第九十四環 「渇愛の龍皇」
——人界・東方、歓楽宮尖塔。
風が唸っていた。
尖塔の頂上は、吹き曝しの円形闘技場を思わせる造りになっている。
罅割れた石床。崩れかけた欄干。
その外側には、果てしない人界の空が広がっていた。
空は、本来ならシエラの領域だ。
誰よりも速く、誰よりも自由に飛べる場所。
だが——
「……っ、何……これ……」
空色の髪が激しい風に乱される。
黒い竜角が微かな光を放ち、背中の翼は無意識のうちに大きく展開されていた。
シエラの青い瞳が、目の前に立つ男を睨みつける。
四聖剣、第二席《集諦剣》——シュウ・ザムダ。
鍛え上げられた長身の男。
その手には、赤黒い槍——《魔槍》が握られている。槍の穂先は心臓のように脈打ち、不気味な赤い光を放っていた。
「竜族かよ。ははっ、こりゃ当たりを引いたな」
魔槍を肩に担ぎ、シュウ・ザムダが笑う。
獣のような目が、シエラの内側まで見透かすように細められた。
「お前、すげえぞ。腹ん中が渇きでいっぱいだ。澄ました顔してるくせに、随分と欲深いじゃねえか」
シエラの身体が小刻みに震えていた。
恐怖ではない。
もっと厄介な何かが、身体の奥から湧き上がっている。
零の匂い。
零の温もり。
零の声。
角を撫でられた時の、指先の感触。
番の存在が、シエラの意識を埋め尽くしていく。
「『渇愛』。お前が一番欲しがってるもんを、ちょっとばかし強くしてやる力だ」
シュウ・ザムダが、槍の柄で肩を叩く。
「まあ、ちょっとで済むかどうかは、お前次第だけどな」
穂先が脈動するたびに、シエラの中で零への想いが膨れ上がった。
番が欲しい。
触れてほしい。
傍にいたい。
自分だけを見てほしい。
誰にも渡したくない。
ルシアにも。
レイラにも。
クオンにも。
そして——リリスにも。
「やめ……っ! これ、私の感情じゃ……!」
「いや、お前のだろ?」
シュウ・ザムダが軽薄に笑う。
「俺は何も植えつけちゃいねえ。元からあった欲を、我慢できねえくらいデカくしてやっただけだ」
「違う……! 零は、私の物じゃない……!」
「綺麗事だな。だったら、なんで他の女に触れてほしくない? なんで自分だけを見てほしいと思う?」
「——っ」
「図星かよ。分かりやすいな、お前」
笑い声が、風の吹き荒れる尖塔に響く。
だが、次の瞬間。
シュウ・ザムダの表情から、笑みが消えた。
「欲望だけが、人を成長させる」
低く、真っ直ぐな声だった。
「もっと強くなりたい。もっと愛されたい。誰にも負けたくない。あいつを手に入れたい。そういう欲があるから、人は今の自分を越えようとする」
魔槍の石突きが、石床を叩く。
「理性だの倫理だのは、欲を諦めた連中が自分を慰めるために作った鎖だ」
赤黒い光が、シエラの心臓と同調する。
「だから俺は、その鎖を外してやる」
シュウ・ザムダの顔に、再び軽薄な笑みが戻った。
「遠慮すんなよ、竜女。お前が欲しいもん——全部、欲しがっちまえ」
魔槍の脈動が強まる。
「さあ、もっと渇け」
シエラの青い瞳が揺らいだ。
瞳孔の奥から滲み出した金色の光が、青を少しずつ侵食していく。
「——ぁ……あぁ……っ!」
膝が折れた。
両手が石床につき、その指先から鋭い爪が伸び始める。
黒翼が大きく広がり、腕から肩へ、漆黒の竜鱗が次々と浮かび上がっていった。
体内の魔力が、本人の制御を離れて膨張する。
(駄目……!)
シエラは必死に、本能を押さえ込もうとした。
三日間の訓練で、ようやく掴んだはずだった。
本能を否定するのではなく、その中に理性を溶かす。
竜である自分と、零の隣にいたいと願う自分を、一つの存在として受け入れる。
だが今は、その理性さえ『渇愛』の餌にされていた。
零の隣に立ちたい。
もっと強くなりたい。
誰にも負けたくない。
その願いが歪められ、起源へ還る力に変換されていく。
(違う……! 私は、こんな形で強くなりたいんじゃない……!)
口を閉じようとする。
歯を食いしばり、舌を噛んででも声を止めようとした。
それでも、シエラの唇が勝手に動いた。
「黒き……竜は——」
喉から漏れたのは、自分の意思とは無関係な声。
低く、重く。
まるで内側に眠る別の何かが、シエラの口を借りているかのようだった。
「やめ……て……!」
両手で喉を押さえる。
それでも、声は止まらない。
「月闇の山より——飛び来たる」
東の空が、急速に暗くなった。
尖塔を中心に黒雲が渦巻き、翼から溢れ出した漆黒の魔力が天を覆っていく。
シュウ・ザムダは魔槍を肩に担いだまま、その光景を愉快そうに見上げていた。
「ははっ。いいじゃねえか。そのまま全部、吐き出しちまえよ」
「違う……! これは、私じゃ——!」
「いいや、お前だ」
軽薄だった男の声が、唐突に低くなる。
「己の欲から目を逸らすな。欲望だけが、今のお前を越えさせる」
《魔槍クレイヴィング》が強く脈動した。
赤黒い光がシエラの全身を貫き、残されていた理性を本能の底へ沈めていく。
シエラの両手が、力なく石床へ落ちた。
「輝ける蛇は……その翼に、亡骸を載せる」
その声から、苦痛が消えていく。
代わりに響いたのは、冷たく荘厳な、竜の声。
黒翼が限界まで広がった。
翼膜を走る漆黒の魔力が空間を引き裂き、尖塔全体を激しく揺らす。石床に亀裂が走り、欄干が耐えきれず崩れ落ちていった。
「来いよ」
シュウ・ザムダが、嬉しそうに槍を構える。
「お前の欲が、どこまでお前を高みに連れていくのか、俺に見せてみろ」
シエラは応えない。
完全に金色へ染まった瞳が、虚ろに空を見つめている。
その唇が最後の真名を紡いだ。
「原初真名——《龍皇》」
背後に、巨大な竜の影が浮かび上がる。
人の形を保ちながらも、そこにいる存在は既に人ではない。
渇き、奪い、焼き尽くす——原初の黒竜。
「——《起源回帰》」
直後。
理性を失った龍皇の咆哮が人界の空を震わせた。
◆
同時刻——第三城壁前。
リリスの眉が、深く寄った。
東の方角から膨れ上がった魔力。
その性質は間違いなくシエラのものだった。
だが、そこには本来あるはずの理性も、自制も感じられない。
ただ番を求め、目に映るすべてを焼き尽くそうとする、飢えた竜の衝動だけが渦巻いている。
「……シエラが起源回帰した」
リリスの声に、焦りが滲む。
「しかも、本人の意思じゃない。シュウ・ザムダに、無理やり引きずり出されてる」
零が東の尖塔を見た。
遠く離れた空を、巨大な黒雲が覆い始めている。
このまま完全な竜へ戻れば、シエラは敵味方の区別を失う。
シュウ・ザムダだけではない。
周囲で戦う魔族も、人間も、すべてを焼き尽くす。
リリスは即座に決断した。
深紅の瞳が、零を真っ直ぐに捉える。
「零——東へ行きなさい」
迷いのない命令だった。
「今すぐ、シエラを止めて」




