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追放された雑用係、敗戦処理の天才だった ~崩壊寸前の辺境領を立て直す~   作者: 山田鰻
第十七章 敵より先に飢える兵たち

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引きながら戦う紙

「戻る影なし」


エルクがその行だけをもう一度読んだ。


北の段の報告は、前より短い。土煙二つ、一つは浅い沢へ、もう一つは本体の見える線へ。見張り継続困難。


「向こうは戻らない」


「はい」


古い体裁の紙を台へ広げた。上げる物/下ろす者/残す物/戻る車/空で返さぬ車/止める車。その右へ、昨日から作っていた欄を置く。


引く時に残す物。


ミリアが紙を見た。


「ここで決めるのですね」


「はい」


「北の段を」


「守る場所から、引くための場所へ変えます」


台の端で、乾き縄がかすかに鳴った。


その音が消えても、誰も動かなかった。北の段は、第一砦を捨てると決めた時から残してきた線だ。砦を捨てても、道倉と本体の間をつなぐ目として二名を置き続けた。


その場所を、今度は持ち場ではなく戻るための段に変える。


「捨てるのか」


エルクの声は荒くない。


「使い切らないために下げます」


「同じに聞こえる」


「違います。捨てるなら見ません。下げるなら見たあとで戻します」


ガレスが台の端の乾き縄を押さえた。


「人も縄も、最後まで張れば切れる」


「切れる前に戻す」


「そうです」


北の段の欄を分ける。戻す者は見張り二と歩行遅い一。残す物は白灰/細縄/踏み跡板/空桶/濡れ毛布。


「濡れ毛布を残すのか」


「使えません。置けば急いで引いたように見えます」


「人を包む物だ」


「乾いた毛布は戻します」


「濡れたほうだけ」


「はい」


嫌な分け方だ。けれど、もうその言葉は出なかった。嫌な分け方で人が戻ることを、昨日見ている。


戻す者の欄が太く引かれた。見張り二/歩行遅い一/負傷者二は下ろし途中/肩傷一は本体から。


「全員同じ車には乗りません」


「分かっている。先に歩けない者だ」


「はい」


「次に肩傷」


「はい」


「歩ける者は最後まで歩かせる」


「言い方が悪い」


「でも、順番は合っています」


ミリアが筆を取った。


「言い方は紙で直します」


歩ける者は自力移動。車は負傷者優先。


ルシアが商隊紙を台に置いた。


「南門の止める車を一台、戻る車に変えます」


「南門は」


「火前を半食のまま維持。布商の車は止めたまま。穀商の一台を道倉戻りに変えます」


「粉麦は」


「南門に残す袋を減らします」


ミリアがルシアを見る。


「民の分を削るのですね」


「はい。今夜だけさらに薄くします。明朝分は別車を探します」


「確約は」


「ありません」


確約なし。それでも条件を書けば動かせる車がある。条件を書かなければ、確約なしのまま消える。


車列欄へ書いた。上げる車は本体へ矢束一/粉麦今夜分/乾き弓弦。下ろす車は負傷者二/空袋/束紐。戻る車は北の段見張り二/歩行遅い一。止める車は南門半食継続。引く時に残す物は白灰/細縄/踏み跡板/濡れ毛布/空桶。


「火は」


ガレスが聞いた。


「火種は本体へ寄せます。北の段には残しません」


「火のない段になる」


「はい」


「夜は持たん」


「夜まで持たせません」


夜まで持たせない。つまり北の段は今日のうちに下げる。見張りを残して夜を迎えない。守る時間を短くし、戻る時間を長く取る。


エルクが台に両手を置いた。


「本体は、これで受けられるのか」


「受けるしかありません」


「受けられなければ」


「次は、本体前の線も引きます」


「そこまで言うのか」


「隠せません」


目の前の紙には勝つための言葉がない。あるのは減らす/薄くする/戻す/残す/引く。どれも兵の胸を熱くしない。けれど、どれも誰かを生かすために必要だった。


「撤退戦に入る」


ミリアが言った。


言葉だけが、道倉の台に置かれた。


「北の段を下げ、本体前で受けます。受けながら負傷者と車を戻す。矢と粉麦は本体へ寄せる。南門は半食で持たせる」


一字ずつ写されていく。撤退戦。北の段は夕までに下げる。本体前で受ける。負傷者を戻す。車は空で返さない。南門は半食。


「撤退戦」


エルクがその字を見た。


「負けたから引くのではなく」


「負けないために引きます」


「言い方はまだ嫌いだ」


「はい」


「だが今はそれで動かす」


「はい」


ミリアが署名した。


赤い紐を結ぶ前に、ルシアが商人向けの紙を差し出す。


「商人には撤退戦とは書きません」


「何と書く」


「道倉戻り強化。南門止め継続。北行き車は領指示のみ」


「怖がらせないためか」


「違います。余計な言葉で車を止めないためです」


ミリアがうなずいた。


「それで」


短い紙へ書き直される。道倉戻り強化/南門止め継続/北行き車は領指示のみ/荷損は領で見る/戻し時刻厳守。


「本体向けは」


「撤退戦と書きます」


ミリアの声は変わらない。


「現場に隠してはいけません」


ガレスが火種の箱を閉じた。


「本体へ送る火種は小分けにしろ。一箱で送るな。落とせば終わる」


「三つに分けます」


「二つは本体。ひとつは戻る車へ」


「戻る車へも?」


「負傷者が冷える」


火種の行が直された。三分。本体へ二、戻る車へ一、北の段に残しなし。


「北の段に火を残さない」


「はい」


「本当に下げるんだな」


「下げます」


「分かった」


その返事は軽くなかった。けれど反発でもなかった。


戸口で、北の段へ向かう兵が赤い紐の紙を受け取る。


「北の段へ。見張りは夕まで。火は残さない。白灰と細縄を置く。人は戻す」


兵がうなずく。


「本体へ。撤退戦に入る。本体前で受ける。負傷者を戻す。矢と粉麦を寄せる」


本体へ向かう兵の顔が強ばる。だが、紙は受け取った。


「南門へ。半食継続。道倉戻り強化。止める車は逃がさない」


ルシアが最後の言葉だけ商人向けから削った。


「逃がさない、は書きません」


「何と」


「戻し時刻厳守で足ります」


エルクが短く息を吐いた。


「同じことを違う言葉で動かす」


「相手が違います」


「面倒だ」


「はい」


「だが車は動く」


ルシアがうなずいた。


外で、三つの足音が別々の方向へ走らずに速く離れていく。北の段へ。本体へ。南門へ。


道倉の台には、古い体裁の紙と新しい撤退戦の紙が重なって残った。


「次は、俺がどこに立てばいい」


本体前の線を指した。


「ここです」


「前ではないのか」


「前へ出す兵を戻す場所です」


「斬るためではなく」


「戻すためです」


エルクが目を閉じるように一度まばたきをした。


「分かった。戻す場所に立つ」


筆が先に動いた。


土煙は、まだ見えない。


だが、道倉の車輪は先に動く。


味方は不利なまま、引きながら戦うための一歩を踏み出した。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


少しずつ読んでくださる方が増えていて、とても励みになっています。

リアクションやブックマークも本当にありがたいです。


もし続きが気になる、面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。


次回も楽しんでいただけるよう頑張ります。

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