俺には分からない
本体までの猶予は、半刻縮んでいた。
三度の鈴に続いた北の段の報告には、土煙早まる/浅い沢に車輪跡増/第一砦再入なしとある。
紙の端に、泥が点のように飛んでいる。走らずに来た兵の紙だ。それでも半刻という字だけが息を切らしていた。
「半刻」
エルクが低く読んだ。
「距離があるうちに、では足りない」
「はい」
古い体裁の紙を台へ戻した。上げる物/下ろす者/残す物/戻る車/空で返さぬ車/止める車。その下へ新しい欄を足す。
引く時に残す物。
「引く?」
「まだ決めません」
「書いたぞ」
「決めるために、先に欄を作ります」
エルクは紙をにらんだ。怒りより先に嫌悪がある。引くという字は、剣を抜くよりも重い。
戸口から、北方砦本体の紙が入った。
負傷者四/歩行不可二/歩行遅い一/肩傷一、弓不可。矢束残り一/粉麦夕まで/飼葉今夜なし/火種半。
「四人」
ミリアが紙の端を押さえた。
「二人ではない」
「増えています」
下ろす者の欄が広がる。負傷者四/歩けない二/遅い一/肩傷一。
「車は」
「今すぐ戻せるのは二台です」
ルシアが答えた。
「一台は炭商。もう一台は空荷。ただし空荷は南門の粉麦を受ける予定でした」
「下ろしに使えば」
「南門の粉麦が止まります」
「粉麦を優先すれば」
「歩けない二人のうち、一人が残ります」
エルクの手が台に落ちた。
「残すな」
「では、粉麦が止まります」
「粉麦はあとでいい」
火の横からガレスの声が来た。
「あとで、がない時もある」
「人だぞ」
「飯も人だ」
間違っていない。だから腹が立つ。負傷者を下ろしたい。だが粉麦を止めれば南門の火前が痩せる。南門が痩せれば、道倉へ上げる人の手が減る。人を助ける車で、人を飢えさせる。
ルシアが商隊紙を一枚めくった。
「止める車をさらに一台、下ろす車へ変えられます」
「代わりは」
「布商の車です。雨が上がれば使えます」
外の雨は、まだ細く続いている。
「上がらなければ」
「使えません」
「なら数に入れるな」
「条件つきとして入れます。入れなければ、雨が上がった時に使えません」
「条件を書いて」
新しい欄ができる。布商は雨止み後、下ろす車へ変更可。雨続きなら南門止め。
「これでも、四人全員は無理です」
下ろす者の欄を指で分ける。第一便は歩行不可一。第二便は歩行不可一と肩傷一。歩行遅い一は北方砦本体で待機。
「歩行遅い者を残すのか」
「歩けます」
「遅いと書いてある」
「歩けない者よりは動けます」
「肩傷は」
「弓不可です。下ろします」
「弓が使えないからか」
「本体で残す矢が少ないからです。弓を持てない者を置くと、食と火だけが減ります」
言い返すための息を、エルクが吸った。だが、出てこなかった。
矢束残り一/粉麦夕まで/飼葉今夜なし/負傷者四。どの行も誰かを責めるために書かれていない。だから逃げ場がない。
「矢束を上げる」
「一本だけ、本体へ」
「残りの車は」
「負傷者」
「粉麦は」
「……南門で薄くする」
「飼葉は」
飼葉。馬が動かなければ車は戻らない。車が戻らなければ負傷者も粉麦も矢束も動かない。敵より先に減るものは、また一つ増えた。
「飼葉を止めれば、車が死ぬ」
ガレスが言った。
「馬は兵より先に倒れる。倒れたら、起こす紙はない」
エルクが両手で台を押さえた。
「では、どうしろと言う」
「聞く相手を間違えるな」
ガレスの顎がこちらへ向く。
エルクがゆっくり顔を向けた。目にはまだ怒りがある。けれど怒りだけではない。粉麦と矢と飼葉と負傷者が、全部同じ台の上にある。剣で払えるものが一つもない。
「俺には分からない」
道倉の火が低く鳴った。
「どれを先に動かせば、誰が残るのか。どれを残せば、次に何が止まるのか。俺には分からない」
言い切ってからも、視線を逸らさなかった。
「お前が決めろ」
その声は降参ではなかった。責任を投げる声でもない。自分の手で決められないことを認め、それでも動かすための声だった。
「決めるのはミリア様です。動かし方は、出します」
ミリアが小さくうなずいた。
「出して」
台の上で、三本の線が引き直される。
上げる物は矢束一本を本体へ/飼葉半束を炭商戻りで/火種を北の段へ小分け。下ろす者は歩行不可一を第一便/歩行不可一と肩傷一を第二便/歩行遅い一は本体待機。残す物は粉麦今夜分のみ本体/北の段は矢追加なし/道倉は火種半分。
止める車は南門で粉麦を薄くする。布商は雨止み待ち。空で返さぬ車は炭商に飼葉半束、空荷に負傷者二。
「粉麦が薄い」
「はい」
「北の段に矢を足さない」
「はい」
「歩ける者を待たせる」
「はい」
「全部、嫌な返事だ」
「はい」
「だが、全部動く」
「動きます」
ミリアがその行を見て署名した。
「不足を隠さずに出します」
写しが三つに分けられる。領内用/商人向け/本体向け。商人向けの言葉が削られ、飼葉と火種の行だけが見直された。
「炭商に飼葉を頼むのか」
ガレスが聞いた。
「炭の匂いがつきます」
「馬は嫌がるか」
「嫌がるかもしれません。でも、今夜なしよりはましです」
「それを書け」
欄に一行が足された。飼葉、炭臭あり。今夜用のみ。
「こんなことまで」
エルクがつぶやいた。
「馬が食わなければ、紙の上では足りていても、道では足りません」
また台を見た。
紙の上で足りているふりをしない。人にも、飯にも、馬にも。
戸口の兵が赤い紐を受け取る。
「本体へ」
「走らない。だが、今度は遅らせない」
ミリアの声で、兵がうなずいた。
「北の段へは」
「火種小分けと、矢追加なしの紙を」
「南門へは」
「半食と、布商雨待ち」
三つの紙が同時に出る。
道倉の外で車輪の音が重なった。炭商の車/空荷の車/南門で止める布商の車。動くものと動かないものが、同じ命令で分かれていく。
エルクが戸口のほうを見た。
「俺は今の紙が好きではない」
「分かっています」
「だが前に出て斬るよりはまだ人が戻る」
返事をしなかった。言えば軽くなる。軽くしていい言葉ではない。
北の段から、また鈴が鳴った。今度は一度だけ。
紙筒を持った兵が道倉へ入る前に息を整えた。手は泥で汚れている。紙は濡れていない。
「土煙、分かれました」
兵の声が台の上へ落ちる。
「一部、浅い沢へ。残り、本体の見える線へ」
エルクがさっき自分で言った言葉の先を見るように、こちらを見た。
俺には分からない。
その声はもう、道倉の中に残っている。
次の紙は、守るための紙では足りなかった。
引きながら戦う紙が要る。
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