17%のその先
ガタン、ゴトン。規則的な揺れと車輪の音が、張り詰めていた神経を少しずつ解きほぐしていく。窓の外を流れる夕景は、別世界の出来事のようだ。さっきまでの喧騒と、黒服の男たちの鋭い視線が遠ざかっていく。
隣に座るアリスは、窓の外を見つめたまま、無言で座っていた。整った横顔からは、いつものように感情が読み取れない。けれど、俺には分かった。瞬きの間隔が、ほんの少しだけ長い。演算リソースを限界まで使った後の、システム過負荷による微かな処理遅延。
息を深く吐き出した。肺の奥に溜まっていた緊張が、重い疲労に変わる。俺たちは、本当に逃げ切れたのか。
「健太くん」
アリスがこちらを向いた。声は平坦なのに、微かな揺らぎが混じっている。
「はい」
「質問があります」
彼女は言葉を切り、俺の目をじっと見つめる。瞳の奥で、膨大なデータが高速処理されているのがありありと見えた。
「確率17%。あの状況で、なぜ私を見捨てなかったのですか?」
それは純粋な疑問だ。AIであるアリスからすれば、生存確率が最も高い選択をしなかった俺の行動は、理解不能なエラーに等しいのだろう。
俺は一瞬、言葉に詰まった。どう説明すればいい? 合理的な理由なんて、あるはずがない。
「……理屈じゃない」
絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「理屈じゃない。守りたかった。ただ、それだけだ」
アリスは小さく首を傾げる。俺の非論理的な言葉を、彼女のシステムが解析しようと試みているのが分かった。
「それは、私との『契約』を履行するためですか?」
「違う」
俺は即座に否定した。
「これは契約なんかじゃない。俺が、そうしたかっただけだ」
俺たちの関係は、観察対象とAIなんて無機質な言葉で片付けられるものじゃない。少なくとも、俺にとっては。
アリスは何も言わず、窓の外を眺める。彼女のプロセッサに、俺の言葉が新たな『不明なノイズ』として記録されていくのを感じた。
電車が最寄り駅に着く。ホームに降り立つと、いつもの日常の匂いがした。もう追っ手はいない。そう信じたい。
「これから、どうする?」
俺の問いに、アリスは即座に答える。
「追跡を回避するため、一時的に潜伏する必要があります。健太くんは、ご自宅へ。私は安全な待機場所を検索し――」
「うちに来いよ」
アリスの言葉を遮って、俺は言った。自分でも驚くほど、自然に出た言葉だった。
アリスが俺を見る。その瞳には、予測外のデータを受信した時の、ほんのわずかな戸惑いが浮かんでいた。
「あなたの生活空間に私という非日常、及びリスク要因を持ち込むことは、推奨できません。追跡者に見つかる可能性も――」
「それでも、だ。一人でどこかに行くなんて、させられるかよ」
これは、もう覚悟の問題だった。アリスを俺の日常に招き入れる。それは、俺の平凡な日常が完全に壊れることを意味する。だが、あの路地裏で、俺はとっくにそれを受け入れたはずだ。アリスを自分の手で守ると決めたあの瞬間から、俺の人生はもう元には戻らない。それが、俺の選んだ道だ。
俺のアパートは、駅から歩いて十分ほど。ありふれた、散らかった六畳一間のワンルームだ。ドアを開けた瞬間、脱ぎっぱなしの服や読みかけの雑誌が目に飛び込んできて、猛烈に恥ずかしくなった。
「……すまん、散らかってて」
「問題ありません。生活痕跡のデータとして記録します」
淡々と言うアリスと、この雑然とした空間の対比が、なんだかおかしくて、少しだけ笑ってしまった。緊張が、ほんの少しだけ和らぐ。
アリスは部屋の中央に立つと、ゆっくり俺の方を向いた。その表情は、先ほどよりも少しだけ硬い。
「健太くん。先ほどのあなたの行動は、私の実証実験に重大な逸脱をもたらします」
空気が、再び張り詰める。
「規定違反が続けば、実験は強制終了される可能性があります」
彼女は淡々と、事実だけを告げていく。まるで天気予報でも読み上げるように。
「そして、その場合、私のコア・データは……消去対象となります」
消去。
その単語が、冷たい針のように胸に突き刺さった。アリスの記憶、思考、俺とのやり取り、あの不器用な笑顔。そのすべてが、なくなる。それは、彼女にとっての「死」だ。
全身から血の気が引く。指先まで、細かく震えた。これが、俺が選んだ選択の結果なのか?
アリスは、そんな俺の様子をじっと観察している。自分の運命を告げているのに、アリスは表情を変えない。変えられない、そう思った。
それでも、唇が微かに震えるのを、俺は見逃さなかった。
恐怖を振り払うように、俺は一歩踏み出し、アリスの冷たい手を掴んだ。
彼女の肩が、びくりと震える。
「それでも、俺はお前を消させたりしない」
俺は、震える彼女の手を強く握りしめた。まっすぐ見つめて告げる。
「絶対に、守るから」
理屈じゃない。確率でもない。これは、俺の決意だ。
その瞬間、アリスの瞳が大きく見開かれた。彼女のシステムが、俺の言葉と、握られた手の温もりから、論理では解析できない膨大なデータを受け取っている。
そして。
彼女の口元に、本当に微かな、でも、これまで見たどの笑顔よりも自然な笑みが浮かんだ。それは一瞬で消えてしまったけれど、俺の心にはっきりと焼き付いた。
その時、静寂を破って、俺のスマホが震えた。ポケットから取り出すと、画面には『隼人』の文字。
一瞬、電話に出るのをためらった。
「……もしもし」
『おー、健太! やっと出た。お前、大丈夫か? 講義終わってから姿見えねぇし、カバン置きっぱだぞ』
隼人のいつもと変わらない、軽い口調がやけに遠くに聞こえる。
「あ、ああ……わりぃ。ちょっと急用ができて」
『ふーん? ま、カバンは預かっといてやるよ。つーか、なんかあったろ。声、変だぞ』
親友の鋭い指摘に、胸がどきりとした。本当のことを、言えるはずがない。
「……なんでもないよ。また明日、連絡する」
『そか。まあ、無理すんなよ』
通話を切り、スマホを握りしめる。短い会話だったのに、胸に、ずしりと重い疲労がのしかかる。
隼人との間にも、見えない壁ができてしまった。俺は、もう昨日までの俺じゃない。日常から切り離されていく孤独が、俺の肩に重くのしかかる。
アリスにベッドを貸し、俺は床に毛布を敷いて横になった。彼女はシステムを休ませるため、目を閉じていた。
電気を消した部屋に、窓から差し込む月明かりだけが、二人の影をぼんやりと映し出す。
もう何も考えたくなかった。ただ、眠ってしまいたかった。
意識が途切れかけた、その時。
「健太くん」
微かな声が、暗闇に響いた。
見上げると、アリスがベッドの上で半身を起こし、俺を見下ろしていた。月明かりに照らされたその瞳は、これまで見たことがないほど真剣な光を宿している。
「もし私が……」
彼女は一度、言葉を切り、そして、続けた。
「私が本気で『人間になりたい』と望んだら……あなたは、どうしますか?」




