第2話 わたしの名前
無性に悲しく、そして不安になる。
「おんぎゃああ〜〜!」
わたしは赤ん坊になっていた。20数年の人生を生きようとも、情けない。堪えられない。
何よりも不便なのがこの体。この短い手と足でわたしができることはなかった。
なんか苦しい、腹が減った、寝付けない。
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そして睡眠と号泣をただ繰り返す日々が数ヶ月ほど過ぎた。
前世の記憶を継いだまま赤ん坊となったわたしは、ようやくまともに体重を支えられるようになってきた。
衝動的なむせび泣きもある程度抑えられるようになった。そうなれば少し余裕ができたので、周囲の様子を伺った。
わたしが転生した先のこの場所は、いわゆる山荘のようなところである。
いつも湿ったようなカビ臭い香りのする、薄暗いワンルーム。部屋の中央にダイニングテーブル、そして薪ストーブ。
明らかに現代ではない。雰囲気からしてそうだ。そしてここの住人はわたしと母親らしき若い女性の2人。
彼女はヨーロッパ風の顔立ちで、詳しくはわからないがドイツ語のように聞こえる言語でわたしをあやしてくれる。
時折わたしにかける“ストラツェヴァ”という言葉。おそらくわたしの名前だろう。
....どうも外の様子が気になる。
とわたしは思うのだった。家にいるのは前世の頃から好きだったが、この時代での文化だろうか?わたしは生まれてから一度もこの家を出ていない。
ガラスの窓なんてなく、昼間は雨の日でも光を通すために戸を開けている。
う〜ん....たまに外の空気くらいは吸ってみたいものだ....。
はいはいの速度は上達した。ならば母が外に行っている隙に、わたしも少し冒険してみようではないか。
そう決心して、綿の小さなベッドの上でそのチャンスを伺った。そして小一時間ほど経ったときに雷が鳴った。
雨が降る前に洗濯でも済ませねばと思ったのか、母は急いで衣類をかごに敷き詰めて出ていく。
時は満ちた!わたしは俊敏なはいはい技術で冷たい木板の床をたどり、扉の外へと出た。
ふわっと外の空気がわたしを迎えた。家の中とあまり変わらないような湿った香り、すでに雨は降っていて、わたしの髪を灰色の雨粒が濡らしてゆく。
わたしの目に飛び込む外の景色は、意外なものだった。
大きな戦争でもあったのだろうか、石の墓標が家の周りのそこかしこに建てられていた。少し先に視線を向けると、夜のように暗い針葉樹の林が広がっている。
転生前の、あのせん妄を思い出すような、そんな景色にわたしは動けずにいた。
そしてふと自分の下に広がる水たまりを覗き込んだ。そこに写っていた赤ん坊。
わたしの血の気が引いた。さーっと背筋に冷水が垂れるような。
水面に映るその瞳は真紅に妖しく光り、髪は純白、耳はネコ科の獣のように頭上についていた。
「わたしは....ここは....?」
顔こそは人間でも、その映った姿にはヒトという要素を感じることはできなかった。
雨の勢いが強くなる。それとともに母の足音が聞えた。まともに洗濯もできずに帰ってきたのであろう。
見上げるわたしと彼女の目が合った。
そしてそのままわたしの頬は引っ叩かれるのだった。大人でも涙が出るほどの衝撃を浴びせてきた。
それでも泣かないわたしを見て、逆に苦しいような涙をみせたのは母だった。彼女はわたしに一言だけ発する。
「“悪魔の子供め(ストラツェヴァ)!”」




