが息を吐いた。
「嫌な分け方が増えたな」
「本体前では、増えます」
「分かった」
短く言って、戻す場所へ戻った。
本体前の兵たちはそのやり取りを聞いていた。紙を持つ者が、前を見ずに荷・足・車を見ている。だが戻る口は詰まっていない。北の段から戻った三人は、車の前で倒れていない。
土煙は、まだ丘の向こうだった。
メイナが次の欄を読み上げる。
「本体前の受ける線。槍三は右。弓二は本体寄り。戻る口は空ける」
「槍を右へ。弓は本体寄り。戻る口へ立たせない」
本体兵が動く。槍を持つ三人は右へ寄り弓二人は壁に近い場所へ下がる。たった五人の位置が変わっただけで戻る口の土が見えた。土が見えればそこへ人を通せる。人を通せれば車を止めずに済む。
その空きを見てから、戻る口に声が落ちた。
「ここに、俺が立つ。戻る者を車へ行かせない。前へ出そうな兵もここで止める」
「はい」
「斬りに行きたくなったら」
ガレスが口を挟んだ。
「自分の足を見ろ。戻る口から動いていたら負けだ」
エルクが顔をしかめる。
「本当に嫌な役だ」
「合っている。余計だ」
その短いやり取りのあと、戻る口の線に立った。剣は抜かない。土を見る。人を見る。車を見る。前ではなく、戻る場所を見る。
板の一番上に新しい行を書いた。本体前/撤退戦運用開始/戻す場所はエルク/紙は現場発行。
その行を書き終えた時、丘の向こうで土煙が薄く見えた。
まだ敵の姿はない。旗もない。名もない。ただ、土だけが近づいてくる。
本体前の初陣は、剣を抜く前に戻る口を空けることから始まった。
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