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追放された雑用係、敗戦処理の天才だった ~崩壊寸前の辺境領を立て直す~   作者: 山田鰻
第十六章 砦を捨てるか、活かすか

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先に減るもの

夜明け前、北の段から戻った紙は薄かった。


火の跡なし。第一砦再入なし。白灰踏み替え一。踏み跡板二枚とも泥。土煙は北谷口下りの奥。数は不明。


短い行ばかりなのに、道倉の台はしばらく静かだった。


誰も死んでいない。誰も置いていない。誰も助けに走っていない。それで、敵側は空の砦を抜けた。


ミリアが紙の端を押さえる。


「第一砦は、戻りません」


確認ではない。終わったことを、もう一度言葉に置く声だった。


メイナが控えに同じ行を写す。第一砦、放棄継続。火なし。人なし。荷なし。道の確認印として維持。


エルクはその行を見ていた。


「守ったとは、言えないな」


自分でも返事を待っていない。紙の上に残ったものを見て、自分で言っただけだった。


「だが、人は死んでいない」


ガレスが炉の横で灰をならしながら言った。


「砦も、人を食わなかった」「砦が人を食う、か。嫌な言い方だ」


「嫌な時ほど合っている」


道倉の炉は小さい。南門へ火種を分けたぶん、朝の火が弱い。湯を沸かすにも粉麦を溶くにも、順番がいる。


台の上に別の紙を広げた。


「次の確認です」「まだあるのか」


昨日ほど荒くはない。


「あります。第一砦を切った後に残った三つが持つかどうか」


紙の左に道倉/上に北の段/奥に北方砦本体。三つの名を置き、その横へ数を書く。粉麦/干し肉/薪/水袋/飼葉/毛布/火種。


「敵の数ではないのか」


「分からない数より、減っている数から見ます」


眉が寄った。


「敵より先に、こっちの飯を見るのか」「はい」


短い返事で、台の前の視線が紙へ落ちた。


第一砦を捨てた。敵側は奥へ入った。なら次は追うか、迎えるか、伏せるか。そう考える者が多い。けれど台の上には粉麦と薪と飼葉が並んでいる。


戦う前に腹が減る。見張る前に火が減る。馬を動かす前に飼葉が減る。敵が来るより先に、こちらの数が薄くなる。


ルシアが商隊控えを重ねた。


「南門受けに回したぶん、道倉へ上がる荷が減っています」


「民を受けたからか」


「はい。毛布と火種も南で止まっています。戻すには車が要ります」


「車は」


「空荷の小車が一台。塩商の車は昼まで。フェネルの車は夕方に南へ戻します」


ミリアの手元にある紙が動く。


「道倉/北の段/砦本体。三つを残した代わりに、道倉へ人と荷が集まる」


「はい」


「道倉が詰まれば」「北の段が痩せます」


痩せる、という言葉でエルクが台を見た。


兵が減るのではない。だが火が減る。食う物が減る。馬が動けなくなれば、そこにいる人数の意味も変わる。二名維持と書いても、腹の中が空なら一名分にもならない。


メイナが粉麦の欄に数字を入れる。朝の道倉分は二日。北の段分は一日半。南門受けは半日増。


「半日増とは」


「戸板搬送の者と付き添い、歩ける二名。南門の火前で一食増えます」


「戻した民の分か」「はい」


目が伏せられた。


助けた人が、次の食い扶持になる。誰も悪くない。だから紙に書かないと、誰かが悪いように見えてしまう。


「民を戻したら、飯が減る」「減ります」


「それでも戻した」「戻しました」


「……そうか」


その先を言わなかった。戻したことを悔いているのではない。減ることを無視できなくなっただけだ。


ガレスが薪の欄を指で叩く。


「飯より先に火だ。粉があっても、湯がなければ腹に入らん」


「薪は」


メイナが別紙を出す。


「道倉は今夜分。南門は明朝まで。北の段は乾いた束が少ないです」


「北の段へ薪を上げると、粉麦が遅れる」「粉麦を上げると、毛布が遅れます」


「毛布を上げると」


言いかけて止まった。言わなくても分かる。


どれかを上げれば、どれかが遅れる。第一砦を捨てて三つを残したのに、その三つへ同じ量を送る力はない。


紙の右端に線を引く。今日守る数/今日食わせる数/今日温める数。


「三つを分けます」「分けたら、足りないのが見える」


「見ます」「見たら、削る場所も出る」


「出ます」「また捨てるのか」


返事を急がなかった。


第一砦の紙が台の端に置かれている。捨てた場所はまだ乾いていない。そこへ次の「捨てる」を重ねれば、心が先に拒む。


ミリアが代わりに答えた。


「今日は、まだ捨てません」


エルクが顔を上げる。


「今日は、足りない場所を隠さない」


道倉の火が低く鳴った。


「足りないのを隠せば、次に捨てる場所を間違えます」


その言い方で、第一砦の紙が別の意味を持った。捨てるために書いた紙ではない。間違えて人を置かないために書いた紙だ。次も同じとは限らない。だが、見ないまま守ると言えばまた砦が人を食う。


エルクが小さく息を吐いた。


「勇気で粉麦は増えない」


誰も笑わなかった。


笑える言葉ではない。けれどエルクの口から出たことに意味があった。勇気を捨てたのではない。勇気だけでは、道倉の袋は膨らまない。


「増えません」


うなずく。


「だから先に数えます」「先に数えたら、情けなく見える」


「あとで数えると死にます」


エルクが台の上の粉麦欄に指を置いた。


「北の段へ、先に薪」「理由は」


「夜に腹が減っても見張りは立てる。凍えたら立てない」


ガレスが顔を上げる。


「珍しく合っている」「珍しくは余計だ」


少しだけ、台の前で肩の力が抜けた。


だが軽くはならない。粉麦の欄はそのままだ。干し肉も飼葉も水袋も毛布も、数字は増えていない。


ルシアが商隊紙へ書き足す。


「南門から道倉へ上げる荷を、粉麦と薪に絞ります。毛布は返却分から回します。飼葉は、夕方までに別車を探します」


「別車は出せるか」「探します。約束はしません」


「約束しない、と書いて」


ルシアが少しだけ目を細め、それから書いた。


飼葉車、探索中。確約なし。


確約なし、という字が台の上に置かれる。頼りない字だ。だが頼りないまま書けば、誰かが勝手に頼りにしない。


メイナが締めの控えではなく、明朝用の控えを作りはじめた。


北の段は薪優先。道倉は粉麦保留。南門は火前の人数再確認。飼葉は夕方までに車確認。第一砦は昼見回り継続。


「第一砦も見るのか」「見ます。捨てたからこそ」


「守るためではなく」「次に失わないためです」


今度は言い返さなかった。


外では朝の雨が細くなっている。北谷口の奥へ入った土煙は、もう道倉から見えない。見えないものを追う前に、見えている袋を数える。


それが、今朝の勝ち方だった。


勝ち方というには、あまりに地味だった。


けれど、第一砦で誰も失わなかった朝に道倉の台へ残ったのは、派手な勝ちではない。


粉麦の残り。薪の残り。飼葉の残り。火前に座る人数。北の段へ上げる順番。


敵より先に減るものの控えだった。

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