第九十七環 「万苦転写」
——人界・北方、刑罰塔。
薄暗い回廊だった。
北方に聳える刑罰塔は、他の三塔とは構造そのものが異なっている。
幾重にも折れ曲がる狭い廊下。
規則性なく並ぶ無数の石柱。
光の届かない死角と、侵入者の方向感覚を狂わせる分岐路。
外から見た塔の大きさと、内部の広さが明らかに一致していない。空間を歪め、侵入者を内部へ閉じ込めるために設計された巨大な迷宮だった。
だが、幻術師であるレイラにとって、闇と死角に満ちた空間は本来なら絶好の戦場だ。
レイラは影から影へ、音もなく移動していた。
くすんだ金髪が闇へ溶け込み、緑色の瞳だけが微かな光を帯びている。
長い耳が、回廊を流れる空気の僅かな揺らぎまで捉えていた。
足音はない。
呼吸音もない。
それでも、いる。
レイラは柱の陰から左手を突き出した。
「——《影縛り》」
床へ伸びた影が形を変える。
数十本の黒い触手となり、十メートル先に立つ人影へ殺到した。
同時に右手を振るう。
「《幻惑弾》」
紫色の魔力弾が三発。
正面、右側面、天井。
それぞれ異なる軌道を描き、逃げ道を塞ぐように標的へ迫る。
影の触手が両足を捉える。
三発の幻惑弾が、ほぼ同時に着弾する——その直前。
黒い大剣が、一閃した。
影の触手が切断される。
続けて振り上げられた刃が、一発目の幻惑弾を両断。その爆発を黒い大剣の腹で防ぎながら、残る二発までまとめて薙ぎ払った。
紫色の魔力が、霧のように回廊へ散っていく。
その中心に巨躯の男が立っていた。
四聖剣第一席《苦諦剣》——ダッカ。
隆起した筋肉を黒い装甲で覆い、自らの背丈に迫るほど巨大な大剣を片手で握っている。
黒い大剣——《終焉剣》。
分厚い刀身には無数の傷が刻まれ、まるで戦場で浴びてきた苦痛そのものを蓄えているかのように、暗い光を放っていた。
「……それだけか」
感情の薄い声。
失望を隠すこともなく、ダッカは大剣に付着した魔力の残滓を振り払った。
「随分と退屈そうね、第一席」
レイラが、挑発的に微笑む。
余裕を装っているが、その裏では冷静な分析が続いていた。
(闇魔法は、術式ごと斬られた。あの大剣……魔力を切断できる)
攻撃を防がれたこと自体は問題ではない。
今の二つは、相手の反応を見るための牽制だ。
問題は、ダッカが幻惑弾の本体を、一度も迷わず見抜いたこと。
三発のうち、実体を持つ魔力弾は一発だけ。
残る二発は、レイラが作り出した幻だった。
それにもかかわらず、ダッカは本物を最初に斬り、続いて幻までまとめて消し飛ばした。
(幻術を見破った? でも、精神干渉へ抵抗した感覚はなかった……)
ダッカの瞳に特殊な力は感じない。
精神防壁を張っている様子もない。
幻と本物を区別したのではなく、区別する必要がないほど広い範囲を、力任せに薙ぎ払っただけ。
単純。
だからこそ、厄介だった。
レイラが柱の陰へ滑り込む。
新たな幻術を編みながら、反対側の影へ移ろうとした。
その瞬間。
ダッカの姿が視界から消えた。
「——っ!」
背後。
空気が押し潰される気配を感じた時には、既に遅かった。
レイラが振り返る。
黒い大剣が、頭上から振り下ろされていた。
「《影障壁》!」
足元の影が盛り上がり、幾重もの盾となって刃を受け止める。
だが。
《終焉剣》は影の盾を紙のように切り裂いた。
レイラは咄嗟に身を捻る。
黒い刃が首を外れ、左肩を浅く切り裂いた。
「くっ——!」
床を転がり、追撃の間合いから離れる。
柱の陰へ飛び込み、傷口を右手で押さえた。
浅い。
骨には届いていない。
出血を止めれば、まだ問題なく戦える。
そう判断した直後。
傷口が、脈打った。
「——っ!?」
僅かだった裂け目が、内側から押し広げられていく。
皮膚が裂け、肉が抉れ、刃が触れていないはずの深部まで痛みが侵入する。
左肩の骨が軋んだ。
「何……これ……!」
「終焉剣に刻まれた傷は、それだけでは終わらない」
ダッカが、ゆっくりと歩いてくる。
「時間とともに深くなり、肉を裂き、骨へ届く。戦いを長引かせるほど——お前が不利になる」
レイラは歯を食い縛った。
肩を押さえていた手を離し、両手で術式を結ぶ。
「だったら、時間を稼がなければいいだけね」
闇の魔力が回廊を埋め尽くした。
レイラの姿が揺らぎ、六人に分裂する。
六人のレイラが異なる方向へ散り、柱と柱の間を駆け抜けた。
足音。
呼吸。
魔力。
影。
すべてが本物と寸分違わない。
六人が同時に振り返り、それぞれ異なる魔法陣を展開する。
「さあ——どれが本物か分かる?」
ダッカは動かなかった。
回廊を駆ける六つの姿を、興味なさそうに眺めている。
次の瞬間。
黒い大剣を両手で握り、横薙ぎに振り抜いた。
轟音。
純粋な腕力が生み出した衝撃波が回廊全体を駆け抜ける。
石柱が砕け、壁面が抉れ、六人のレイラが同時に吹き飛ばされた。
五つの幻影が消滅する。
残された本体は床へ叩きつけられ、何度も転がった。
「……幻に付き合う必要はない」
ダッカが大剣を担ぎ直す。
「すべて斬れば、それで終わる」
「本当に……単純な男……!」
軽口を叩きながら、レイラは立ち上がる。
だが、左肩の傷はさらに広がっていた。
指先に力が入らない。
幻術を構築する速度も、少しずつ落ち始めている。
幾度かの攻防が続いた。
レイラは闇から闇へ移動し、幻術と魔法を組み合わせて攻め続けた。
存在しない足音。
反転する距離感。
前後を入れ替える認識操作。
自分の姿だけでなく、回廊そのものまで幻で作り替える。
しかし。
ダッカは、そのすべてを力で破壊した。
偽りの壁ごと本物の柱を砕き、幻影ごと周囲一帯を薙ぎ払う。
精巧さも、複雑さも関係ない。
幻術を見破れないなら、幻術が存在する空間ごと壊す。
それが、ダッカの戦い方だった。
そして。
ダッカが一歩、踏み出した。
たった、それだけ。
床が陥没する。
巨躯が視界から掻き消え、次の瞬間にはレイラの眼前に立っていた。
「——ッ!」
逃げられない。
そう理解した時には、ダッカの左手がレイラの顔を掴んでいた。
強靱な指が、頭蓋を締めつける。
レイラは咄嗟に幻術を流し込もうとする。
だが、その前に。
ダッカの低い声が、耳元で響いた。
「『万苦転写』」
世界が、反転した。
「あ——」
視界が暗転する。
次の瞬間。
「あ゛ああああああああッ!!」
レイラの絶叫が、薄暗い回廊を貫いた。
全身に、過去の傷が蘇る。
左肩だけではない。
背中。
腹部。
両腕。
太腿。
かつて森で受けた矢傷。
奴隷だった頃に刻まれた鞭の痕。
鎖で繋がれ、逃げようとして肉を削られた足首。
そして、メツの《寂滅》によって切り裂かれた傷。
既に癒えたはずの痛み。
忘れたふりをして、心の底へ押し込めてきた苦痛。
そのすべてが、何倍にも増幅されて肉体へ刻み込まれていく。
しかし、『万苦転写』が再現するものは、肉体の痛みだけではなかった。
レイラの脳裏へ、忘れたはずの光景が流れ込んでくる。
「やめ……っ、やめて……!」
薄暗い部屋。
鉄格子に囲まれた、窓のない地下室。
鼻を突く湿気と、錆びた鎖の臭い。
幼いレイラを、物の価値しか持たない商品として並べていたダークエルフの奴隷市場。
値踏みする視線。
身体へ伸ばされた無数の手。
どれほど泣いても、助けを求めても、誰にも届かなかった声。
尊厳を奪われ、心を守るために感情を閉ざすしかなかった日々。
それは、レイラが最も深く封じ込めた記憶だった。
「——ぁ、あ゛……っ!」
身体が激しく痙攣する。
涙が頬を伝い、呼吸ができなくなる。
過去の記憶が、遠い日の出来事ではない。
冷たい床の感触も。
鎖が擦れる音も。
逃げ場のない恐怖も。
今この瞬間に起きている現実として、レイラの精神を蝕んでいく。
幻術師であるレイラには、偽物と現実を見分ける力がある。
他人から与えられた幻なら、術式の綻びを探し出し、意識を切り離せる。
だが、これは幻ではない。
すべて、レイラ自身が経験した現実。
自分の記憶から引きずり出された苦痛だからこそ、偽物として拒絶できない。
「……苦痛とは、生きた証だ」
ダッカが、崩れ落ちたレイラを見下ろす。
「生きた時間が長いほど、傷は増える。守りたいものを得るほど、失う恐怖も深くなる」
低い声が、レイラの意識へ沈んでいく。
「お前が生き延びてきた年月。そのすべてが、俺の刃になる」
『万苦転写』によって呼び起こされた痛みが、肉体へ定着する。
背中に古い鞭傷が浮かび上がり、手首と足首の枷の痕が裂けた。
腹部。
両腕。
太腿。
これまでに受け、既に癒えたはずの傷が、新たな傷として再現されていく。
そして左肩から脇腹には、《寂滅》によって切り裂かれた傷まで浮かび上がった。
「——ッ!」
自分の存在が、仲間たちの記憶から消えていった感覚。
誰にも認識されず、この世界から一人だけ切り離されていく恐怖。
それさえも苦痛として再現され、レイラの心を内側から引き裂いた。
傷口から血が噴き出す。
黒い衣装が赤く染まり、石床へ血の雫が落ちていく。
「零……」
掠れた声が漏れた。
存在を失いかけた自分を、ただ一人覚えていてくれた人。
暗い過去を見ても、拒絶しなかった人。
もう一度、この世界へ繋ぎ止めてくれた人。
その名前を口にした瞬間だけ、現在の意識が僅かに戻る。
しかし、身体は動かない。
指一本にすら、力が入らなかった。
ダッカが《終焉剣》を持ち上げる。
「苦痛に耐える必要はない」
慈悲はない。
だが、残酷さを楽しむ色もなかった。
「死ねば、もう、何も痛まない」
黒い刀身が、血に濡れて膝をつくレイラの姿を映す。
「終わりにしてやろう」
《終焉剣》が振り下ろされた。




