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追放された雑用係、敗戦処理の天才だった ~崩壊寸前の辺境領を立て直す~   作者: 山田鰻
第十六章 砦を捨てるか、活かすか

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火のない砦

夕方の第一砦に、火は残さなかった。


火種は道倉へ戻した。水袋も乾いた縄も毛布も矢束も戻した。炉の灰だけは崩さず、白灰の乱れもそのまま置く。空になった棚/濡れ縄/割れた柄/倒した空桶/火のない炉。北の段からは、それだけ見えれば足りた。


「最後の車です」


道倉の前で、荷受けの兵が車輪止めを外した。


荷台には使える鍋が二つ/白灰の戻し袋/乾き縄/矢束が一つ。端には炭焼きの冬小屋から見つかった小さな布包みが載っている。中身は道具ではない。戸板の者が握って離さなかったものだ。


名前は、まだ聞かない。


「布包みは南門へ。本人確認後、返却」


メイナが控えに書く。


エルクの視線が荷台から第一砦の紙へ移った。


「第一砦には、もう何もないのか」「使える物はありません」


「何も、ではない」「はい」


別の紙を出した。残す物は白灰の乱れ/切れた細縄/踏み跡板/濡れ縄/割れた柄/倒した空桶/火のない炉。


「残す物が多いな」


怒りは薄い。嫌悪だけが残っている。


「使える物を戻した結果です」「見せるための物ばかりだ」


「見せる場所になりました」


答えは返らない。


最後の車が南へ出る。車輪の音が雨の薄い道を削り、やがて道倉の外から消えた。


ミリアは門前台ではなく道倉の台に立っていた。ここで署名するためだ。砦を捨てる紙を、砦の近くで書く。戻した物の匂いと、濡れた車輪跡の前で書く。


「確認を」


メイナが読み上げる。


「第一砦は夜間常駐なし。昼見回りは北の段止まり。白灰乱れ保持。細縄切れ保持。使える物回収済み」


「確認」


「民は第一便と第二便を南門受け済み。戸板搬送一は火前へ移動済み。火種は半分道倉/半分南門。北の段二名維持。道倉戻り車一台維持」


「確認」


すべての行が、砦を薄くしていく。それなのに道倉の台は重くなる。紙一枚で名を消すわけではない。車を出す。人を戻す。火を移す。残す乱れを決めたあとで、ようやく名が変わる。


筆を持つ手が止まらず動いた。


第一砦。砦として放棄。道の確認印として継続。本日夕、実行完了。


赤い紐を結ぶ前に、エルクが口を開いた。


「これを書けば戻れない」「戻るために書きます」


返事は静かだった。


「人と火と荷は戻りました。紙も戻します。第一砦だけを戻さない」


「砦だけを」「はい」


その一語で、台の上の紙が少しだけ冷たく見えた。戻した物の名は多い。戻さないものの名は一つだけだ。けれどその一つが、十年分の火と見張りを抱えている。


赤い紐が結ばれる。


誰も拍手しない。誰も息を大きく吐かない。勝った紙ではない。守った紙でもない。失わなかったものを数えるための紙だ。


この紙が軽くならないのは、そこに戻らない場所の重さが入っているからだった。


火を移しても、火を置いてきた場所の名まで消えるわけではない。


だから赤い紐は、勝ちの印ではなく戻したものを数え終えた印になった。


北の段から夕方の見え控えが戻ったのは、その直後だった。


紙筒は泥で汚れている。走ってはいない。だが急いだ手の跡があった。


メイナが開き、台の上へ置く。


誰も先に声を出さない。走らない紙を出したあとだからこそ、戻った紙の読み違いは許されない。濡れた端を押さえ、泥の跳ねた文字だけを先に見る。


第一砦火なし。白灰三か所乱れ。踏み跡板一枚倒れ。空桶位置変わらず。


土煙は砦内に入り、北谷口下りへ抜ける。数不明。


エルクの手が紙をつかみそうになって止まった。


「入ったのか」「そのようです」


「誰もいない砦に」「はい」「止まらず、下りへ」「はい」


道倉の中に低い音が広がる。声ではない。息でもない。全員が同じ行を見ている音だった。


第一砦に入った。火はない。荷はない。人はない。そして、奥へ進んだ。


空にした砦が使われたのではない。空にしたから通り抜けさせることができた。


その違いを喜べる者は、道倉の中に一人もいなかった。


「追わないのか」「追いません」


「今なら背を見られる」「背を見るために、こちらの背を空けることになります」


「北の段から」「二名です。動かせません」


「道倉から」「戻り車が止まります」


「砦本体から」「夜番を削ります」


口が閉じた。


同じ問いを、もう一度ここで繰り返している。守る案の時と同じだ。だが今は紙の上だけではない。民は南へ出た。火は分けた。第一砦は空になった。土煙はそこへ入り、奥へ抜けた。


追えば取り返せるものがあるように見える。追えば失うものもはっきりしている。


追わないと決めるには、追った時に空く場所まで見なければならない。


背を見られる距離は、同時にこちらの背を見せる距離でもあった。


その距離を紙に戻すから、怒りだけでは馬を出せなかった。


「くそ」


短く吐いた。怒鳴り声ではない。誰かを責める声でもない。目の前の行が正しいことを、腹がまだ受け入れない音だった。


ガレスが踏み跡板の行を指で叩いた。


「一枚倒れただけなら、まだ一枚残っている」


「次を見るのか」「次を見る。今夜は見に行かん」


「夜の間に何かされても」「夜に行けば、こちらが何かされる」


ミリアが赤い紐の紙の下へ北の段の控えを重ねる。


「第一砦放棄、完了」


メイナが同じ行を写す。


「敵側、第一砦通過。北谷口下りへ」


「敵側、と書くのですね」「それ以上は、まだ書きません」


「数は」「不明のまま」「はい」


紙は冷たい。だが冷たいまま残す。数が分からないなら不明。誰か分からないなら敵側。火がないなら火なし。言葉を増やさないことで、次に書く場所を残す。


ルシアが道倉の戸口で止まっていた。


「商隊へ出す言葉は」「道倉止まりを継続」


「北の段より先、荷車なし」


「日暮れ後は」「道倉にも入れません。南門受けへ」


ルシアがすぐに紙を作る。商隊は道倉止まり継続。日暮れ後は南門受け。北谷口下りは通行避け。浅い沢は単独不可。


「北谷口下り、通行避け」


エルクがその行を低く読んだ。


「第一砦の名前は、もう出さないのか」「商人には不要です」


ルシアが言った。


「通ってはいけない場所が分かれば足ります」


少しだけ苦く笑った。


「砦の名より通るな、か」


「今日はそうです」


そう言い切れる者が、ここには必要だった。


道倉の外で、最後の車輪跡に雨水が入りはじめる。深い溝が少しずつ丸くなり、どの車がどの荷を運んだか分からなくなる。


だから紙に残す。民が戻ったこと。火が戻ったこと。荷が戻ったこと。第一砦だけが戻らなかったこと。


ミリアが赤い紐の紙を砦長宛ての筒に入れた。


「これを北方砦本体へ」


受け取った兵が深くうなずく。


「走らない」


エルクが先に言った。


兵が驚いて顔を上げる。


「泥を跳ねるな。紙を濡らすな。息を切らして読み違えるな」


自分で言ったあと、顔をしかめた。気に入らない言葉を使った顔だった。


それでも、兵は走らずに出ていく。


夜の火が、道倉の奥で小さくなった。


第一砦に火はない。


火のない砦を抜けた土煙だけが、北谷口の下りへ深く入っていった。

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