第九十六環 「漆黒と白銀」
——人界・南方、静寂院尖塔。
石床が砕けていた。
静寂院尖塔は、他の三塔と比べても遥かに頑強な造りをしている。
分厚い石壁。
幾重もの支柱。
魔法によって強化された床と天井。
本来なら攻城兵器の直撃にすら耐えられるはずの建造物は、既にその三分の一近くが崩壊していた。
柱は途中から折れ、壁には巨大な斧で抉られたような裂け目が刻まれている。天井の一部は完全に吹き飛び、開いた穴から人界の青空が覗いていた。
転送直後、クオンを包囲した人界兵たちは既に全員、戦闘不能となって倒れている。
命は奪っていない。
だが、再び立ち上がれる者もいなかった。
その中心に、クオンが立っていた。
アッシュグレーの髪が戦塵に揺れ、薄橙色の瞳が真っ直ぐに前方を見据えている。
肌に浮かぶ汗が、それまでの戦闘の激しさを物語っていた。
それでも、表情に焦りはない。
黒い鬼角が微かな光を放ち、左目の下に刻まれた赤い紋様が、心臓の鼓動に合わせるように脈動している。
右手に握られているのは、巨大な黒い大戦斧。
クオンの身長に匹敵する長柄と、分厚い漆黒の刃。
先ほどまで何十人もの兵を薙ぎ払っていたにもかかわらず、刃には一滴の血も付着していない。
そして。
クオンの視線の先には、白銀の大鎌を携えた男が立っていた。
四聖剣第三席《滅諦剣》——メツ・ニローダ。
白い外套に全身を包み、幽鬼のように静かに佇んでいる。
その顔から感情を読み取ることはできない。
白銀の大鎌、《静寂鎌》が、重さを感じさせることなく虚空に浮かんでいた。
クオンは、その大鎌を見た。
魔王城の中庭で起こった惨劇。
レイラの身体を切り裂き、その存在を削り取り、仲間たちの記憶から消し去った白い鎌。
その場にクオンも、レイラに関する記憶を奪われていた。
顔も。
声も。
共に過ごした時間も。
何も覚えていなかった。
それでも、リリスから聞かされた。
レイラという仲間がいたこと。
目の前の男が魔王城へ侵入し、彼女を傷つけたこと。
零が自らの記憶を錨として、消えかけたレイラの存在を繋ぎ止めたこと。
そして今。
失われていた記憶は完全ではないながらも、少しずつ戻り始めている。
食堂で向かいに座っていた姿。
人を試すような笑み。
零をからかい、ルシアを怒らせていた声。
断片的な記憶が、胸の奥で熱を帯びていた。
「お前は、城を襲撃した四聖剣だな」
クオンの低い声が、崩れかけた塔内に響いた。
普段と同じく、言葉は短い。
しかし、その奥には灼熱のような怒りが渦巻いている。
メツが、ゆっくりとクオンを見る。
「……覚えているのか?」
平坦な声。
僅かな驚きすら、瞬き一つに満たないほど微かなものだった。
「『寂滅』に触れた存在は、記憶からも消える。お前の中にも、その騒音は残っていないはず」
「......あぁ。ついさっきまで、忘れていた」
クオンの手に力が籠もる。
黒い大戦斧の柄が、僅かに軋んだ。
「顔も、声も思い出せなかった。仲間だったことすらも、忘れていた」
「ならば、そのままでいればいい」
メツの声には、悪意がない。
嘲笑も、罪悪感もない。
ただ世界の摂理を語るように淡々としている。
「忘却は救済だ。苦しみも、悲しみも、失った痛みも……記憶がなければ存在しない」
「違う」
クオンが即座に否定した。
「リリス様が教えてくれた。お前がレイラを切ったことを。そして、レイラの存在を、消そうとしたことを」
瞳に、鋭い殺意が灯る。
それは鬼族の戦士として強敵へ向ける闘争心ではない。
仲間を傷つけられた者の、純粋な怒りだった。
「レイラは、私の仲間だ」
クオンの足元から、石床が放射状に砕けた。
凄まじい存在圧が放たれる。
鬼族の闘気が物理的な重圧となり、周囲の瓦礫を震わせた。倒れている兵士たちの武器が軋み、残された壁面に新たな亀裂が走っていく。
メツの白い外套だけが重圧の中で静かに揺れていた。
「記憶が戻らなくても、関係ない」
クオンが黒い大戦斧を構える。
「私が忘れたことは、お前がレイラを傷つけていい理由にはならない」
「……そうか」
メツは白銀の大鎌を持ち上げた。
感情のない瞳が、クオンを映す。
「ならば、もう一度消そう。貴様のその頭蓋の中から」
《静寂鎌》の周囲から、音が失われていく。
風の音。
崩れ落ちる小石の音。
クオンの呼吸音さえ、鎌へ近づくにつれて薄れていった。
「怒りも、悲しみも、仲間への想いも……すべては、いつか消える」
白銀の刃が、淡い光を帯びる。
「寂滅だけが、等しく、優しい」
鎌が弧を描いた。
音もなく。
目に見える斬撃すらない。
それでもクオンの本能が、触れてはならない何かが迫っていると警鐘を鳴らす。
本来、メツと戦う予定だったのはシエラだ。
その圧倒的な機動力を使い、決して鎌の間合いへ入らず、遠距離から竜炎で焼き尽くす。
それが対メツ戦の作戦だった。
しかし、クオンの戦い方は正反対。
敵の懐へ踏み込み、攻撃を受けながら、それ以上の一撃を叩き込む。
触れれば存在を削られる敵に対して、最も相性の悪い戦士。
それでも、クオンは退かなかった。
「——来い」
両足へ力を込める。
石床が爆裂した。
クオンの巨体が、弾丸のように射出される。
待ち受けるのは、触れた存在を消し去る白銀の大鎌。
回避すべき刃へ向かって、クオンは正面から踏み込んだ。
「私は、お前を倒す」
巨大な黒い大戦斧が振り下ろされる。
メツの《静寂鎌》が、それを迎え撃った。
漆黒と白銀。
二つの巨大な刃が真正面から激突する。
直後。
凄まじい衝撃波が、静寂院尖塔の残骸を吹き飛ばした。




