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第九十五環 「番を求める黒龍」


零は走った。


リリスの指示を受けた瞬間には、既に身体が動いていた。


第三城壁付近に散らばる瓦礫を飛び越え、右手首の夢幻抱擁《ウロボロスサーキット》を起動する。


脚力を増幅。


肉体にかかる負荷を減衰。


強化された零の身体が、王都の中央街道を駆け抜けた。


崩れた建物の屋根へ跳び上がり、次の屋根へ。眼下では魔界軍と人界軍が激突しているが、足を止めている余裕はない。


東の空を覆う黒雲。


その中心から放たれる、禍々しいほど巨大な魔力。


間違いなく、シエラのものだった。


だが、零が知る彼女の魔力とはあまりにも違う。


普段のシエラが纏う魔力には、空のような広がりがある。荒々しくとも、どこか自由で、触れた者を包み込む温かさがあった。


今は違う。


飢えている。


求めている。


目に映るすべてを噛み砕き、焼き尽くしてでも、たった一つの何かを手に入れようとしている。


(待ってろ、シエラ……!)


走りながら、ルシアの姿が脳裏を過ぎった。


西方からも、凄まじい魔力の衝突を感じる。


ルシアもまた、強敵と戦っている。


今すぐ助けに向かいたい気持ちはあった。


それでもリリスは「東へ行け」と命じた。


戦場全体を把握する彼女が、シエラを優先したのだ。


ならば、今はその判断を信じる。


零はさらに脚力を増幅した。


石床を踏み砕き、一直線に東方の尖塔へ向かう。


    ◆


歓楽宮へ辿り着いた零は、正面入口を使わなかった。


外壁へ向かって跳躍し、突き出した右手で壁面に触れる。


「摩擦——増幅」


掌が石壁へ吸いつく。


そのまま垂直の外壁を駆け上がり、途中の窓枠を足場にして、さらに高く跳んだ。


上空では飛行無効化の結界が働いている。


だが、自分の脚で壁を駆け上がることまでは、封じられていない。


頂上へ近づくほど、魔力の圧が強くなっていく。


空気が震え、塔の壁面に亀裂が走っている。聞こえてくるのは、人間の声ではない。


獣よりも重く、魔物よりも禍々しい、原初の竜の唸り声。


零は最後の窓枠を蹴った。


崩れかけた欄干を飛び越え、円形闘技場へ着地する。


そして、息を呑んだ。


「シエラ……!」


シエラが、罅割れた石床へ這いつくばっていた。


髪は逆立ち、その間から覗く黒い竜角が激しく明滅している。


漆黒の鱗は腕だけでなく、首筋から頬にまで広がっていた。翼は通常時の倍近くまで膨れ上がり、石床を覆うほど巨大化している。


腰から伸びた尾は太く変形し、その先端には鋭い棘が生え始めていた。


もはや、人と竜の境界に立っている。


その金色の瞳には焦点がなく、喉からは苦しげな呼吸が漏れていた。


起源回帰《オリジネーション》は——既に発動している。


だが、シエラはその力を制御できていない。


本能だけが際限なく膨れ上がり、肉体を完全な竜へ近づけ続けている。


「シエラ!」


零が、もう一度その名を叫んだ。


その声に——


シエラの瞳が、零を捉えた。


「——あ」


たった一音。


掠れた、人としての最後の声。


だが、その瞬間。


零には分かった。


シエラの瞳の奥で辛うじて保たれていた何かが、完全に決壊した。


全身が大きく震える。


独占欲。


所有欲。


執着。


愛情。


番へ向けられたあらゆる感情が、堰を切ったように溢れ出した。


シュウ・ザムダの『渇愛』が、零の存在を触媒として、最後の一線を越えたのだ。


「あ……あぁ——」


シエラが、零へ向かって手を伸ばす。


鋭い爪に覆われかけた指先。


助けを求めているようにも、零を捕らえようとしているようにも見えた。


「シエラ、俺を見ろ!」


零は逃げなかった。


金色に染まった瞳を、真正面から見据える。


「俺はここにいる! だから——」


「あああああああああああッ!!」


シエラの絶叫が、言葉を掻き消した。


苦痛でも、怒りでもない。


抑えきれなくなった衝動が、肉体を内側から突き破る音だった。


シエラの身体が膨張する。


漆黒の鱗が、残されていた白い肌を覆い尽くした。


両腕は太く強靱な前脚へ変わり、指先から伸びた爪が石床を深く抉る。


翼がさらに巨大化し、空を覆う。


首が伸び、口元が前方へ突き出し、白い牙が並んでいく。下半身も形を変え、太くしなやかな尾が広場を薙いだ。


人の姿が崩れていく。


起源回帰の、最終段階。


竜族が理性も人格も手放し、血に刻まれた原初の姿へ完全に立ち返る。


数秒後。


東方の尖塔に一頭の漆黒竜が現れた。


体長は優に十五メートルを超えている。


全身を覆う黒い鱗が朝日を反射し、濡れた黒曜石のように鈍く輝いていた。


巨大な翼が一度動くだけで暴風が巻き起こり、崩れかけていた欄干がまとめて塔の下へ吹き飛ばされる。


金色の瞳にはもはや知性の光がない。


残っているのは、本能だけ。


番を求める本能。


番を独占しようとする本能。


そして、番へ近づくすべての存在を排除しようとする本能。


漆黒竜が天を仰ぐ。


直後に放たれた咆哮が、王都の空を震わせた。


歓楽宮尖塔が大きく揺れ、石床の亀裂が四方へ広がっていく。眼下の兵士たちが戦いを忘れ、恐怖に顔を上げた。


「ははっ……最ッ高じゃねえか!」


赤黒い槍を肩に担ぎ、シュウ・ザムダが恍惚とした笑みを浮かべていた。


「見ろよ。たった一つを欲しがるだけで、人はこんな化け物になれる」


《魔槍クレイヴィング》の穂先が、漆黒竜の鼓動に合わせて脈動する。


「欲望は弱さなんかじゃねえ。人を今の自分より先へ進ませる、唯一の力だ」


先ほどまでの軽薄さが消える。


シュウ・ザムダの声に宿っているのは、自らの信仰を語る者の揺るぎない確信だった。


「求めるものがあるから、人は強くなる。執着があるから、限界を越えられる。何も欲しがらねえ奴は、何者にもなれずに腐っていくだけだ」


シエラの瞳が、零へ向けられた。


やがてシュウ・ザムダの口元に、軽薄な笑みが戻る。


「で、お前がこいつの欲しがってる番か。なるほどな。命懸けで独占したくなるくらいには、いい男ってわけだ」


「お前が、シエラをこうしたのか」


零の声が低くなる。


だが、怒りに任せて飛びかかることはしない。


漆黒竜となったシエラから、目を逸らさなかった。


「ああ。そうだぜ。けど、勘違いすんなよ?」


シュウ・ザムダが笑いながら、魔槍を零へ向ける。


「俺はこいつの中にあった欲を、ちょいと育ててやっただけだ。竜になったのも、お前を独り占めしたがってるのも、全部こいつ自身の望みだぜ」


「違う」


零は即座に否定した。


「シエラは、自分の意思で俺の隣にいる。欲望に支配されて、俺を奪おうとする奴じゃない」


「そーかよ。なら、本人に聞いてみろよ」


シュウ・ザムダが肩を竦める。


「言葉が通じればだけどな」


漆黒竜が、ゆっくりと零へ顔を向けた。


巨大な金色の瞳に、零の姿が映り込む。


喉の奥から、低い唸り声が漏れた。


敵へ向ける殺意とは違う。


求めている。


零を欲し、零に触れ、零を自分だけのものにしようとしている。


しかし、零のすぐ近くには、シュウ・ザムダがいる。


番へ近づく異物。


排除すべき敵。


漆黒竜の顎の隙間から、黒い炎が漏れ出した。


「シエラ」


零は、静かにその名を呼んだ。


金色の瞳が揺れる。


ほんの一瞬だけ、その奥に、青い光が灯った。


だが、その光はすぐに掻き消された。


漆黒竜が一歩、零へ近づく。


巨大な前脚が石床を砕くが、そこに攻撃の意思はない。


触れようとしている。


番である零の存在を、確かめようとしているのだ。


しかし金色の瞳の奥では、矛盾した衝動がぶつかり合っていた。


近づきたい。


独占したい。


守りたい。


自分のものにならないのなら、壊してしまいたい。


「さて——番の少年」


シュウ・ザムダが魔槍を構え直す。


「お前、どうする?」


「……何?」


「逃げれば、こいつはお前を追う。街を壊して、人間も魔族も踏み潰して、お前を捕まえるまで止まらねえ」


穂先が、漆黒竜へ向けられる。


「戦えば、番であるお前自身の手でこいつを傷つけることになる。抱きしめて落ち着かせようとすれば、その爪と牙に引き裂かれるかもしれねえ」


軽薄だった声が、突然低くなる。


「選べよ。何も失わずに、欲しいものだけ手に入れられると思うな」


それは単なる挑発ではない。


欲望こそが、人を現在より先へ進ませる。


何かを強く求め、そのために代償を支払う覚悟を持った者だけが、自らの限界を越えられる。


それこそが——シュウ・ザムダの信仰だった。


「さあ、見せてみろ」


再び、軽薄な笑みが戻る。


「お前の欲は——何を捨てて、何を選ぶ?」


零は答えなかった。


漆黒竜となったシエラだけを、真っ直ぐに見つめる。


「シエラ」


金色の瞳の奥で、青い光が揺れた。


「お前が何を欲しがっていても構わない。俺に触れたいなら、触れればいい。傍にいたいなら、そう言えばいい」


一歩、零から近づく。


「だが、他の誰かを傷つけてまで俺を独占したいなんて、お前は思わない」


漆黒竜の喉が震える。


零は、もう一歩踏み出した。


「俺は知ってる。お前は、自分の本能に従うだけの竜じゃない」


その言葉に、金色の瞳が揺れた。


青い光が再び灯る。


だが直後、《魔槍クレイヴィング》が激しく脈動した。


「——ッ!」


シエラの喉から、苦痛に満ちた咆哮が迸る。


黒い竜炎が溢れ出し、零の足元を焼いた。


凄まじい衝撃が尖塔を貫き、罅割れていた石床が大きく崩れる。円形広場の半分が、轟音とともに地上へ落下していった。


零は身体能力を増幅し、残された足場へ跳ぶ。


舞い上がる瓦礫と粉塵。


半壊した尖塔の上で、漆黒竜が翼を広げる。


番を求める咆哮が、再び王都を震わせた。

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