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第九十三環 「届かぬ冥后」


——人界・西方、天命塔。


ルシアは、荒い呼吸を繰り返していた。


黒い魔女帽子の縁が汗で額に張りつき、ダークレッドのツインテールは激しい戦闘によって乱れている。


対するドゥ・マーガの衣服には汚れ一つない。


「精緻。実に精緻な魔術操作でございます」


優秀な生徒を褒める教師のような、柔らかな声。


「貴女が魔界最強の魔導師と称される理由、よく理解できました」


「だったら……その余裕ぶった笑顔を崩してみなさいよ!」


ルシアの右手から紅蓮の火球が放たれる。


中心温度は数千度を超え、着弾すれば石造りの尖塔さえ融解させる一撃。


火球がドゥ・マーガへ迫る。


三メートル。


二メートル。


一メートル——。


その直前で、炎は自然に軌道を変えた。


男の頬を掠めることすらなく、その横を通過して塔の外へ消えていく。


「それなら——!」


左手から蒼白の雷撃が迸った。


光に近い速度で空間を走り、ドゥ・マーガの胸部へ迫る。


しかし、雷は眼前で二つに枝分かれし、左右の石床を抉った。


ルシアは両手を打ち合わせる。


六つの魔法陣が前後左右と頭上に展開され、氷槍が一斉に射出された。


回避できる隙間はない。


だが一本目は右へ、二本目は左へ。三本目は頭上を抜け、四本目と五本目は互いに衝突する。


最後の一本は、命中する直前に砕け散った。


「あり得ない……!」


「『唯一正道』」


ドゥ・マーガが杖を掲げる。


「火球が拙僧を焼く未来。雷が拙僧を貫く未来。氷槍が拙僧の命を奪う未来——そのいずれも、正しき結末ではございません」


「正しいかどうかなんて、誰が決めるのよ」


「拙僧でございます」


あまりにも穏やかに、男は言い切った。


「正しき道はただ一つ。それ以外の可能性は、誤りとして排除されなければなりません」


天命杖が軽く振られる。


「——ッ!」


ルシアの後頭部で、鋭い衝撃が炸裂した。


視界が白く弾け、身体が石床を転がる。魔女帽子が脱げ、口の中に血の味が広がった。


振り返っても、背後には誰もいない。


ドゥ・マーガは正面から一歩も動いていなかった。


「どこから……攻撃したのよ……!」


「どこから、という過程に意味はございません」


男は諭すように答える。


「拙僧の攻撃が命中する。それが正しき結末であるならば、世界の方が、そこへ至る道筋を整えてくださいます」


ルシアの攻撃は当たらない。


ドゥ・マーガの攻撃は、必ず当たる。


防御も回避も、成立する前に、誤った未来として排除される。


「まだ、お続けになりますか?」


「……何が言いたいのよ」


「これは試練でございます。過ちを認め、正しき道へ立ち返ることができるか。拙僧は、それを確かめているのです」


どこまでも優しい眼差し。


「どうか降伏してください。そうすれば、これ以上の苦痛を味わう必要はございません」


「……一つだけ、よく分かったわ」


ルシアは魔女帽子を拾い、乱れた髪の上から深く被り直した。


杖を支えに、立ち上がる。


「あんたみたいな奴に、私の正しさを決められるくらいなら——死んだ方がましよ」


杖の石突きを、強く床へ打ちつけた。


巨大な魔法陣が、天命塔の頂を覆う。


真紅、蒼白、漆黒、黄金。


異なる属性を示す無数の術式が幾重にも重なり、塔全体を震わせた。


「正しい道が一つだけ? そんな退屈な世界、こっちから願い下げよ」


ルシアは静かに息を吸う。


脳裏に浮かんだのは、遥か昔より魔女の血に受け継がれてきた詩。


「|二重に、二重に《Double, Double》——|苦しみよ、災いよ《Toil and Trouble》」


周囲の魔力が激しく脈動する。


「炎よ燃えろ(Fire Burn)。|大釜よ——滾れ《Cauldron Bubble》」


紅蓮の炎がルシアを包み、その内側で蒼白の雷と漆黒の影が渦を巻いた。


空間が軋み、石床へ亀裂が走る。


「原初真名——《冥后(ヘカテー)》」


背後に、巨大な三重魔法陣が開いた。


「——《起源回帰(オリジネーション)》」


世界から——音が消えた。


次の瞬間。


真紅の魔力が、爆発的に解き放たれる。


夜を思わせる漆黒の霧が空を覆い、その中に無数の魔法陣が浮かび上がった。


炎、氷、雷、風、光、闇。


あらゆる属性の術式が、星々のように天を埋め尽くす。


ルシアの真紅の瞳には三重の魔法陣が刻まれ、漆黒の衣には血のような紋様が走っていた。


人として体系化された魔術の枠を脱ぎ捨て、魔女が最も畏れられていた起源へ立ち返った姿。


冥府の魔術を統べる者——《冥后》。


「素晴らしい」


ドゥ・マーガは初めて天命杖を両手で握った。


「これほどの力を秘めておられたとは。拙僧は、貴女を僅かに見誤っていたようでございます」


「後悔しても遅いわよ」


ルシアが右手を掲げる。


数百を超える魔法陣が、一斉にドゥ・マーガへ照準を合わせた。


それぞれ異なる速度、軌道、発動条件を持つ魔法。


一つの未来を回避しても、その先に別の魔法が待つ。どの道を選んでも、必ず攻撃へ行き着く、魔法による迷宮。


「これなら、どの未来を選んでも同じよ」


指先が振り下ろされた。


「全部まとめて、焼き尽くしなさい!」


数百の魔法が、一斉に放たれる。


紅蓮の炎が空を覆い、蒼白の雷が隙間を縫う。氷槍が退路を塞ぎ、真空の刃が足元を刈り取った。


回避できる空間はない。


防ぎ切れる数でもない。


魔界最強の魔導師が、起源の力まで解放した絶対殲滅魔法。


ドゥ・マーガは、静かに目を閉じる。


「何度申し上げても、同じことでございます」


天命杖が黄金の光を放った。


「正しき道は——ただ一つ」


轟音。


光と炎が、天命塔を呑み込んだ。


石床が砕け、塔全体が揺れる。爆炎が空へ立ち昇り、衝撃波が周囲の雲を消し飛ばした。


今度こそ直撃した。


逃げ道など、存在しなかった。


だが——


爆煙が晴れる。


その中央に、ドゥ・マーガは立っていた。


無傷で。


穏やかな笑みを、少しも崩さないまま。


数百の魔法は、すべて彼の周囲を抉っていた。


あるものは直前で逸れ、あるものは互いに衝突し、あるものは発動する前に術式が崩壊している。


ただの一撃さえ、彼の衣服には触れていなかった。


ルシアの真紅の瞳が、大きく見開かれる。


起源へ還った。


魔界最強の魔導師として、持てる力のすべてを解放した。


それでも——


「起源回帰をしても……私の攻撃が、届かない……!?」


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