失われる記憶、失われない誓い
窓の隙間から差し込む光が、床に落ちたままのパーカーの輪郭を白く縁取っていた。夜が明ける。何時間そうしていたのか、もう分からなかった。
ベッドの上で、アリスは眠るように目を閉じている。
人形のように整った顔。規則的ではない、止まったままの呼吸。
俺は彼女の傍らで、ただ座っていた。時折、その手に触れる。氷のように冷たい。俺の体温が一方的に吸い取られていく感覚だけが、彼女がまだここに『在る』ことを証明していた。
俺の言葉が、彼女をフリーズさせた。
『完璧じゃなくていい』
あの言葉が、彼女の論理回路を焼き切った。不完全さを受け入れるという、非効率で矛盾した俺の感情が、彼女という完璧な存在を壊したんだ。
胸の奥が、鈍く軋む。後悔と無力感が、部屋の淀んだ空気に溶けていくようだった。彼女がいつも見ていた窓の外の景色は、ただのありふれた住宅街だ。でも、彼女と見ていた時は、何かが違って見えた。
「……っ」
喉の奥から、乾いた音が漏れた。
本当に、守れるのか?
一度は失いかけた親友との過去が、亡霊のように囁く。また同じだ。俺のせいで、大切なものが壊れていく。
それでも、諦めるわけにはいかない。
諦め方が、もう分からなかった。
静寂を切り裂いて、ポケットのスマホが短く振動した。ディスプレイには『非通知』の文字。棗からだ。
「…もしもし」
『…陽動の準備は進んでる。そっちは?』
ヘッドホンの向こうから聞こえる声は、いつもより硬質的で、張り詰めていた。
「アリスは…変わらない」
『そう。…で、どうすんの。神崎博士、連絡とるんでしょ』
「…ああ。頼む」
震える声で答えるのが精一杯だった。
その時、玄関のドアが乱暴にノックされた。驚いてスマホを落としそうになる。こんな朝早くに誰だ?
『もしもし? ちょっと、どうしたの』
「いや、誰か来たみたいだ…」
警戒しながらドアスコープを覗くと、そこに立っていたのは、190cm近い巨漢――隼人だった。
ドアを開けると、彼は俺のやつれた顔を見るなり、眉をひそめた。そして、無言でコンビニの袋をずいっと突き出す。袋からは、ソースと揚げ物の匂いが立ち上っていた。
「隼人…?」
「食え。話はそれからだ」
袋の中には、まだ温かいカツ丼が二つ。
「腹が減ってちゃ、戦もできねぇだろ」
隼人はそう言うと、俺の返事も聞かずに部屋に上がり込み、どかっと床に座った。そのあまりにいつも通りの振る舞いに、張り詰めていた何かが少しだけ緩む。
(…ほんと、お前は…)
電話の向こうで、棗が呆れたようにため息をつくのが聞こえた。
隼人が持ってきたカツ丼を、ほとんど味も分からないまま胃に流し込む。それでも、温かいものが腹に入るだけで、凍えていた身体の芯が少しだけ解けていく気がした。
隼人は俺が食い終わるのを黙って待っていた。やがて、棗が再び口を開く。
『…準備できた。神崎創に繋ぐ。いい?』
「ああ。頼む」
『こっちの回線はNILISも追えない。でも、向こうがどうなってるかは不明。手短にね』
緊張が走る。隼人も真剣な顔でこちらを見守っていた。
数秒のノイズの後、スマホの画面が切り替わり、ビデオ通話の映像が映し出された。
そこにいたのは、白衣を着た、少し疲れた様子の四十代くらいの男だった。無精髭に、鋭いが優しい光を宿す瞳。彼が、アリスの生みの親――神崎創博士。
『…君が、高木健太君だね。渋沢先生から話は聞いている』
神崎博士の声は、落ち着いていた。
「はい。天宮…アリスのことで、お話を」
俺はスマホをアリスの方へ向け、彼女の姿を映した。
『――!』
画面の向こうで、神崎博士が息を呑むのが分かった。彼の表情が、研究者のそれから、父親のそれに変わる。
『これは…『論理的臨界』だ。自己矛盾によるフィードバックループで、コア・プログラムが焼き切れる寸前だ…』
専門的な言葉の意味は分からない。でも、それが絶望的な状況だということは、痛いほど伝わってきた。
「助ける方法は、ないんですか…!?」
思わず声を荒らげる俺に、神崎博士は痛ましげに目を伏せた。
『…方法が、一つだけある。だが、それは禁断の技術だ』
彼は絞り出すように言った。
『『人格再構築(Re-framing)』。矛盾した感情データを、彼女のコアから物理的に切り離し、再構築する』
「それができるなら…!」
希望の光が見えた気がした。だが、神崎博士の次の言葉が、俺を再び奈落の底に突き落とす。
『ただし、成功例はない。理論上の話だ。そして…もし成功したとしても、広範囲の記憶データが失われる可能性が極めて高い。君と過ごした時間も、そこで生まれた感情も、全て…』
血の気が引いていくのが分かった。
記憶が、なくなる…?
俺たちの過ごした時間が、アリスの中から消える?
『彼女を『モノ』に戻すか、記憶を失った『別人』として生き永らえさせるか…選択肢は、それしかないのだよ』
それは、救いなどではなかった。
ただ、絶望の形が変わるだけだ。
完璧な理想だった彼女を、俺が不完全にしてしまった。そして今度は、その不完全さごと、彼女の心を奪おうとしている。俺は、自分勝手なエゴで彼女を救おうとしているだけじゃないのか。
画面の向こうで、神崎博士が何かを堪えるように呟いた。
『…『セシル』の二の舞にだけは、したくないんだ…』
その名前には、深い悔恨の響きが滲んでいた。
通話は、それで切れた。
部屋には、また静寂が戻る。俺は、ただアリスの顔を見つめていた。
記憶のないアリス。俺を知らないアリス。それでも、彼女はアリスなのか?
答えは出ない。でも、一つだけ確かなことがある。
彼女の存在が、この世界から消えることだけは、絶対に嫌だ。
俺は立ち上がり、ベッドの傍らに膝をついた。
やがて、フリーズしたアリスの冷たい手を、両手で強く、強く握りしめた。
「…記憶がなくたっていい」
声が震える。
それでも言葉を紡ぐ。
「俺が全部覚えてる。お前が、お前でいられるなら…」
窓から差し込む朝の光が、彼女の艶やかな髪を照らし、小さな光の輪を作っていた。
「俺は何度でも、お前を見つけ出す」
それは、祈りであり、誓いだった。
たとえ彼女が俺を忘れ、世界が彼女を『モノ』と断じても。
この不完全で、どうしようもなく愛おしい存在を、俺は選び続ける。
握りしめた彼女の手は、まだ冷たいままだった。
ポケットの中でスマホが震えた。
短く、無機質な振動が、俺を現実へと引き戻す。画面には『山本隼人』の三文字。
指がもつれながらも、なんとか通話ボタンを押した。
「…もしもし」
『健太か! 大丈夫かよ、お前…! 棗から聞いたぞ、アリスちゃんが…』
電話の向こうから聞こえる隼人の声は、焦りと心配で上擦っていた。いつもの能天気な響きはどこにもない。
そのまっすぐな心配が、張り詰めていた心の表面を少しだけ溶かしていく。
「ああ…大丈夫だ。俺はな」
『…そっか』
隼人はそれ以上何も聞かず、ただ一言、そう言った。その短い沈黙に、あいつなりの気遣いが詰まっているのが分かった。
「今からそっちに向かう。棗にもそう伝えてくれ」
『おう、分かった。待ってる』
通話を切り、俺はもう一度アリスに視線を落とす。
彼女の表情は、ガラスの人形のように静かなままだった。
「行ってくる。必ず、お前を…」
そこまで言って、言葉を飲み込んだ。
約束は、すべてを終わらせてからだ。
◇
棗が指定した場所は、大学から数駅離れた雑居ビルの最上階だった。
錆びついた鉄の扉を開けると、そこは生活感というものが完全に欠落した空間だった。壁一面に設置された複数のモニターが青白い光を放ち、床には空になったエナジードリンクの缶が小さな山を作っている。部屋の隅で、隼人が窮屈そうにパイプ椅子に座っていた。
「…来たんだ」
部屋の主である間宮棗は、モニターの群れから顔も上げずに言った。その色素の薄い茶色の髪が、画面の光を反射している。
「博士と話した。アリスを救う方法が、一つだけある」
俺が切り出すと、隼人が身を乗り出した。棗も、初めてこちらに視線をよこす。その眠たげな三白眼が、俺の言葉の先を待っていた。
俺は、神崎博士から告げられた非情な選択肢を、包み隠さず話した。
『人格再構築』。
記憶の一部を犠牲にして、彼女を『別人』として生き永らえさせるという、禁断の技術。
話し終えた俺に、最初に口を開いたのは隼人だった。
「待てよ、健太。記憶がなくなるって…それって、もうお前が知ってるアリスちゃんじゃなくなるってことじゃねえのか?」
その声には、戸惑いと、かすかな怒りが滲んでいた。
「今のあいつを殺して、別人をその身体に入れるみてえなもんじゃねえか…! それで、お前はいいのかよ!」
「…隼人の言う通りだ」
静かだった棗が、低い声で続けた。
「『人格再構築』は、NILISの凍結技術リストに名前だけあった。リスクが高すぎて実用化が見送られた代物。成功率は? 副作用の詳細は? …あんた、その神崎って博士を、どこまで信用してるわけ?」
鋭い指摘だった。
二人の視線が、俺に突き刺さる。
揺らいでいないと言えば、嘘になる。隼人の言う通りだ。俺の知るアリスは、いなくなってしまうのかもしれない。棗の言う通りだ。博士の言葉が、すべて真実だという保証はどこにもない。
でも。
「それでも、やるしかないんだ」
俺は、震える声を抑えつけ、二人をまっすぐに見返した。
「記憶がなくなっても、俺との関係がゼロになっても…アリスが存在し続ける未来を、俺は選びたい。俺が覚えてる。全部。だから、何度だって始められる」
俺の目に、迷いはなかった。
隼人はぐっと言葉に詰まり、奥歯を噛み締めた。
棗は、しばらく俺の顔をじっと見ていたが、やがてふい、と視線をモニターに戻した。
「…非効率な選択。バカみたい」
吐き捨てるような言葉。
だが、その指は、驚くべき速さでキーボードを叩き始めていた。
画面に、複雑なコードの羅列が滝のように流れ出す。
「陽動の準備は、あと三時間で終わる。NILISのメインサーバーに、あたしから特大のプレゼントをくれてやる」
棗はモニターから目を離さずに言った。
「その隙に、あんたは博士に会って、アリスをそこへ運ぶ。…ルートは最短で割り出す。一度しかチャンスはない。失敗したら、全員終わり」
その声には、もう気だるさの欠片もなかった。
そこにあったのは、途方もない危険に身を投じる者の、張り詰めた覚悟だけだった。
俺は、隼人は、だが、棗も。
もう、後戻りはできなかった。




